新進気鋭の映像ユニット、Hurray!が手掛けた映画、『数分間のエールを』を観たので、感想を書く。
※ネタバレ有りなので未視聴の方は注意
物語の舞台は金沢。映像制作に興味を持ち始めた主人公の朝屋彼方(CV:花江夏樹)と、売れないミュージシャン兼教師である織重夕(CV:伊瀬茉莉也)、主人公を支える二人の友人である外崎大輔(CV:内田雄馬) ・中川萠美(CV:和泉風花)の四人が織りなす青春物語──
創作をテーマにした作品は多くある。有名なもので『ブルーピリオド』や『かくかくしかじか』などの美大受験もの。または『SHIROBAKO』や『響〜小説家になる方法〜』などの業界もの。はたまた『けいおん!』『ぼっち・ざ・ろっく!』といったガールズバンドものがブームメントを引き起こしたのも記憶に新しい。
『数分間のエールを』はミュージックビデオをテーマとした物語だ。似た作品に、『映像研には手を出すな!』が思い浮かぶが、ぴったりとは当てはまらない。誰しもが目にする表現の中で、まだ人目についていない分野を選んだのは成功していたのではないか。例えそれが作者のパーソナリティに由来するものだったとしても、他人と違うことはそれだけで武器になる。
主人公の朝屋彼方はどこにでもいる普通の学生、と思いきや実はそんなことはなく、かなりしっちゃかめっちゃかの映像狂いだ。スマホで好きな音楽になんとなく映像をつけて、それをインターネットに投稿したのが始まり。そこから映像制作にのめり込み、高校生にも関わらず大掛かりな機材を導入するなど、寝食構わずに熱中している。そのせいで学業に支障をきたしていそうな描写さえある。
そんな主人公はある日、豪雨の駅のロータリーで一人で弾き語りをする女性、織重夕に出会う。彼女の音楽に魅了された朝屋彼方はその場で感想を伝えようとするが、不審者扱いをされて逃げられてしまう。彼女の落としたギターピックを握りしめ、翌日に学校へと向かう。
すると、担任として現れたのは新人教師の織重夕だった。運命的な出会いを果たした主人公は、彼女にこう頼み込む。
「あなたの音楽に映像を付けさせてください!」と。
・登場人物の希薄さ
物語の冒頭は、文字に書き起こすとありふれた学園ものにも思える。しかし、織重夕が駅のロータリーで歌う姿は画的に優れており、視聴者の興味を引くことに成功している。彼女の歌声は切実で、苦しみのある表情から必死に絞り出される声は、語らずとも彼女の苦悩が滲み出ている。アーティストのYUIを彷彿とさせる、苦しみながら歌う姿は可憐で美しい。
そんな彼女の音楽性に感銘を受けられる冒頭の十数分だけでも、この映画に価値を見出す人はいるだろう。しかし、その後の展開はどうか。最初にイメージできたこの物語の奥行きは、その後の演出が続くにつれて間延びしていく。冗長で、退屈なものになってしまう。出だしに思い切りアクセルを踏んで、後のことは考えていませんでしたみたいな、薄味な展開が続く。
例えば友人である外崎大輔との会話のシーン。朝屋彼方は全編を通して、徹頭徹尾映像脳であり、映像のこと以外になんの興味もありませんといった不器用さを披露する。そんな主人公に対して、友人である外崎大輔は慣れた口調でたしなめる。だが、それだけ。本質的な注意はしない。この表面的な友情は、いかにも男子高校生らしいと言えばそれまでだが、掘り下げとしては物足りない。本当に友達なんだろうか?と思うくらいには淡泊だ。
そして、主人公のもう一人の友人である中川萠美は、華美な見た目をしている。学生バンドをやっているから、という理由だけでは説明できない程に現代的な装飾にこなれている。しかし、周囲の人物は誰もそのことに突っ込みを入れないので、この世界では主人公たちとモブとの間には、視覚的な優位性が施されているのだろう、と推察できる。
この二人が物語にうねりを加え、主人公とヒロインの関係性を深掘りさせていくのかと思いきや、実際は違う。二人の描写が、余りにも弱弱しいのだ。
特に中川萠美の方。彼女は物語終盤で、朝屋彼方が自身でも気が付いていない彼の映像の良さを気付かせるシーンがある。しかし、それまでに彼女の活躍するシーンはほとんどない。登場すらしていない。途中でぽろっと顔を見せた時には、こんなキャラいたっけ?と思うくらいには影が薄い。見た目のアヴァンギャルドさと反比例して、彼女はモブに色を付けた程度の存在になっている。
そう思わせるのは、人物たちの台詞回しに意外性がないから。予想を裏切るような、ある意味でぎょっとする発言をする人物は、この映画には一人も登場しない。みなが場を弁え、空気を読んでいるかのような佇まいで話す。『台詞』が『台詞』になってしまっている。四人の登場人物にすらヒエラルキーが存在していると仮定するほどに、パワーバランスの偏った映画になってしまっている。
