がみ日記

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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 16

アイデンティティ・ボックス』直訳で自分らしさの箱。私の大学で、3年次の最初に言い渡される課題だ。

 

自分らしさをテーマに作品を作る。タイトルに箱とは付いているが、別に箱にしなくてもいい。メディアも自由で、形状・大きさも自由。とにかくなんでもいいから自己表現しようという課題だ。三年に上がってカリキュラムが発表されたときに、私はこの課題をアニメーションで表現することを既に決めていた。

 

高校時代に持っていたゲーム機、NintendoDSに動くメモ帳というアプリケーションが入っていた。中身はパラパラ漫画を自分で作れると言うもので、簡易的ではあるが色も載せられたり、音をつけることもできる。私はそれでMVを作っていた。

 

音楽に映像を付け、それらに身体性を持たせ、リズム良く刻むことで気持ちの良い映像にする。昔からそういったことに憧れがあった。映像作家のアニメーションMVを観ながら、自分ならこのシーンはこう描くだろうとか、このシーンは他に真似できない格好良さがあるなとか、そういったことを考え密かに興奮していた。主に時間芸術と呼ばれる、時間軸そのものを表現する行為は、平面で行う彫刻のようなものだ。時間軸という奥行きを与えられると作業時間は跳ね上がる、が、それ以上に観る人に没入感を与えることができる。それまでイラストやデッサンしかしてこなかった私は、漫画やアニメといった時間芸術に心を奪われるようになっていった。

 

誰かを骨の髄から感動させる、そんな表現が私にもできたらいいのに。

 

高校時代のアニメは家族にだけ見せていた。私の唯一の兄妹である妹は、私の作ったアニメをひどく気に入り、1日に何度も再生しているようだった。次はこの曲で作って、とオーダーを出されることもあり、気が向いたときに作ってあげていた。

 

そして、美大にも卒業制作をアニメーションにする生徒が一定数いることを知っていたので、私は自分の表現の場はアニメにあるのではないかと薄々感じ始めていた。しかし、テーマが決まらない。

 

この課題は制作期間が1ヶ月以上ある長期的に取り組む課題だ。私たちは、最初の1週間でまず"好きなものファイル"という、自分の好きなものを切り貼りしたスクラップブックを作るように言われた。なんでもいいから、自分の好きを集めて、そこでテーマを見つけなさいと言うことだ。各自完成した好きなものファイルを持ち寄って皆の前でプレゼンをする。1人10分程度の時間が与えられ、感想や作りたいものへの思いを言葉にし、テーマを掘り下げていく。

 

私は、ファイリングで悩むことはなかった。なぜならずっとpixivを趣味でやっていたから。私のお気に入りには好きな絵がずらりと並んでおり、それらを印刷して切り貼りするだけであっという間に一冊のファイルが好きなもので埋まった。

 

私の好きなものは、退廃的だった。色味は鈍色をしたものが多く、胡乱な目をした人物が、項垂れるようにしてポーズを取っている。荒廃した瓦礫の建造物に、少女が物憂げな顔をして佇んでいるようなもの。小さな光の粒が光線となって、中央の丸い幼児が描いたような顔に吸い込まれていくもの。眼窩が顔の半分くらいある女性が口から赤いリボンを出しながら寝そべっているもの。これらが表すものを考えた時に、答えは一つしかなかった。

 

私はプレゼンで、自分が抱いている希死念慮の話をした。クラスメイトはどよめいていた。当然だろう、いきなりそんな重い話をぶちまけられたら、誰だって動揺する。しかし、私はあくまで、肉体的に死にたいわけではなく、そういう得体のしれない影のような存在に強く惹かれてしまうのだということを話した。

 

20分以上は話したかもしれない。時間をオーバーしながら深刻な顔をして話す私に対して、クラスメイトの半数以上は退屈そうに、早く自分の番が回ってこないかと思案しながら聞いていたのだろうと思う。プレゼンの最中熱が入りすぎて自分が何を話したのかも忘れていたが、全員の発表が終わった後声をかけられた。

 

「ファイル、もっかい見せてよ。」

 

私のファイリングに興味を示してくれた女子生徒がいた。それほど仲がいいわけでは無く、クラスメイトとして可もなく不可もない関係を築いていた生徒だった。私は、こんな自分の私的な部分を纏めたファイリングが誰かの興味を引くということに些か鈍感だった。もう一度、ファイルを開いて見せる。pixivの独特なイラスト界隈の文化に初めて触れるのだろう、興味津々で中身を見られ、少し気恥ずかしかった。

