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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 14

大学2年の冬。この季節、私の下宿がある地域ではかなりの雪が積もる。窓の四隅から漏れる空気が、部屋全体を凍らせる。底冷えするような寒さと地元では表現する。足元からくる冷えは、いくら暖房をつけていようとじわじわと部屋全体を寒さで飲み込んでいく。私は素足のままダークグレーの床を踏みしめると、いつものようにパソコンの前の椅子に腰掛けた。凍える手でパソコンの電源を入れ、ポケットからスマートフォンを取り出す。インターネットに接続されていないと、いてもたってもいられない。社会から断絶されたような、途方もない不安が襲ってくるので、いつだって電子機器は手放せない。パソコンで好きな音楽を流しながら、手元の端末で検索を掛ける。そうだ、世間はもうすぐクリスマスだ。

 

聖なる夜。日本では恋人たちが同じ時間を過ごすためにあるイベント。クリスマスプレゼントなんて、もう何年ももらっていなかった。だが近所の家を飾る電飾やネットニュースはいじらしく、私にこの季節の到来を告げる。私は、普段なら冬休みを使って実家に帰省するところだった。だがちょうど半年ほど前、母にゲイであることを告げて以来実家に戻れなくなった。正確には、戻るわけにはいかなくなったのだ。

 

合わせる顔がない。

 

それは、申し訳なさからくる感情では無かった。母に対する恨み、憎悪に似た黒い感情。会えばそれらを吐き出してしまうのが分かっていた。もし今の状態の私が母に会えば、私の顔は歪み、変形して母に拳を振るうかもしれない。それどころかキッチンに立ち、包丁を手に取り母の首元を裂いてしまうかもしれない。そうなる前に、家族との関係を断つことで私は自分自身を守っていた。

 

しかし帰省もせず、他に予定もない10日あまりの休暇は、私にとって地獄だ。夏休みもそうだった。どこかに旅行するにはお金が足りず、欲しいものも買えない。行くところといえば空腹を満たすためだけに行くスーパーと、コンビニくらい。暇を持て余し、インターネットで検索をかけ、無料で読める情報で脳を働かせる。掠れた声で小言を言いながら、ベッドに横たわり眠くなるまでスマホを見続ける。そうして目が乾き、充血してきたら倒れ込むようにして眠る。睡眠時間は、12時間以上。

 

学校が始まれば気が楽だった。少なくとも課題があり、友人と話せる。嫌でも授業があれば起きなければならないし、学校に行けば体も疲れて眠くなれる。少なくとも、ネットに齧り付いて漠然とした時間を過ごすことは無かった。

 

だが、今は後期の授業も半分が終わる。虚ろな目で考える。私はなぜ、こんなにも無意味な時間を過ごしているのか。働きもせず、芸術に打ち込むこともない、無為な時間を過ごして何もしなかった一日を後悔するのをあと何回繰り返せば気が済むのだろう。私は、どうしてこんなことをしているのだ。

 

考えに考えた。思考が一回転して地べたに尻餅着くまで考え、結局のところ簡単な答えに行き着いた。私は、寂しいのかもしれない。

 

繁華街のイルミネーション。電光掲示板が描くネオンサイン。煌びやかな栄華。それらが私の網膜に、うっすらと滲みを作る。憧れや希望や嫉妬心が心の底から湧いて、叫び出したくなる。私はここにいる、誰か見てくれとネットに書く勇気もない。私の居場所だったかつてのインターネットは、自罰的な居心地の悪い場所に変わってしまっていたからだ。評価されない気持ちなんて書く必要がないと、当時の私はそう思っていた。

 

だから、その日も今までと同じように1人の夜を過ごすつもりだった。しかし、暗雲のように寂しさが私を覆う。もうすぐ20歳になる。それなのに、このまま枯れていくだけなのか。何もしないまま、誰にも気持ちを打ち明けないまま、1人で死んでいくだけなのか。

 

スマートフォンを検索する指を止め、ホーム画面に戻る。そうして、アプリケーションの画面を開く。カラフルなアイコンが乱雑に散りばめられる中を掻き分け、検索窓にワードを打ち込む。黒いアイコンが大きく表示された。

