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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 6

高3を控えた春。前回の冬季講習で浮かれていた私は、美術室で1人でデッサンをしていた。鉄矢からの課題を黙々とこなす。途中どうやって描くかわからない部分があれば、東京藝大や多摩美武蔵美の合格作品を見ながら描いていた。

 

私が受けようとしている大学は、よくダサいと評される。卒制も合格作品も垢抜けておらず、田舎だからだろうか。藝大や私立美大と比べると貧弱に見えるものが多い。なんでこんなに下手なのに人気なんだろうと思うことが多かった。実力に倍率が見合っていないように思える。

 

そのため、東京の学生が描いているようなタッチに寄せようとしていた。服でいう抜け感?

 

鉄矢に意見を仰ぐ時も、どういう描き方をしたらいいのかが知りたかった。しかし、そういう聞き方をした時の鉄矢の回答はいつも曖昧で、なにがいいたいのか分からない。テクニックさえ教えてくれればその通り描くのに、なんではぐらかすのだろう。

 

不満だったが、仕方ないので描く。参考を見ながら真似した部分は自分で気に入ったし、合格作品らしさが出たことを喜んでいた。この方がカッコいい。問題ない。

 

いつのまにか、穴熊さんに言われたことは忘れて、手元ばかり見て描いていた。

 

 

 

 

意気揚々と受けた春期講習は、最悪だった。

 

前回よりも確実に量をこなしているのに描けない。いや、描けてはいるのだが評価されない。描き終わった後は自信があるのに、合評ではなぜか隣にある黒い絵の方が評価される。あんなの、田舎っぽくて嫌だ。なのに先生はどうしてそっちを褒めるんだ。

 

褒められないのがまず嫌だったし、1番を取れないのも嫌だった。正直言って、講習会に私より上手いと思える人はいない。藝大に受かれそうな子なんて皆無だ。しかし、評価を貰えていない自分が実際に存在している。

 

スランプなのかもしれないと思った。

 

春期講習の結果があまりに散々だったので、やり方を変えてみた。デッサンらしく見せようとするのをやめて、見えるものを全部描いてみることにする。描き方も線を薄く描いてから、目に付いたところを順番に、塗り潰すように。これは漫画的な描き方だから受験ではご法度とされているのだが、一度あらゆる人の意見を無視して自分だけのルールでやりたかった。

 

48時間くらい掛かって、二枚できた。剣道具とショッピングバッグの絵。

 

過去最高の出来だった。完璧と言えるくらい緻密で、近くからも遠くからも息を呑むほどの見栄え。誰にも文句言わせたくなかったし、これ以上描けるところなんてない。懸念は作業時間くらいのもの。

 

鉄矢に見せると褒められた。言葉では"良いぞ"と言うだけだったが、顔でわかる。ニヤニヤしていたからこれで正解だ。誰でもいい、ギャフンと言わせたい。

 

個人的にアポを取り、穴熊さんにも見せに行った。彼はいつもより不機嫌そうに、ドアを体で開けながら出てきた。あいさつも、"おう"とだけ。彼に対する苦手意識を再確認しつつ、できた絵を渡す。

 

穴熊さんは、しばらく絵を見つめて言った。

 

「藝大受けたら?」

 

彼は私を一瞥もせずそう言った。次の言葉を待つも、無言。…それだけ?ほかになんか言うことないの。もっと、すごい!とか、君なら合格できるよとか、そういうのはないの。

 

今思えば、彼なりの褒め言葉だったのかもしれない。でもその時はなぜか、無性に腹が立った。いや、そりゃ藝大受けたいよ。でもうちには金がないんです。その説明、散々しましたよね。だから隣県受けようとしてるんです。就職のために親も説得してデザイン科にしたんです。受験するだけで費用がかかるから、うちは記念受験すら無理なんです。私の話、ちゃんと聞いてましたか。

 

口論になった。早口でまくし立てると、穴熊さんも言い返してくる。でも言ってる意味がよくわからない。なんで素直に認めないんだ、これはいいものだろ。なんで不服そうなんだよ。ぶっきらぼうに言われると、腹立つんだよ。怒りで言葉が滑る。

 

欠点が無いなら褒めるのが普通だと思ったし、穴熊さんの顔は嫌悪に満ちてる。そんな顔で上手いは上手いよとか言われても、含みがあるじゃないか。はっきり言ってくれよ。この絵はいいの?わるいの?