 

「がみーは、死にたいの?」

 

女子生徒がおもむろにそう言った。私は反応に困り、その子の顔は直接見ずに言った。

 

「いや、死にたいというか……死みたいな漠然とした影にずっと追われてる感覚があって、それを表現したいとは思ってる。」

「そうなんだ。いや、私も死にたいってよく思うから、共感する部分があるなと思って。」

 

意外だった。その子が、とても死にたいと思っているようには見えない子だったからだ。

 

私はその子と少しばかり話をした。その子も片親家庭で、家族というものにあまり良い思い出を持ってはいないらしい。私はほとんど初めて話す彼女の過去に対して何かを差し伸べられるわけではなかったが、私のファイリングに興味を持ってくれたということに対して誠実に向き合おうと思い、真剣に話を聞いた。しかし、傷の舐め合いにはならないように気をつける。私は死にたいと思っていたが、死にたさで安易に繋がる関係に危機感を持っていた。同情されたいわけではない。この背に這う呪いのような影の正体を、私は知りたいだけなのだ。

 

「作品、楽しみにしてるね。」

 

私は女子生徒に挨拶をし、教室を離れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きなものファイルの発表が終わり、私たちは教授とのグループミーティングに参加していた。3年次以降の大きな課題は、中間プレゼンを挟んで一つの大きな作品に仕上げていくので、教授との相性も大事になる。私は幸いなことに話しやすい教授のグループになった。教授がグループメンバーの一人一人に対して、作っていきたい作品のビジョンを発表するように提案する。皆、小脇に各々が作った好きなものファイルを抱えている。

 

私はテーマを『死についてのアニメーション作品』に絞っていることを伝えた。教授は、ではストーリーはどうするのかと聞いてきた。そこで私は、予々から実行しようと思っていたプランを話した。

 

恩師の武田鉄矢先生が授業で言っていたことがある。

 

「私の友人に1人、臨死体験をしたという奴がいてね。そいつの話が面白いんだ。皆は、死について考えたり、感じたことはあるかい?」

 

周囲の生徒がペン回しをしたり、こそこそ雑談をしたりする中、鉄矢先生は話を続けた。

 

「まぁ、君らの年齢で死を考えるなんてことは、身内に不幸があった時くらいだろうからね。分からなくても無理もない。それじゃあ、どんな話だったかを語ろうか。」

 

鉄矢先生は深く息を吸い、語り始めた。

 

「まず、男は大きな事故に遭った。交通事故だったか、転落事故だったか、それは定かではないがとにかく大きな事故だ。男は一瞬で意識を失った。次に目を覚ました時、彼は自分が広く暗い空間の中をずーっと落ちていく最中だった。上下左右も曖昧な暗闇の中、ひたすらに落ち続ける。温度は少しひんやりとしていて、決して寒くはないが暖かみはどこにも無い、そんな空間だったそうだ。」

 

私はその話を聞いた時、宇宙空間の中を1人の孤独な男性が落ち続けていく絵を想像した。星と星の間に広がる渺渺たる暗黒空間。そこを等速直線運動する人間の躯体、生足、柔らかい首元、たおやかな視線。ぶるりと人体が動いた。

 

「男は落下し続けていた。それはどこまでも続いていくかのように思えたが、ある時、自分の底の方からほのかに空間を照らす、一筋の光が見えた。その光はだんだんと大きくなり、やがて男の周囲を柔らかく包み込んだ。男は目を閉じ、自分はこのまま死ぬんだと、そう諦めかけたそうだ。しかし、次に目を開いた時、男は不思議な場所に立っていた。そこには海原が広がっていた。生き物の声はしない、波の音だけが静かに打ち寄せる水面。男は一瞬、ここが天国なのかと思ったそうだ。しかし、現実離れした出来事にしては、やけにリアリティを持って現れた景色に、違和感を覚えた。おれは死んだのか、だとしたらこの感覚はなんだ、動く手足はなんだ、なぜ呼吸ができる、なぜ瞬きをしているのだ、と。自問自答を繰り返す男はふいに、自分の背中の方から差し込む光に気づき、振り返った。」

 