 

元々、ゲイの世界に出会い系のアプリがあることは知っていた。同世代の情報に飢えていた私はインターネットを覗き見し、今の若いゲイの世代がどういう交流方法をとっているかを調べていた。そこに、気になる情報を見つけたのだ。

 

顔写真を登録すれば、位置情報から近くのゲイを表示してくれて、メッセージのやり取りもできるアプリ。mixiのように紹介制でもなく、誰でも自由に登録できる、無料のもの。今の私にピッタリだと思ったが、顔を晒す勇気がなくずっと遠ざけていたものだった。

 

それがクリスマス前になって、突然思い出されたのだ。まだ間に合う。始めるなら今しかない。体型は細く頬はこけていていかにも不健康な私だが、若さだけはまだある。売れるものがあるなら、それで勝負するしかない。私にも仲間が欲しい。ゲイの世界に居場所を作りたい。

 

そう思って、出会い系アプリを開いた。初めにメールアドレスを登録する画面が現れる。そこにメールを打ち込み、パスワードを設定する。すると、位置情報を共有しますかというポップアップが表示される。少し迷ったが、この際学校の友達にバレても仕方ないと思い、許可した。次に、名前や身長、体重を入れる欄。プロフィール文章を入力する欄に短く、はじめましてと記入する。そして最後に、顔写真をアップする場所が出てくる。

 

いよいよか、と思った。正直なところ、出会い系アプリには顔を晒さない人も大勢いる。風景の写真や、動物の写真、自慢の筋肉の写真など。ただ私の場合は顔以外に売れるものが特になかったのと、そもそも顔写真を登録しなかった場合ロクな出会いに恵まれないだろうという算段を立てていたので、最初から顔を出す選択肢しかなかった。

 

諦めて写真フォルダの中から使えそうな写真を探す。私の場合、無表情だとかなりげっそりして見えるので、なるべく笑顔の写真を探す。となると、人と写っている写真しか無いので、他人が写っている部分をうまく切り取る。良い塩梅に自画像ができたら、色味を健康そうに見えるように橙色のトーンで調整する。そうして、笑顔の私の顔写真ができあがる。

 

アプリの写真のマークをクリックして、画像を添付する。アップロードされた写真と、プロフィール文を見比べ、違和感がないかを確かめる。よし、見栄えは良くなった。多少盛ってはいるが、これくらいは許容範囲だろう。これなら従順そうな、若者らしい元気のある印象を与えられるだろう。

 

写真を上げてからしばらくすると、私の携帯が震えた。黒いアイコンに、メッセージが来ましたという通知。予想より早く来た。とりあえず中身を確認しなければ。

 

見ると、風景の画像に英文でなにやら書いてあった。なんと書いてあったのかは読めないし、顔写真がそもそもない。ガッカリして、返事をせずにアプリを閉じる。

 

最初はこんなものか、と自分をなだめながら携帯の画面を見守った。その後も何通かメッセージは来たが、どれも怪しい見た目のアイコンだったり、下品な文章を送りつけられたりしたので返事はしなかった。私の落胆は大きくなる。

 

数日経って。クリスマス当日を迎えていた。クリスマスはアプリ内の人も人肌恋しくなるのか、人が入り乱れている様子が窺えた。そんな中、一通のメッセージが私に届いた。

 

「こんばんは。若いですね、よかったら今度お茶でもしませんか。」

 

見ると、目元は映っていないが首から下は褐色のネイビーのシャツを着た男のアイコンが表示された。年齢は、私より一回り上。目元が気になるが、悪くないと思った。私は返事をして、ある程度愛想の良いメッセージのやり取りをする。

 

「こんばんは。お茶いいですね、ぜひ。」

「こちらこそぜひ。距離近いですね、大学生さんですか。」

「そうです、丘の上の大学に通ってます。」

「そうなんですね、あそこの学生さんで知り合いいますよ。よかったら紹介しますよ。」

 