 

「僕の絵のどこが良くないのか、ちゃんと言ってください。」

 

強い口調で詰めた。穴熊さんがこちらに目線を合わせる。

 

「これはデッサンじゃない。」

 

穴熊さんの顔は、見たことのない男の顔になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

納得いかない。私は希望校に受かれるかどうか、それだけが知りたいのに、周りの大人はいつもはぐらかす。穴熊さんは元々油絵を専攻していて、デザインには詳しくない。本人も面談の時にデザイン科の二次試験の対策は教えてあげられないと言っていた。しかし、分かってるならさっさとデザイン出身の講師を雇えばいいと思うのだが、予算なのかコネなのか、そのような人は見受けられなかった。地方の弱みを感じ、またイラつく。

 

喧嘩したついでに予備校を変えようと思った。

 

県内にはもう一つ候補となる予備校がある。そこは隣町にあるこじんまりとしたところ。鉄矢が言うに、そこではデザインも教えているらしい。携帯で少し調べたが、確かにデザイン科合格者も少なからずいる。場所は遠いが、他に選択肢がないので仕方ない。ちょうど夏期講習も迫ってきていたので、質問も兼ねてデッサンを持っていくことになった。

 

アトリエについたとき、出迎えてくれたのは白髪の女性だった。顔と髪型が樹木希林を若くした感じ。スラリとした細めのパンツに、ロングシャツを肘まで捲っている。声は通っていて落ち着いているので、品がいい人なのだろう。今思えば芸術肌が丸出しの見た目だが、当時の私にはただの"おばさん"に見えた。

 

樹木希林は優しい口調で建物を案内してくれた。一階は主に色彩や立体造形を学ぶ部屋。二階はデッサン室。

 

穴熊さんの予備校は室内もコンクリートがむき出しで、大手のような圧迫感がある。こちらはフローリングだし、天井も低め。色合いに明るい茶色が多いので、教室のような雰囲気だ。美術予備校は往々にして物で溢れているが、ここはモチーフ用の倉庫は屋外にあり、背の高い家具は置いていない。そのため、前回ほどの窮屈さはなかった。小学校のそばにあった児童館を思い出す。

 

その日は生徒が数えるほどしかおらず、樹木希林とはゆっくり話ができた。

 

ここは夫婦で経営しているらしい。旦那さんは二階で合評中。希望校の試験には詳しく、過去の合格者も多い。卒業生とコンタクトを取っているため、内部事情もある程度は把握しているとのこと。しかも、彼女は私の希望校の卒業生だった!俄然興味が湧く。

 

話を聞くだけでも有益そうに思える。ここならスランプを解消できるなにかが見つかるかもしれない。

 

私は持ってきたカルトンに挟まっている二枚のデッサンを取り出した。すると希林は、ちょっと待ってね。と言い、机の方に向かいだした。どうやら眼鏡を探しているらしい。

 

「あったあった。」

 

希林はそう言って、私の座っている向かい側のソファに腰掛けた。眼鏡を掛けた彼女は、目が豆みたいに縮んでいた。どうやらかなり度が強いらしい。彼女は机の上に広げたデッサンを見て、しばらく黙った。

 

私はこれまでの経緯を説明した。穴熊さんに絵のことで言われたこと、自分では完璧に思えてること、この描き方のなにがいけないのか分からないことを伝えた。希林は静かに相槌を打っている。

 

「君は視力がいいのね。」

 

突然、彼女は呟いた。正直、なに言ってんだ?と思った。なぜなら私は目が悪いから。小学生から矯正していて、裸眼だとぼやけてなにも見えないほどだ。

 

「いや、めっちゃ悪いです。ぼく、視力0.03以下なんで。」

「今は裸眼?」

「コンタクトしてます。」

「するとどれくらい視えるの?」

「1.0-1.2くらいですかね。」

「じゃあ私よりいいじゃない。…ってそうじゃなくて!」

 

彼女は左手を口の前に持ってきて振り、笑顔で止まった。…ノリツッコミ!!!噛み合わない会話にへんな空気が流れる。

 

希林が言うには、確かにこれだと写真と言われても仕方ないとのこと。見えるものを全部描いたらそれが1番いい絵になるんじゃないんですか?と私が尋ねると、そうではないと言う。彼女は写真とデッサンの違いを説明してくれたが、当時の私にはよく理解できなかった。不服そうな私を見て、希林は言った。

 

「目を10秒くらい、ぎゅーっと閉じてからゆっくり開けてみて。視界がぼやけてるでしょ?その印象のまま描いてみて。」

 

言われた通り私も目を細めてみると、確かにぼやけている。でもこの印象のまま描くってどういうことなのか。これじゃあ細部が描けないじゃないか。

 