教室が静まり返る。幾らかざわついていた生徒も、話に耳を傾け始めたようだ。

 

「振り返った先、遥か向こうに島があった。ただの島じゃない、黄金に輝くそれはそれは美しい島だったそうだ。深緑の樹々が蔦を伸ばし、絡まり、真っ白い砂浜を覆う。その上を、空に虹が掛かるようにして光が降り注ぐ。あまりの光景に目を奪われた男は、瞬きをする。すると、ぼやけて見えていた島全体が、まるでスノードームの中にある造形物を隈なく覗き見るように、鮮明に見えたそうだ。男はその島に吸い寄せられるように体を一歩近づける。手を伸ばし、島に立ち入ろうとする。しかし、急に怖くなったのだという。」

 

鉄矢先生は、掛けている眼鏡を外しジャケットの内ポケットからハンカチを取り出すと、それで眼鏡を拭いた。少しの沈黙の後、目線を窓際に寄せるようにして、続けて話し始めた。

 

「おれはこのままあの島にたどり着いたら死んでしまうかもしれない。そう男が思った瞬間、島の反対方向から男を強く引っ張ろうとする力が働いた。大男に脇腹を抱えられるような巨大な力が、男を背中の方に引き寄せる。男は手を伸ばすのをやめ、その力に身を委ね、もう一度目を閉じた。目を覚ますと、男は病院のベッドの上にいた。随分と長い間意識を失っていたようだったが、男からしたらほんの半日程度の出来事だったように感じたそうだ。男は自身が体験したその出来事を、様々な人に話した。家族、友人、職場の人達……皆、口を揃えていうのはその引っ張られる力というのが、私たちが今生きているこの世界からの力で、男が手を伸ばし掴もうとした光り輝く島は、死の象徴だったということだ。人は死に瀕すると、自身の心象風景を見るという。男の場合はそれが広い海と輝く島だった。」

 

心象風景。よく画家は自身の心の中にある風景を絵に映す。それは現実の景色でなくてもいい、心の機微に素直に、思うまま表現すればいいのだ。私はまだ高校生だったのでこの話を聞いた時にそこまでのことを考えることはできなかったが、少なくともぼうっと居眠りしながら聞き流せるような話ではなかった。語っている鉄矢先生の目も真剣そのものだった。

 

「さて、長々と話したが皆はこの話を聞いてどう思ったかな。死ぬのは怖い、苦しい、辛い。そう思うのは身近な人が亡くなる恐怖や寂しさから来るものだが、どれも他人が思うものだ。実際に臨死体験をした人物にとって、それは一概に負のイメージだけでは語れないとても不思議な体験だったと私は思うよ。」

 

確か、高校一年生の時の初めての美術の授業だったと思う。先生は自己紹介をしてから、すぐに臨死体験の話をした。なぜその話を初対面の私たちにしたのかは分からなかったが、先生なりに死生観というものを私たちに考えさせるきっかけとして、そんな話をしたのだろう。

 

教授達とのミーティングで、私はうろ覚えだったその話をした。話していくうちに、だんだんと私が描くべきストーリーはこれなのだろうと思った。しかし、その為にはもっと鉄矢先生と話す必要がある。私の恩師なのだから、伝えなければならないことが沢山残っている。私は鉄矢先生に会って話を聞いて、そこから制作をスタートさせることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久々に戻った地元の空気は乾いていて、息を吸うたびに涼やかな草木の匂いがする。春も終わりに差し掛かった頃。実家に帰るつもりはなかったので家族には連絡を取らず、私は鉄矢先生に直接電話をして合う約束をしていた。駅前で合流した先生は、少し古めかしいデザインの深緑色の車に乗ってきて、相変わらずスマートにジャケットを着こなしていた。私は彼の運転する車に乗り、岩瀬という港町に向かう。そこに先生の行きつけの喫茶店があるそうだ。

 

車は往来をゆらゆらと進んでいく。辺りは背の低い長屋の建物が集まり、開けた道路には電柱は取り除かれ地下に埋められているのだろう、整備された地面が広がっている。雲ひとつない真っ青な空に手をかざし、梅雨前の日差しを受け止める。血潮が透き通るように指先から手首までを橙色に染め上げている。春も終わり、これから夏に向けて少しずつ気温が上がっていくのを実感する。

 