知り合いなど絶対に会いたくなかった。私はやんわりと断りのメッセージを送る。相手からは冗談ですよと取って付けたような返答が返ってきた。私も語尾に笑をつけて返す。

 

「直近で空いてる日ありますか?」

 

ネイビーシャツの男にそう言われた。いきなりだと思ったが、まどろっこしいやり取りが無いのはありがたい。手っ取り早く会った方が気が楽だった。私はもう冬休みに入っていたのでいつでも空いているので、すぐに返事をした。

 

「そちらの都合に合わせますよ。」

「それじゃあ、今度の日曜はどうでしょう。年末だから忙しいかな。」

「大丈夫ですよ、その日で。実はリアルするの初めてなんで、緊張してます。」

「そうなの!初めてが自分で良かったのかなーなんて。」

 

話が少し弾む。相手は同じゲイで、私より少し年上だ。きっとリードしてくれるだろう。顔の全部が分からないのが心残りだが、メッセージをしている感じでは危ない感じもない。この人なら大丈夫だろうという甘い見通しを立て、誰でもいいから会ってみたいという私の欲望を満たす相手として利用させてもらうことにする。

 

「それじゃあ、今度の日曜で。また近くなったら連絡しますね。」

 

私たちはメッセージを終えた。今週末に会うなら、急がなければ。私はすぐに美容院の予約をし、週末に備えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学からバスで20分ほどの場所にある繁華街。その中にあるチェーン店の喫茶店の前で、私は待っていた。グレーのパーカーに上からコートを羽織って、ポッケに手を突っ込みながら携帯をいじる。時刻は、13時を少し過ぎた頃。

 

昼食はまだ済ませてはいなかった。空腹を感じ、時計を何度か見直す。もう待ち合わせの時間は過ぎているが、連絡が来ない。もしかして、直前になって私と会うのをやめてしまったのかと不安がよぎる。顔写真が良くなかったか、それともチャットで何か失礼なことを言ってしまったか。思い当たる節を全て洗って、冷静になる。大丈夫だ、私は失礼になるようなことは言っていないし、第一向こうもノリが良かった。この流れでドタキャンなんて、いくらなんでも出会う気がなさすぎる。向こうは年上だし、きっとお店探しか何かで時間がかかっているのだろう。私は初めて出会い系アプリで出会う男性に対して、過剰な期待をしないようにと平静を保っていた。

 

時刻が13時半に差し掛かろうとしていた。私はしびれを切らして、アプリで男性にメッセージを送った。

 

「こんにちは、今日ですよね。僕はもう着いてます。着く時間わかったら教えてください。」

 

なるべく優しく、時間なんて気にしていませんよと言うスタンスでやんわりとメッセージを送った。すぐに既読が付いた。

 

「すみません、遅れちゃって。もう着きます。」

 

その返事を見て、ひとまず約束をすっぽかされていないことに安堵する。しかし、もう着くとは言ってもこの雑踏の中、どうやって相手を見つけ出せばいいのだろう。しばらく辺りを見回して、それらしき人が確認できなかった私は、男性にまたメッセージを送った。

 

「僕はグレーのパーカーの上に青色のコートを羽織ってます。下は黒色です。」

 

服の色を伝えるのは、我ながら良いアイデアだと思った。こうすれば人前で目立つ行動を取ることもなく、互いを認識することができる。すると、男性からメッセージが来た。

 

「ありがとう、見つけました。」

 

どこだろう。もう一度辺りを見渡すと、私の方を向きながら近寄ってくる、小柄な男性がいた。ドット柄のポロシャツに黒いジャケットを羽織り、ベージュのパンツに白いスニーカーを履きながら、腰を振っている。

 

ん?と思った。私が待ち合わせたのはこの人なのだろうか。やけに小さく、手足はずんぐりむっくりしている。写真で見た感じだと大人びて男性的に見えたが、こちらに寄ってくるその人は、脇をしっかりと締め、腕を横に振り、腰を左右に動かしながら歩いてくる。ちょうどバーレスクのダンサーが観客を誘惑するような、大胆かつセクシーな動き。

 

