がみにっき

しゃべるねこ

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確かな柔らかさについて

人間は、好きでもない人をわざわざ好きになろうとはしないし、誰かを好きになりなさいと脅されても妥協できないものだ。皆に理想があり、王子様やお姫様がいて、それで世界は絵本のような教訓を信じて回っている。それなのに、どうして働くということについては簡単に妥協できてしまうのだろう。

 

就活って、好きでもない人にわざわざ告白して振られてるみたいだった。なんとなく、みんながカッコいいって言ってるから私もその人を好きになろうと努力したけど、本当は全然好きになれなくて。でもどうしてか、告白しなきゃいけない空気みたいなものが出来上がっていて。見よう見まねでラブレターを書いた。会ってみたいと言われた。そんで顔を見て、やっぱりごめん。と言われてしまった。

 

でも恋は成立させなきゃいけないものだから。だから次に好きになれそうな人を探した。前の人の方がカッコいいけど、他を選ぶよりはこの人がマシだろうって思える人に告白した。OKを貰えた。こんな私でも受け入れてくれる人がいるから、頑張って好きになろう。この人こそが私の生きがいだから。そう信じてみたけど、ある時ふっと思う。ああ、私ってこの人と、このあと何十年も過ごすんだって。

 

マシだから付き合うとかできなかった。私は私の理想像がはっきりとあるのに、ぴったりの人は現れなかった。ずっと待ってたのに、来なかった。だからみんなの真似して告白してみたけど、振られるの正直わかってたし。なんかどっかで、こんなこともう辞めたいって思ってた。皆が皆の理想像とくっつくユートピアを、どこかで信じてしまっていた。

 

運良く、理想に限りなく近い相手を見つけてゴールインする同級生が羨ましかった。彼や彼女は、自分が受け入れてもらえることをほとんど当然と思えているようで、眩しかった。人って、生まれた時は皆ああだよなあ。泣けば誰かがミルクをくれて、何も生産せず周りに迷惑をかけてばかりの存在なのに、ただそこにいるだけで受け入れてもらえる。愛などという美しい言葉で、全てを許してもらえる。そんな存在が、ただ時間が経って身体だけ成長して、中身はそのままなのに、誰もそのことを許してくれない。中身なんて見てくれない。全部、表面がどんな形をしているかで判断される。表面が内部を形作るものなのに。

 

刃物のきらめきのように残酷な世界だと思った。今までの自分は、ものすごく運が良かったんだと思う。なぜか絵が描けて、そのことを許してくれる環境があって。自分には才能がある!なんて錯覚しちゃって。でも就職活動の場に置いてそんなこと全然褒めてもらえなかった。

 

「絵は達者だけど、それで?」

 

それでって言われても、私にはそれしかなくて。それしかないからそんなポートフォリオにしかならなくて。皆みたいにデザインが好きとか社会貢献に意義を感じるとかそういうのもなくて。ただ、なんとなく映えそうだったからここを選んだだけで。本当はただ色や形や線がおもしろくなるそのことが楽しくて、そのことに溺れていたかっただけだから。考えなくちゃいけない大事なことから逃げて、自分の遊び場からでたくない子供だったから。ずっと夢を見ていたかっただけだから。

 

"上手くやる"なんてことは自分には無理で、できるか、できないかでしか無かった。誰かの求めるものに自分を寄せたら、なんか辛いの知ってたから。私は私にしかできないことを探してた。でもみんなは、既にできることを淡々とやってた。人間には役割があるから、全然無理してなかった。私は、ずっと無理してた。

 

バチが当たったのかもしれない。全能感で周りを見下して、自分だけのお城を作って、そこで裸の王様をやってた私にきっと神様は怒ったのだろう。石でできたお城はあっという間に砂になって、剥き出しの地面に叩きつけられた。肉体は複雑に破壊され、指先さえまともに動かせない状態だったけど、それでも死ぬことは許されなかった。はっきりとした意識は肉体という檻の中で初めて不自由さに気づいた。私は私の身体が泣いていることに気づいていなかった。頑張れば、努力したら報われるからって自分を言い聞かせていた。完全に動かなくなるまで働かせ続けた。だって社会の一員になりたかったから。誰かの役に立ちたかったから。誰しもが羨む人生を、私も欲しかったから。