この映画は、モブの扱いが雑である。良い映画は、スポットライトが当たっている人以外にも人生があるのだと思わせてくれるが、これはその逆を行っている。モブの役割とは主人公に同調することではなく、毅然に行動することだ。勝手気ままに過ごしていること。時にはそれが物語の不都合(イレギュラー)になることもあるが、それが予想外の味付けになったりもするので捨ててはならない。空気を作らないモブなら、そもそも描く必要性すらない。
そして外崎大輔の方だが、彼と主人公の関係性は、中川萠美よりは触れられているが、それでもヒロインに比べると乏しい。物語の、曲で言うとCメロに当たる部分。朝屋彼方の作ったMVが織重夕に受け入れてもらえなかったときに、二人は仲互いをする。
「いいよなお前は、才能があって」
この台詞は外崎大輔の台詞ではない。主人公である朝屋彼方が、彼に向かって言った台詞だ。私はこれを聴いたときに、「そうなんだ」と思った。作り手が意識している以上に、唐突なシーンだったのだ。確かに回想として、外崎大輔が県知事賞を獲ったことは仄めかされていたが、しかしそれだけである。主人公と外崎大輔との間に、人間性を感じられるほどの深い掛け合いは描かれていない。そんな中でただ賞を取った人物、と説明されても白けてしまうだろう。私からすれば、才能があるのは外崎大輔ではなくて朝屋彼方の方だろうとしか思えなかったからだ。
そう、この映画の問題は人間がきちんと描けていないことにある。ではなぜ、観る人がそう感じるものになってしまったのだろう?
・主人公の人間性
まず第一に、織重夕以外のキャラクターの掘り下げが不足していることが挙げられる。悪く言えば、内面がない。『内面』という言葉を辞書で引くとこう書かれている。
1.外面に対し、物の内側。内部。
2.人の表面・外面に対し、精神・心理(の方面)。「―描写」
この場合の意味は後者になる。内面描写が足りないとは、一体どういうことか。
私は、物語に置いて人物の内面を決定付けるのは、設定やストーリーなどの『点』に値するものではなく、会話や所作などの『面』になるものにあると思っている。もっと言えば、『面』が重なり合って生まれる予想だにしない色合いが、その人物をキャラクター然とさせていくのだ。
『予想だにしない色合い』とは、偶然の産物だ。プロットやストーリー、人物設定などは、ある程度”狙って”作られるものだが、キャラクター性はそうではない。登場人物たちが物語の中で、作者の意図を超えた動きをしないと生まれてこないものだ。コントロールできているうちは、キャラクターはただの棒人間でしかない。
この映画における人間性とは、破天荒な朝屋彼方に、冷静沈着な外崎大輔、見かけによらず常識人な中川萠美、そしてミステリアスな織重夕。たったこれだけで説明できてしまう。キャラクターが平面的で、重層的ではないのだ。
簡単に言葉にできるものは、ある意味でつまらないものだ。私はこの映画を他人に勧めようとは思わない。なぜなら観てもらわなくとも、ある程度言葉で説明できてしまうから。知り合いに”わざわざ観てもらうまでの”必要性を感じられなかったのはひとえに残念である。正直、視聴者はMV制作の奥深さには興味がない。人間関係がどう転ぶのかが観たいのだ。そこを汲み取れていないのは致命的と言わざるを得ない。
唯一キーになり得たのは織重夕の存在だ。彼女の仕草や造形は、人を魅了するに充分な力を持っていた。だからこそ私は、この映画は最初から織重夕を主人公にするべきだったと言いたい。彼女からの視点で、周りの人間が関わり合っていく姿が観たかったと思う。
主人公に魅力がないのはこの映画を観た人なら分かってくれると思う。彼は映像を作ることに疑いがなく、能力も十全で、努力もでき、周りの環境にも恵まれている。何一つ悩むところがない。だったらそのまま突っ走ればいいではないか。彼を”わざわざ”物語にする必要がないのだ。ただの幸せ者を見守ってくれるほど、昨今の映画ファンは優しくない。
特に朝屋彼方が織重夕に付きまとうシーンにはひやりとさせられた。彼の動機はあくまで、『彼女の音楽に惚れたから』、それを架け橋にしているのは、主人公に『映像を作る能力があるから』、両者を結びつけるものとして、『ミュージックビデオ』がある。ここまではよく考えられている。
問題はここからだ。主人公は織重夕に、ほとんどストーカーじみた言動をする。彼女の動向を逐一調べ、行先に出向き、彼女にミュージックビデオを作らせて欲しいと頼み込む。……見方は悪いが、私はこの一連の行動を、男性の一方的な恋慕にしか思えなかった。織重夕の立場になってみれば、それがいくら作品を介したものであろうと、距離感もわからずに迫ってくる他人(特に異性)を怖いと思うのに無理はない。彼女に自主制作の映像を見せるというのも、なんのメタファーなのだろう?邪推ではなく、純粋にそう思った。朝屋彼方は織重夕の才能に惚れたのではなく、織重夕そのものに惚れていたのではないだろうか。