猛烈な違和感が私を襲った。心臓の鼓動が早くなり、冷や汗をかく。実物と写真、全然違うじゃないか。初めて目元を見たが、控えめに言ってアプリに書かれていた年齢より10歳ほどは上に見える。顔もかなりむくんでいて、頬肉の盛り上がりは細い目元を更に見えづらくしている。にやにやと笑みを浮かべながら、男性はこちらに手を振っている。

 

「はじめましてぇ〜ん。」

 

男性が口を開いた時、語尾がくねっと上向きに反り返ったのを見逃さなかった。私は動揺するも、とにかくなにか返事をしなくてはいけないと思い、男性に話しかけた。

 

「はじめまして、がみといいます。〇〇さんですよね。」

「そーです〜初対面だからどんな子が来るのかと思って緊張してたけど、若々しくて良いわね〜。」

 

話せば話すほどオネエだ。手指の所作なんかもいちいち女性らしく、しなやかなのが癇に障る。

 

「今日はよろしくお願いします〜。」

 

そう言って男性は小脇に抱えたハンドバッグをしっかりと握りしめ、踵をかえして細い小道を進んでいった。私もその後を追う。

 

着いたのは裏路地にあるバーだった。外観は少し怪しい気配があり、初見では絶対に立ち寄らないであろうと思った。中に入ると私と同年代くらいの男の子が1人立っているだけで、中はがらんとしていた。まだ昼間だからだろうか。

 

「ここは昼はランチ営業してるバーだから結構穴場よ。私はお酒飲むけど、あなたはどうする?」

 

せっかくなので飲むことにした。この頃の私はお酒が飲める機会に出くわすと、必ずと言っていいほど泥酔する癖があった。母のこと、彼のこと、バイトのこと、それらを忘れられる幸福な時間として酒を逃避に使っていた。ひとまず、互いにビールを注文する。

 

「かんぱーい。初めまして、よろしく〜。あっボーイ君も久しぶり〜。元気だった?えっ、私?私はバリバリ元気よ〜。今日は久々に若い子捕まえちゃったからテンション上がってるわ〜飲むわよ〜。」

 

ボーイ君と呼ばれた男の子は、へらへらしながら私と会釈をした。話を聞くに、高校を卒業してからずっとこの店で働いているそうだ。ちゃんと働けている同年代を見るだけで心がちくりと傷む。私にはできないことを、目の前の彼はやっているのだ。

 

「この子はマスターに見初められてここで働いてるの。あれ、そういえばマスターは?」

「今奥にいます。呼んできますね。」

 

そう言ってボーイ君はカウンターの奥に入っていった。厨房だろうか、しばらくして奥から40代くらいの男性とボーイ君が一緒になって戻ってきた。

 

「やだ〜久しぶり〜。元気だった?私はもう超元気よ〜。」

 

全ての語尾に〜が付く喋り方は、テレビで見るオネエの方とそっくりだった。違いは、黙っていれば普通のおじさんにしか見えないことだけ。

 

「初めまして。若いね、うちのボーイ君と同い年くらいじゃないかな。」

「自分21っす。」

「あ、そしたらほぼ一緒ですね、僕はもうすぐ20歳なので。」

「やだ〜2人とも若すぎ〜。私が一杯奢るから、あんたたち飲みなさいよ。」

「いいんすか!あざっす。」

 

私、男性、マスター、ボーイ君とで改めて乾杯した。一体何の集まりなのだろう。初対面の人だらけで最初は少し緊張したが、お酒を入れることによっていい具合にほぐれて、バーの中は賑わい出した。私たち以外の客がいないのも相まって、男性のトークはどんどん弾む。

 

「なによ〜ちゃんと前見えてるわよ〜……って、誰が切り傷みたいな目をしてるですって?!」

 

切り傷みたいな目、要するに細過ぎて前が見えていないのではないかと言うことなのだが、言われた本人はやけに嬉しそうだった。私も最初は男性に対して苦手意識を持っていたが、それはアプリでの印象との落差があったからで、実際にこうして話すと、まぁ悪い人ではないのだろうとは思った。なによりアプリで会うのが初めてな私にとっては、店を案内してくれるというだけでありがたい存在ではある。