そうこうしてる間に、旦那さんが降りてきた。

 

旦那さんはタミオ先生と呼ばれているらしい。希林と同じく白髪混じりの髪の毛。口髭をたんまり蓄えて丸い眼鏡をかけている細身の男性。素でホッホッと笑うので、冗談みたいなおじさんだ。"君"の呼び方が"ちみ"でも全然おかしくないくらい、陽気な喋り方をする人。希林と二人で並んでいると、背格好も近いので絵本の中の人みたいだ。

 

タミオ先生にもデッサンを見てもらうと、彼は朗らかに笑った。年齢や学校、家族のことなどを聞かれ、それとなく話した。具体的になにを言われたかは覚えてないが、彼の顔が嬉しそうだったのでなにかしらを褒められたような気はする。

 

「また来なさい。」

 

タミオ先生に背中をポンと叩かれて、私はアトリエを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高3の夏、美術部ではまた秋のコンクールに向けて部員がせわしなく動いていた。この頃、私はインターネットで大失敗をし、現実では絵のスランプに陥るという二重の悲劇に見舞われ、半端ノイローゼのようだった。しかし、高校では無口だったのでストレスを外に出さないように淡々と周りの人間と接していた。

 

だが、それも限界に近づいていた。

 

ある時、林くんが部活に来なくなった。2年までは藤岡と3人で頻繁に遊んでいたにも関わらず、コンクールの時期から彼は生徒会にそっちのけになった。

 

私の高校は商業だったので、11月にある学祭は盛大な行事だった。生徒会が主体となり多くの県内企業と協賛する。林くんはきっと忙しかったのだろう。しかし、当時の私は、彼はコンクールをやりたくないから生徒会に行ったのだと思い込んだ。事実、春のアイデアの段階では林くんはあれこれ思案を練っていた。両立も、やろうと思えばできるはずだ。思いつきを言葉にするのはいいことだが、私は口先だけで行動に移さない人は嫌いだった。

 

林くんはかなりマイペース。藤岡とよく3人で下校したが、基本寄り道しかしない。必ず近くのトイザらスや洋食屋にいき、なにかしらを購入して意味もなく話す。そして滞在時間が長い。名目はテスト勉強だといいながら、実際は携帯をいじりながらクラスの誰々が付き合っただの、学校の誰が好きかだの、そう言った話で夜までふかしていた。

 

林くんが幽霊部員になってひと月ほど経っただろうか。彼は部室に顔を出しに来た。私は、絵を描きに来たのかなと思ったが、彼はただ忘れ物を取りに来ただけらしかった。

 

「がみさん、デッサン頑張ってね〜。」

 

そういって飄々と、林くんは生徒会室に戻っていった。私はなぜか、彼の後を追った。たぶん、腹の虫の居所が悪かったのだと思う。

 

林くんが生徒会室に入ったのを見計らい、私も生徒会室の扉に手を掛けた。強めに開けると、林くんは椅子に座り、誰かと話している様子だった。だが私の存在に気付くと、びっくりして椅子から落ちそうになっていた。その場にいた全員が後ずさりする。生徒会のみなさんも、私がなぜここに来たのか分からないようだった。

 

どよめき、緊張が走る。カーテンが風で揺れている。

 

「林くんさ、なんで絵描かなくなったの?飽きた?」

 

声を抑えめに聞いた。怒っているのはきっとバレていたと思う。林くんは言葉に窮している様子だ。

 

「描かないなら美術部辞めなよ。」

 

私はそう詰め寄って、自分で悲しくなった。別に、そんなの人の勝手だと思う。やりたい人だけやれば良い。本気度が低い文化部なんて、強制部活参加の学校生徒からしたら帰宅部と同じだ。分かってる、けど、言ってしまった。

 

もうなんか、涙目になりながら喧嘩した。私は林くんじゃなかったらこんなことは言わなかったと思う。彼はそれなりに絵が描けて、男子で、まともに話せた初めての生徒だったからそれなりに心を許そうとしていた。しかし、以前から我慢していた軽はずみな言動も私の中で溜まっていったのも事実だ。

 

やるせない、気持ちになってしまった。

 

 

 

 

 

 

それ以来、男子がいなくなった美術部の部室に、藤岡が遊びに来るようになった。

 

私はスランプだったので、デッサンが描けない時は趣味で漫画を描いていた。題材は教師や同級生を面白おかしくイジるもの。四コマから始まり、ギャグテイストになったり、突然バトルものに展開したり、ラブコメが始まったりなどとにかく滅茶苦茶だった。当時読んでいた少年ジャンプの影響が色濃い。しかし、完結できたことはなく、テスト用紙などの裏にシャーペンで描くような手軽なもので満足していた。