先生は西洋風の真っ白い三角屋根の建物の前に車を止めた。建物には角度を変えると虹色に光るステンドグラスが嵌め込まれており、磨りガラスになっているのか外からは中の様子を伺うことはできなかった。木目調のドアを開けるとキィと音がして、私たちは薄暗い建物の中に入った。日差しが差し込み、ドアの奥にあるテーブルを明るく照らす。すると、奥から初老の男性が出てきた。先生とは顔見知りな様子で、軽く挨拶を交わすと二階の席に行くように案内された。私達は螺旋階段を登る。壁にはピアノやジャズのコンサートのポスターが貼ってあり、室内はコーヒーの匂いで満たされて頭が酔いそうになる。

 

二階にはテーブルが二つしかなく、私たち以外に客はいないようだった。先生が窓側、私が階段側に座る。初老の男性が後から上がってくると、私たちに注文をとった。私はアイスティー、先生はブレンドコーヒーを頼んだ。

 

店内はBGMが無く、静かだった。午後の柔らかな光がガラスで分散され、先生は逆光となって私からは表情がよく見えない。今日私が会いに来た理由を、ただの制作の相談だと思っているのだろう。しばし近況を話す。三年生に上がったことや、バイトを新しく始めたこと、最近の制作の結果などを朗らかに、笑いながら話す。先生もつられて笑った。

 

飲み物がテーブルに静かに置かれる。お互いに一口飲んでから、一息ついたのちに先生は話し始めた。

 

「それで、坂上の聞きたいことというのは以前私が話した臨死体験をした男の話だったね。」

「そうです。それをアニメーションで再現したくて、絵コンテにするためにまずはストーリーとして組み立てようかと思って。……でもその前に、まず先生に話しておきたいことがあるんです。自分がなぜ、死について強く惹かれてしまうのか、それを考えた時にどうしても逃げられない問いにぶつかるんです。」

「問い?」

 

鉄矢先生は目を丸くしながら尋ねた。

 

「最近、ずっと悩んでます。美大に来て制作をしていると常に、自分は何者でどこからやってきたのだろう、なにを成さねばならないのだろうって、背中に影のようなものが蔓延っていて、ずっしりと重いんです。人は悩みにぶつかると、自分のルーツを探ると思うんですけど、僕はルーツを掘り下げる段階で、人と決定的に違う部分があるなと感じています。」

「それはアイデンティティの問題だね。」

「そう、まさに僕が今与えられている課題です。アイデンティティ・ボックス。このテーマを与えられた時に、今の自分に思いつくのは死しかなかったんです。死にたいって、今でもふとした時に思います。死にたい死にたい消えたい消えたいって、破裂しそうな感情に覆われることがあります。でも同時に考えます。なぜこんなにも死にたいんだろうって。」

「それは、坂上の言っている人と違う部分という話に繋がるのかい?」

「……そうです。僕はまだ鉄矢先生に伝えてないことがたくさんあります。今日はそれを伝えに来たんです。」

 

そう言ってアイスティーを口に含むと、前歯の方に流し、歯の神経で冷たさを直に感じながら喉を鳴らして飲み干した。食道を伝って降りてくる冷ややかさ。胃の内容物にそれらが混じり合って、やがては吸収され栄養となる、そのことが酷く気持ち悪く思えた。

 

「僕、ゲイなんです。男だけど男が好き。先生は知らなかったと思うけど、隠してたわけではないんです。ただ言うタイミングが無くてここまで来てしまっただけで。」

 

私はこのタイミングを待っていた。爆発するのではなく自発的に、ある種の計画性を持ってして、誰かにこのことを伝えるのは初めてだった。だが思いの外緊張はしなかった。一番言いにくかった母へのカミングアウトを既に済ませたからだろうか、事前に振ったコーラの瓶を開け泡が溢れ出るように、私の口からは言葉がすらすらと出てくる。

 

ほとんど一方的に話した。ゲイであること、彼に振られたこと、母にカミングアウトしたこと、バイトが上手くいかなくてクビになったこと、そのせいで今、自分を見失って苦しいのだということ。たった2年ほどの間に起きた出来事は、先生を戸惑わせるには十分すぎる量だったように思う。先生は押し黙って時折頷き、そうか……と呟いた。先生はもう60歳近い年齢だから、相当ギャップはあっただろう。だが私の目をじっと見たまま、一切目を背けなかった。教え子がゲイだという事実を受けて、先生は私のことをどう思っていたんだろう。