 

お酒も進み、いい具合に酔いが回ってきた。時刻も夕方近くに差し掛かり、辺りも暗くなり始めていた時、男性が言った。

 

「この後二軒目行くけど、どうする?」

 

私はその言葉を待っていたかのように、頷いた。今日はもう、飲んで飲んで飲み散らかそう。明日も休みだし、構うものか。酒で上がったテンションを保ち続けるため、二軒目の店にも着いて行くことにした。

 

「そしたらマスター、悪いけどチェックで。」

 

そう言って男性は、マスターの前で指をバツ印にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私と男性はお店を後にした。その辺の店で夕飯を軽く食べた後、繁華街の裏路地の方をどんどん進んでいく。昼間はそこまで思わなかったが、夜になると雪で湿ったコンクリートに雑居ビルの光が反射して、都会の様相を浮かび上がらせる。ネオンサインが怪しく明滅し、道端に転がったビニール袋や空き缶は、昨日この街で起こったであろう出来事を象徴するようにのさばっている。すれ違う人たちはほとんどが男女で、肩を寄せフラフラと歩いている。

 

男性は迷うことなく入り組んだ道をすいすいと進んでいく。そして、とあるビルの奥のエレベーターまで進むと、2階のボタンを押した。私はソワソワしながらエレベーターが降りてくるのを待つ。

 

「ここは私の行きつけの店だから。大丈夫、みんな優しいから、あなたもすぐ馴染めるわよ。」

 

男性の励ましの言葉を受け取りつつ、私は酒の余韻に浸っていた。この人が言わなくてもなんとなく、今から行くその店がゲイの人が集まるバーであることはわかっていた。人生初のゲイバー、一体どんな店なのだろう。エレベーターの扉が開くと、そこには『BARボン』と書かれた看板が立てかけられた、白い大きな扉があった。

 

扉を開けると、からんからんと鈴が鳴る音がした。

 

店内は入り口からは奥のテーブル席が見せないような構造になっていた。奥に進むと、10畳ほどの空間に、カウンターとテーブルが等間隔に並べられている。薄暗い店内にはオレンジのライトが床から照らされていて、カラオケボックスに似た雰囲気を醸していた。実際、テレビも二つあり、カラオケの選曲画面が映し出されている。ここで歌うこともできるようだ。

 

鼻腔に濃いタバコの匂いがまとわりつく。ソファーや壁に染み込んだヤニの香りが部屋中を覆っている。その奥に、20代後半くらいの茶髪の男性が1人、カウンターには恰幅のいいぱっちりとした二重が特徴的な男性が立っていた。

 

「いらっしゃいませ。あら、ヒロポンじゃない。この間はどうも〜。」

「ボンちゃん〜来たわよ〜。ほら、こないだ言ってた若い子、連れてきたわよ。」

 

ヒロポンと呼ばれた男性は、小慣れた様子で手前にある戸棚を開け、ジャケットをハンガーに掛けた。私も恐る恐るコートをハンガーに掛ける。店主はボンちゃんと呼ばれているらしい。入り口にかけてあった店名が分かりやすく名前になっているのだ。ボンちゃんは、とろんとした瞳で私を見た。

 

「初めまして。お名前は?」

「あっ、えっと……がみです。初めまして。」

 

私はアプリに設定している自分の名前を言った。

 

「そう、がみちゃんね。年齢は聞いてるから知ってるわよ。若いわね〜。ちょっとタク。新人の子よ。挨拶して。」

 

ボンちゃんがそう言うと、奥の方にいた茶髪の男性がこちらを見た。豹柄の服を着て、ロングの茶髪を靡かせて、つまらなさそうにタバコを咥えている。

 

「どうも〜タクです。よろしくね。」

 

タクさんの声はやけにしゃがれていた。酒焼けだろうか、ダミ声で喋る姿は若干の威圧感があり、私は怯みながらも返事をした。

 

一番右のカウンター席にヒロポンが座り、その横に私が座った。ボンちゃんはカウンターの奥で何かを探している様子だ。

 