 

ある時、藤岡に描いた漫画を見せてみた。彼は感動した様子で、漫画の余白に同級生の似顔絵を描きだした。

 

同級生の俣本さんの絵だ。上手い。そして、似ている。画力的には下手だが、ヘタウマになっており親近感が湧く。ちびまる子ちゃんみたいなタッチだった。ふと思い立った私は、藤岡に話を考えてみて欲しい、と伝えた。すると彼はその場でサラサラとネームを書き始めた。

 

できたネームは、王道だった。コマ割りもまるで出来ていない陳腐なものだったが、話自体は悪く無い。これは…!と唸る。

 

私は中学の時まで結構真剣に漫画家になれるのか考えていた。しかし、結局は挫折した。理由は話が書けなかったからだ。イラストに慣れた人が漫画を描きだすと、見ていられないイタいものになりがちだが、私もそうだった。

 

漫画のネームは通常、キャラクターを棒人間の状態で留めて話を練っていく。私はなまじ絵が描けるばかりに、ラフで留められない。いきなりペン入れ前の下書きのような状態になるのだ。そうなると、途中で話の収集が付かなくなっても修正が出来ないため、描き上げる気自体がなくなってしまう。

 

藤岡のネームは、絵以外はよく出来ていた。私は勝手に彼のネームで作画をしてみることにした。

 

できたものを彼に見せると驚かれた。絵が上手いと褒められ、自分でも上出来だった。絵の上手さと漫画の上手さは同一ではない。藤岡のラフを元に作ったキャラは妙にひょうきんで、愛着が持てた。ヘタウマというやつだろうか。このキャラはモデルとなったクラスメイトの名前をとって『またもとさん』と命名され、今でも私の落書きに登場する女の子になっている。

 

楽しんでいたが、本業はおろそかになったままだった。

 

 

 

 

 

 

 

藤岡のおかげで、夏までの私はある程度息抜きができていた。だが受験までの日にちが差し迫っていて、焦る。夏休み期間中は藤岡もあまり部室に来なくなり、私は男子1人で女子の中で黙々と絵を描いていた。

 

何かに集中しているときほど雑音は気になるもの。また一つ、私を揺るがす騒動が起きた。

 

高3の晩秋。コンクールも終わり、部室内は閑散とするはずだった。しかし、なぜか女子生徒が部室内を占領していた。私はデッサンモチーフの前で頭を抱えながら唸っていた。

 

 

こいつら、

                  う

                     る

                        さ

                           い。

 

 

彼女らはずっと銀魂の話をしている。もちろん、ろくすっぽ絵も描いていない。真面目に描いていた生徒も談笑に耽り、不真面目だった奴らほど声を大にして騒ぐ。ダラダラと漫画やアニメの話を延々、えんえんと繰り返す。

 

確かに銀魂は私も読んでいたし、7巻までは単行本も買った。でもその先はただのキャラ愛だけの漫画になってしまい面白く感じなかった。だいたいの漫画は10巻前後までは劇的に面白く、それ以降は失速する。もちろん一部は除く。例えばBLEACH、あれは20巻がピーク。

 

こいつらの話は高2くらいから聞き飽きていた。せめて違うカップリングや作品の考察でもすればいいものの、口を開けば同じキャラを褒めるばかり。しかも妙に通ぶって、焼き鳥には塩!とでも言わんばかりに逆張りをしている。が、そのせいで言ってることが度々矛盾している。しかも部員の誰もそのことに口を出さない。ただ、笑っているだけ。

 

私はもう一年以上黙ってきた。だがもう限界だ。こいつらは専門学校や就職の推薦を受け悠々とあと数ヶ月を過ごすだけ。秋頃までに進路が決まらない人なんてこの学校にはほぼいないが、私は一般入試なのでまだまだ本気を出し続けなければならない。

 

中でも一匹、猿のように笑い声がでかい女傑がいた。性懲りも無く、手を叩いて笑う。

 

馬鹿を晒すな。銀魂の口調を止めろ!苛々して、つい口が滑った。

 

「少し静かにしてくれない?」

 

部室が不気味に静まり返る。部室の全員がこちらを振り返る。私はステッドラーを片手に突っ立っていた。

 

ついに、言ってしまった。もう後は、早口でまくしたてるいつもの流れだ。私はこれだけ耐えてきました。あなたたちの声があると集中できません。黙れとは言わないが静かにしてほしい。みんなで話し合いたいのです。それらを本気という名の熱に込めて伝えた。