 

その日は日が暮れるまで喫茶店にいた。私が長い自己紹介を終えても尚、先生は倦厭するそぶりもなく私の話に注力してくれた。臨死体験の話をもう一度丁寧に教えてくれた先生に対してお礼を言い、クロッキー帳にメモをする。店内は薄暗く、先生は夕日を背中から浴びてもう影しか見えない。飲み物に入っていた氷が溶け、水になる頃、私は先生の合図を元に帰路についた。

 

帰りの車の中で先生が、自分がゲイに痴漢されたことがあるという話を笑い話として振ってきたとき、私は愛に性別は関係無いですよと少しムッとなって返したことはよく覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日から約3週間でアニメーションを作ることになった。私はまず先生から教えてもらったストーリーを文章にし、時系列に並べ紙に出力した。そしてその文章の横に絵を描き、絵コンテを作った。絵コンテとはアニメーションの設計図のようなもので、この段階で完成が見えていないと制作を始めても碌なことにならない。教授にも見せてOKを貰う。後はひたすらPCと向き合って作画をする作業なのだが、これが全くと言っていいほど進まない。初めて本格的に作るアニメーションだったのでやり方がわからず、紙にアナログで作画したものをPCにスキャンし、なぞって仕上げるという工程を踏んだのだが、単純に作画を二度しなければならないのでかなりの手間だった。なおかつ私は作画を進めるにつれて憂鬱な気分が増し、身体は重くなりベッドからほとんど動けなくなっていた。呪いなのだろうか。しかし、動けないと言っても締め切りは近づく一方。

 

呻き声をあげるが、作画は進まない。私はアニメの主人公を自分の分身にしたかった、だが人間で描くと生々しくなりすぎるため、その頃よく描いていたシロクマをモチーフにキャラを設定し、作画をしていた。砕氷の上に乗る孤独な目をしたシロクマ。それに自分を投影しながら描いていると、あたかも自分自身が真っ暗な闇の底に沈んでいくような気持ちになるのだ。吐き気を催しながら画面に向かう。

 

気分は最悪だった。当時の私の体験を振り返って思うのが、死のアニメを作ることで遠回しに自殺をしていたということだった。死を追体験するアニメと鼓舞しながら、その実私自身が最も身近にアニメーションを描くという自傷行為をしていたのだ。一枚一枚、描くたびに精神が擦り切れそうになる。疲労感と嗚咽が混じり、瞳孔は開いて目の焦点が合わない。食事もまともに取れず、体重は日に日に目減りして肋骨が浮き出てくる。風呂場の鏡で自分自身を見た時、即身仏みたいだなと自嘲した。

 

それでも、やらなければならない。プレゼンまで1週間を切ったあたりから私はもう作画は間に合わないと踏んで、編集に取り掛かった。今までに描いたものに色をつけ、データとしてまとめ上げたものを動画編集ソフトに移し、並び替える。音楽配布サイトから拾ってきた著作権フリーの音楽をつけ、流れが不自然にならないように組み立てる。何度も何度も再生を繰り返し、プレゼン前日にようやく形になってきた。前もって決めておいたタイトルのロゴを作って、画面にはめ込む。

 

締め切り当日、発表には後輩達も見にきていた。私は骸骨のような痩けた頬をして、小枝のように細い手首を動かしながら3学年分の生徒の前でプレゼンをした。自分がかつていじめられていた経験や、バイトがうまくいかなかったことなどを話した。だが、自分がゲイであるということは言えなかった。言わなかったから、伝わらなかった。

 

プレゼンは失敗に終わった。コメントシートと呼ばれる感想が書かれた紙をもらうのだが、そこに書かれていた同級生の『怖い。』の一言が今でも忘れられない。私のしたかったことは、ただの独りよがりだった。誰にも伝わらず、本当の気持ちをわかってもらえずただ苦しんで、死ぬ勇気もないくせにのうのうと生きてる自分自身を痛めつけたかっただけの、ただの自傷行為だった。

 

そんな行為の結晶は、未完成のまま終わった。プレゼンに間に合うように動画としては完成させたのだが、本当に作りたかった、描きたかったところまでは素材が足りなかった。前日に無理やり動画を暗転させ、終わらせたのだ。結果的にそれは主人公のシロクマが死んだように見えてしまったが、もちろん本意ではない。ただもう、私にはその作品を完成させる意欲も根性も持ち合わせてはいなかった。