 

無理しなきゃ社会の一員になれないなんて、なんて世界だよ。クリエイティブな仕事は都会にしかないし、美大にきてから初めてサブカルを知った。こんなに魅力的な世界があるんだってこと、友達は嬉しそうに見せてくれた。なんども小さく生まれ変わって、その度違うものを好きになって。全てが鮮やかな一瞬として写真みたいにきれいだった。こんなきれいな世界があるのに、なんで就職なんてしなきゃいけないのか、全然わからなかった。私はもっと探さなくちゃいけなくて。もっと自分の中の美しいをやりたくて。それなのに、大学で4年目になったら、それをまとめてくださいって言われた。人生の結果発表だよって、無邪気な顔で言われた。ここから先は真っ暗な崖だよ。皆んな勇気を出して飛び込んでるんだから、君もほら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一つ確かに言えるのは、人生は地続きなんだってこと。電車みたいに便利なものを使うと、駅から駅の間は空白みたいに感じるけど、歩くと景色のグラデーションに驚く。

 

人生もそうで、近道するとそれがわからない。便利な成功体験をみんな鵜呑みにしてるから、歩くということを忘れてしまう。受験や就職や結婚をクリアしたら、あとは何も考えなくて良いハッピーな世界が待ってるって、そう思えてしまう。実は全然そうじゃなくて、いや皆本当は分かってて。人生は途方もなく伸びやかな階段を登り続けていく作業だってこと、本当は知ってて。目の前のことに必死で忘れているだけなんだ。こんな当たり前のことが平気で隠されている社会だから、壁にぶち当たるまで気付けない。心が折れて初めて、実感となって降りてくる。暗がりにいかないと明るさに気づけないように、なぜかいつまでも自分のいる場所だけは大丈夫って、どこかで信じてしまっている。

 

全部台無しになってからようやく、地に足がついている実感を得られた。1番の真っ暗闇の中でしか、正気を保っていられなかった。深海の魚がわずかな光も捉える目を持っているように、確かな光を探した。本当を見つけて、泳いだ。地上では見つけられないようなか細い光こそが私にとってのきらめきであり、安らぎだった。そんなことはこの社会にとってはどうでもいいことで、吹けば消える灯火で、それでもよかった。確かな柔らかさだけが、本当のことを知っていた。

 

人間関係はどこまで行っても、分かり合えるという錯覚で。仲良くなればなるほど分かり合えないことがわかってしまって。でもそんな中でも、本当に僅かだけど一緒に踊ってくれる仲間がいて。私ってきっと、そういう出来事に生かされているんだろうな。そう思えるってことはたぶん、これからも生きていけるんだろう。なんやかんや、ままならんわけだけど、それでも見てくれる人はいるのだ。

 

やればやるほどまとめるのは困難になって、ただの軌跡みたいになる。キュレーションなんてできなくなる。だから私は、その都度私の中から生まれる発露を残さなくちゃいけない。まとめるなんてできないから。人が生きたという証なのだから。何をしても切り抜かれ、まとめられ、わかりやすくされてしまう世の中だったとしても、それでも自分の目を、肌を、心を、信じたい。直感で全部やりたい。"なんとなく"が大正解になりたい。できるだけみんなを嫌いにならないように、私の中の愛の形を、できるだけのやり方で、伝え方で、美しくしたい。わたしはみんなのことが本当は大好きで、尊敬してて、仲間に入れてほしいから。そんなことしかできない私だけど、そんなことくらいならできちゃうから。誰のことも見てないようで、実はしっかり見ていて、気にしている。気にしているからこそどうでもいいなんて言えちゃう。本当はどうでも良くないけど、他人は変わらないのだから自分の役目をやるしかない。そんな当たり前のことすらも言葉にしないと忘れてしまうような、私は人間なのだ。