織重夕は売れないミュージシャンだ。九十九曲もの音楽を作れる能力がありながら、そのどれもが良い評価は受けられず、自身の音楽生命に区切りをつけるために百曲目を作った。しかし思いも虚しく、彼女は音楽で売れることができなかった。織重夕は音楽への道を諦めると同時に、『最後にどうしても歌いたかった』のだとして、誰に聴かれるでもない駅のロータリーで、孤独に歌った。
そんな孤独な人物の内面に、たかが数曲聞いただけの他人がぶしつけに自らの能力を誇示してくるのだから、気味悪く思えるのは仕方がないと思う。この映画から青春要素を取り除けば、主人公は単に倫理観に掛けた、変質的な人物として印象付けられるに違いない。
もちろん、作品内でそこへの違和感は回収していた。朝屋彼方は、織重夕に完成した映像を拒絶されるのだ。そのことを深く反省して、彼の成長物語が始まるのかとも考えた。しかし、実際のところそれも違った。
作品内で朝屋彼方がとった行動は、ひたすら彼女の音楽を聴くことだった。三曲聴いて作ったものを彼女がよしとしなかったのであれば、百曲全て聴こう、と。それがそもそもの誤りではないか。彼女が拒んでいたのは彼の作品ではなく、朝屋彼方の人間性そのものだから。それを受け入れさせるためのマジックとして、使われたのが『クリエイティブ』という小道具だったのは皮肉だ。
・作ることは偉いのか?
この映画の興行が振るわなかった理由として、同時期に上映された『ルックバック』の存在が挙げられる。あの映画も同じように、創作を通じた人との関わり合いを描き出したものだが、本作とは毛色が違っている。『ルックバック』にあって、『数分間のエールを』にないものとは一体なんなのだろう。
『数分間のエールを』を観ていて違和感を感じた部分がある。それは、登場人物たちがみな、周りからの評価を気にしているということだ。織重夕は作ることに喜びを感じながらも、それが社会的評価と結びつかないことに悩んでいる。朝屋彼方は彼女に気持ちが届かなかったことに落ち込み、周りの人間の言うことが耳に入らないでいる。外崎大輔ははっきりとした理由は描かれていないが、県知事賞を貰っても嬉しくなさそうだし、中川萠美だけは割り切っていそうだが、妙に弁えていることからなにかを諦めている風にも捉えられる。
そこまで気になるだろうか?生まれた時からインターネットがあって、不特定多数の人に自身の作品を見られるのが当たり前な環境に生まれ育てば、みなこうなるのだろうか。どうして純粋に、作ることそのものにフォーカスを当てられないのだろうか。
『ルックバック』の良かった点は、そこにあると感じる。登場人物たちが悩むのはあくまで身近な人間のことであり、ひいては創作を飛び越えた友情物語として読めるからだ。『数分間のエールを』はそうではない。登場人物たちはみな、人間を見ているようで見ていない。彼らが見ているのは、人間のずっと手前にあるものだ。もっと表面的で、薄っぺらいもの。
プライドがそうさせているのだろう。そしてそのプライドとは、『他人よりも優れていること』を誇示する気持ちだ。私は、この映画のテーマである『エール』とは、彼らが他者に向けたものではなく、『おれたちにエールをくれ』と叫んでいるのだと思えた。
作ることは、偉くない。誰しもができることであるし、特別な才能が必要なものではない。作りたいという気持ちは、子供はみな持っているし、それが失われるのは社会という評価に潰されてしまうから。もしこの映画が、そういった社会問題に向き合ったものであったならば、こういった感想はでなかったはずだ。『青春』という言葉に、制作者のグロテスクな感情を包み込んでしまったところは、誠に残念と言わざるを得ない。
そして危惧するのは、こういう物語が主流になっていくことだ。誰のことも脅かさず、清潔に見栄えよく整えられた人間模様を、まるで『物語である』と錯覚する人たちが増えていくことは、怖いことではないだろうか。
ソーシャルゲームのストーリーを、何割の人がまじめに見るのだろう。映画を倍速にしたり、タイプではない人をスワイプしたり、合わない人をミュートする。そうやって私たちはどれだけの物語を『スキップ』しているのだろう?この映画を観ていて、どうして左上にスキップボタンがないのだろう?と思った。それくらいに薄味で、出来ている風に見せることに成功しているこの映画は、一定の評価は得られるのだろう。しかしそこからはみ出す程の、強烈なリアリティはどこにもない。きっと制作者は、意図的に排除したのだと思う。この物語にふさわしくないものを、予め剪定したのだ。物語に違和を生む異端を排除する感覚は、現代社会のそれと酷似している。私は、物を作る喜びはどうかあなただけのものであって欲しいと思う。他人に認められずとも、作品はあなたの中で生きているのだ。もっと大事なことを、私たちは思い出す必要があるのではないか。
写真に写っているのは私の好きな自主制作映画です。好きな人には大体見せてる。