 

鉄矢先生にもできたアニメーションは見せた。だが、やはり反応は芳しくなかった。当たり前だ、自分が描きたかったものとは違う、未完成のものを見せているのだから、当然だろう。私のアイデンティティ・ボックスは、ただ自傷行為を人様の前に晒す最悪な終わり方で幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょうどこの頃、私はpixivで新しいアカウントを作り、そこに彼との出来事を思い出しながら4点ほどのイラストを載せた。今までの自分にはないくらい率直に、男性2人が絡み合う様子を描いた。幸か不幸か、それは今までにないほどの反響で私に返ってきた。私の絵を褒め称える、賛美の声。私はこんなにも評価される自分の場所があるにも関わらず、実生活で上手くいかない自分の制作と対比して、素直に喜べなかった。ゲイであることを素直に表現できたものはみんなが喜んでくれるのに、どうして私は素直になれないんだろう。捻くれて、死にたいなどと考えてしまうのだろう。ゲイであることに素直になるとは、どういうことなのだろう。

 

当時の私は入り組んだ袋小路の中にいた。戸惑い、葛藤する日々の中で、琥珀のように黄金色をした生への執着心が、私を突き動かす。死にたいけど痛いのは嫌だ。痛いくらいなら死にたくなるような日々も生きて、生きて、精一杯生き抜いてから死んでやりたい。泣いても何も変わらない。叫んでも誰も助けにこない。ただひたすら、あのシロクマが落ちていった真っ暗なトンネルの中で天命を待つように落ちていくだけだ。そしてその先に、針の穴のように小さな一点の光が見えたころ、ようやく私は生の苦しみから解放される。

 

輝いて、一瞬。あの島に手を伸ばして、私を呼び止める声を聞いた。私はその声がなかったら、きっとあのアニメを完成させて、それで自殺は成功してしまっていたかもしれない。だからあれは失敗して良かったのだ。私の運命は狂っていない、狂っていない、狂ってなんかいない。失敗じゃない、あれは、次の作品への布石になる。

 

変わらない現実に狼狽えながらも、一歩ずつ前に進む。じりじりと這い出すように、明日に手を掛ける。そうして自分を慰め、また生きようと強く思えるくらいの気持ちで日々にしがみ付く。ただ生きている、それだけで救われるなら私の生まれてきた意味はあったのかもしれない。私がゲイで、傲慢な自尊心をもった人間だとしても、それだけで死にたいなどと口を裂いてでも言えないように、毎日を強く強く生きていきたい。

 

後ろめたさはずっとある。未だに、ゲイである自分を肯定できていない。掛け替えのない大学生活という眩しい時間の中で、これだけはどうしても譲れないのだ。私は、一種の自殺とも呼べる課題をこなした後、自身の次の目標をゲイをカミングアウトするということに定めた。一部では無く、全部に、私の思うままを曝け出したいのだ。そしてそのことが、私の人生を大きく狂わせることになったとしても、もはや構わなかった。行くところまで行こう、そこが地獄の果てだったとしても。

 

私のアイデンティティはそこにあるのだから。

 

就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 15

土曜日。私はボンちゃんとの約束通り、20時にお店に着くように向かった。大学近くの下宿から、徒歩30分で着く繁華街。途中坂道があるので帰りは少し辛いが、徒歩で向かわなければ行けないのは冬のシーズンだけだろう。雪が無くなれば自転車を使えるので、慣れれば15分掛からずに到着できる。初めてのバーでの勤務と言うこともあって緊張はそれなりにしていたが、それよりも楽しみが上回った。また仕事が見つかった。バイトさえしていれば母に文句を言われることもない。収入ができれば物も買えるだろうし、少しはマシな生活ができる。私は久々に始まるバイト生活をきっかけに、負のループからの脱却を図っていた。

 

遅刻魔だった私だが、時間に遅れることはなかった。エレベーターに乗り、白い大きな扉を開けると、聴き覚えのある鈴の音が鳴った。

 

「おはよう〜。」

 

店の奥からボンちゃんの声がした。夜だが、この店での挨拶はこれなのか。少し訛りがある、柔らかい話し方。私も合わせるようにして挨拶を返した。

 