「はい。どうぞ。」

 

渡されたのは透明な、ガラスでできた重々しい灰皿だった。ヒロポンはそれを目の前に置かれると、ポケットからタバコを取り出して吸い始めた。私は吸わないのでいいです、と小声で伝えると、ボンちゃんは私の前に置いた灰皿をカウンターの奥にしまった。

 

「お酒は何にします?ヒロポンはいつもの鏡月よね。」

 

ボンちゃんは私たちが座る横辺りにある戸棚を開け、酒の瓶を取り出した。瓶にはネームプレートが掛けてあり、そこにはマジックでヒロポン☆と書いてあった。ボンちゃんはそれをヒロポンの前に置くと、グラスを二つ用意した。冷凍庫の前で氷をアイスピックで割りながら、グラスに入れる。コースターを私たちの前に添え、氷が入ったグラスを手元の方にやる。

 

「この子はとりあえず、私とおんなじのでいいわ。私の瓶から注いで頂戴。」

 

ヒロポンがそう言うと、ボンちゃんはグラスに鏡月を注いだ。三分の一くらい入ったところで、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、注ぐ。マドラーをグラスに挿れると、乾いた音が店内に響いた。

 

鏡月の水割り。私はヒロポンと小さく乾杯をして、グラスに口をつけた。清涼感のある冷たい酒が喉を通る。胃がひんやりと冷たくなり、液体が体内に入ったことを感じる。初めて飲む酒だが、飲みやすい。喉を何度か鳴らし、半分ほどを飲み干す。

 

ボンちゃんはお通しを作っていた。柿ピーが小皿に盛り付けられ、冷蔵庫から大きめのタッパーを取り出すと、中身を小皿に取り分けた。それらを私たちの前に置く。ほうれん草のお浸しだ。

 

お通しをつまみながら、ボンちゃんと話した。ボンちゃんはこの店のママを始めて、3年ほどになるらしい。それまでは同じ街の別の店舗で店子をやっていて、今の店の系列店のママに雇われ店長になったそうだ。

 

「ボンちゃんはね、顔はミニラに似てるけど優しくてほんといい奴だから。」

 

ヒロポンが赤みがかった顔でそう言った。ミニラってなんだ。そう思って携帯で検索をかけると、ゴジラの子供の画像が出てきた。なるほど、言われてみれば確かに似ている。ふくよかな感じとか、垂れ目で二重の感じとか、そっくりだ。

 

酒があると話が弾む。私は大学のことや寂しくてゲイアプリを始めたこと、今日ヒロポンと初めて会ったことなどを話した。ボンちゃんは眠そうな目で、頷きながら話を聞いていた。

 

同じゲイであると言うことだけで、どこか安心できる。周りは皆年上ばかりで、一番若いと言うのもあってか勢いに任せてよく話した。小一時間くらい経っただろうか。ヒロポン鏡月の瓶も中身がほとんどなくなっていた頃、ボンちゃんが言った。

 

「あんた、いいわね。気に入ったわ。今度お店に入りなさいよ。」

 

私は、呆気に取られた。店に入るって、店員としてお店に立つってことか、私が?ゲイアプリでデビューしたばかりの私にとって、かなり飛躍した話のように聞こえた。

 

「いや、無理ですよ!僕自信ないです。」

「大丈夫よ、ちゃんと給料は払うから。時給千円、どう?あんたバイト探してたんでしょ。ちょうど良いじゃない。物は試しと思って、一回だけ。ね?」

 

確かに、バイトを探していたのは事実だった。時給千円、以前のバイトよりも高い。金に目が眩んだ訳ではなかったが、実際母にお金をせびるのも罪悪感で居た堪れないのも事実だ。ものは試し、一回だけなら……。

 

私は観念したように、ボンちゃんとヒロポンとLINEを交換した。来週の土曜、さっそくお店に立つことになった。服装などは全てボンちゃんが用意してくれるらしい。

 

「それじゃあ、よろしくね。」

 

ボンちゃんは私に、そう微笑み掛けた。