 

普段無口な奴が急に喋ると大抵ロクなことにならないが、その時も敢え無くそうなった。

 

「テメェ、何様のつもりなんだよッ!!!、!!!!!!!!」

 

風船を割ったみたいに甲高い声で、精一杯ドスを効かせた女傑が叫んだ。机を蹴り飛ばしてこっちに向かってくる。ぶっちゃけビビったが、私は男だ。ここで怯むわけにはいかない。

 

女傑は私の胸倉をガッと掴んだ。

 

「ァア?!!おい、テメェ、まじ何様なんだよ!!!!!」

 

さっきと同じセリフだ。恐らく、語彙力がない奴が怒ると大体こうなる。私はすでにこいつが憎くて憎くて仕方がない。背丈は私の肩くらいしかないこの猿女を黙って見下した。

 

殴りたい。ブン殴りたい。

 

しかし、ここで殴った場合を考えろ。恐らく教師が駆けつける。話をつけさせられる過程で男女の体格差の話題が必ず出るだろう。そうなった時、不利なのは間違い無く私だ。手を出した瞬間、形勢は逆転する。いくら正論を突きつけ、暴力で逆ギレされても男女間では拳を交わしてはいけない。そういう不文律があると、17年間生きてきて学んだはずだった。停学なんて食らってみろ、大学受験が一年遅れるかもしれない。そんなのは割に合わなさすぎる。

 

堪えろ。堪えろ。

 

こいつらは猿。論理は通用しない。絶対に、殴ってはダメだ。ただ、睨みつけろ。容赦なく、石にしてやれ。そのまま、ジッと、この馬鹿を見下すんだ。

 

私の胸倉を掴む手が、グリッと捻り上がる。

 

何秒経ったのだろうか。騒然とした部室内で睨み合った私と女傑に対して、部長が制裁に入ってくれた。

 

部長は私と並ぶくらい絵が上手い。残念ながらイラストの専門に行くようだったが、この人なら美大進学でもそこそこいいところへ行けるだろうと勝手に思っていた。この人が猿語を翻訳してくれたおかげで、今まで部活で様々な障害を乗り越えられてきたと思う。ちなみに女傑の絵はド下手だ。

 

「チッ」

 

思い切り舌打ちした女傑は、突き飛ばすように私のシャツから手を離した。その後、部長を中心に話し合いになり、双方に落ち度があることを認める空気になった。女子側は少し静かにすることと、私の方は言い方を柔らかくすることで同意した。

 

あの女傑は話し合いの途中、一切こちらを見ず、舌打ちや罵詈雑言を繰り返していた。

 

 

 

 

 

 

その日、帰宅した私は夕食の後に母に質問してみた。

 

「女子って殴っちゃダメなの?」

 

母はギョッとした顔でこちらを見た。

 

「…なんで。なんかあった?」

 

神妙な顔でそう尋ねられ、私は少し焦った。事を大きくはしたくない。

 

「いや、なんもないけど。」

「殴っちゃ、ダメだと思うよ。」

「なんで。」

 

私が間髪入れずに返すと、母は少し黙って考えてからこう言った。

 

「男は、女の子より力が強いから、ダメでしょ。」

 

語尾を強めに断言される。予想していたものの、正論を突き付けられるとやはり悔しい。

 

「…どうしても許せないってなっても、自分が男だって理由だけで、やっぱりダメなのかなあ。」

 

私は率直な疑問を捨て台詞のようにぼやいた。男は強い、女は弱い。暴力はいけない、正義は正しい。そんなことは当たり前で、なんの揺らぎもなかったはずだ。しかし、あの時の自分の怒りはそれをあっという間に壊してしまいそうなくらい、凶暴だった。

 

「それでも、ダメだと思うよ。」

 

母はそう私を諭した。わかった、私は"男"だから、"女"には優しくするよ。

 

 

 

…でもゲイは?

 

体は男だけど、心は?

 

男なの?女なの?

 

性別って、なに?

 

取り留めのない質問が浮かんだ。聞けるわけないが、聞かないと納得できるわけもない。いつもこうだ。ゲイであることを言わない以上、私は理不尽に言葉で抗う術を放棄しているも同然だ。

 

母はなにもいわずに、換気扇のスイッチをつけた。高速回転するプロペラ。マイルドセブンに火がつけられる。阿吽とも言えるその動きに合わせて煙が吐かれる。薄く引き伸ばされた煙は、モアレが起きているファンの中に静かに吸い込まれて透明になった。