ボンちゃんはカウンターに灰皿を置いて、1人でタバコを吸っていた。まだ営業時間前だからだろうか。店内には客は誰もいない。私は自分の着ているコートをしまうため、戸棚を開けた。ムッと鼻をつく、ヤニの匂い。

 

「そこに制服あるでしょ。それ着てこっちおいで。」

 

私はボンちゃんに言われるがまま戸棚の中を覗いた。横には黒いベストとパンツ、白いカッターシャツが準備されていた。手早くそれらに着替える。前回来た時にも思ったが、この戸棚に衣服を掛けると全部がヤニ臭くなるのだ。私はタバコの匂いが嫌いなわけではないが、自分は吸わないので服に匂いがつくのは少し嫌だった。だがここで働く以上、我慢するしかない。

 

着替えた私は、戸棚の左側に取り付けてある全身鏡で自身をチェックした。洋服のヨレがあれば直す。見た目はかなりマシになった。やはりカッターシャツにベストという組み合わせはホテルなどでも見かけるが、かしこまった雰囲気を醸し出すようだ。あとは表情。げっそりとした顔にならないように、口角を少し上げて微笑む。ピンと跳ねた寝癖を整える。

 

準備ができたらボンちゃんの近くに向かった。私はボンちゃんから手渡されたクロス拭きを使って、カウンターとテーブル席を拭く。椅子の位置を調節する。

 

カラオケの待機画面の甲高いナレーターの声が小さく響く。店内の照明が、ぼうっと私たちを包み込んでいる。

 

からん、と音が鳴った。

 

「いらっしゃいませー!」

 

私はボンちゃんより先に声を出した。ドアを開けて出てきたのは、グレーのコートを羽織った私と同い年くらいの青年だった。

 

「ボンちゃん、遅くなっちゃってごめん。すぐ準備するね。」

「フミヤ、おはよう〜。」

 

フミヤと呼ばれた青年は、慣れた手つきでコートを戸棚に掛けた。コートの下は、なんと私と全く同じ制服だった。それでわかった、今日はこのフミヤという青年と一緒に店に入るのだ。

 

聞いてない。同期がいるのかよ。私は狼狽えながらもフミヤに挨拶をした。

 

「初めまして、今日お試しでお店に入ることになったがみです。よろしくお願いします。」

「あ、こちらこそ。フミヤです。よろしくお願いしますー」

 

軽快な挨拶が帰ってきてホッとした。フミヤは顔立ちが幼く、背丈は私と同じくらい。見た目からは威圧感がそんなに感じられない好青年という様子だったが、中身も同様のようだった。

 

「フミヤは20歳だから、がみと一緒よ。少し先輩だけど、仲良くしてね。」

 

ボンちゃんがそう言った。同い年なら尚のこと、安心感がある。困った時にはフミヤに頼ろう、そう思った。

 

店内の時計が20時を指した頃、また入口の鈴がなった。入ってきたのは見覚えのある茶髪の顔、あれは確か……。

 

「おはよう〜皆さん〜。あ、ボンちゃんおはよう〜。」

「タク、おはよう。アンタはあっちの奥の方座って。」

 

ああそうだ、タクさんだ。あの独特の、しゃがれた声は印象に残る。タクさんは今日も派手なストールを巻いて豹柄の服を着ていた。地肌は浅黒く、日サロで焼いているのだろうか、冬だと季節感が曖昧になる。タクさんはカウンターの奥から一つ手前の席に座った。ボンちゃんがコースターと灰皿をその前に置く。私は遠くからその様子を見ていた。

 

「がみ、挨拶してきな。」

 

ボンちゃんは私にそう呟いた。慌ててタクさんのいるカウンターの奥に向かう。

 

「こんばんは。この前お会いしましたよね、がみといいます。今日は店員側で、お試しで入ることになりました。」

「あ〜、がみちゃん。がみちゃんね、うん。あたしタクって呼ばれてるから、気軽に呼んでくれていいよ。よろしく。」

「よろしくお願いします。あ、お酒何にします?」

 

私は彼にメニュー表を見せた。すると彼はニヤリと笑って、生ビールを指さした。生ビールですねと呟いて、ボンちゃんの方に駆け寄った。注文取ったはいいが、この後どうすればいいのか分からなかったからだ。

 

「まず小皿二つ用意する。こっちの青いのがこの棚に入ってて白いのはこっちね。そんで、冷蔵庫の中にタッパーがあるから青い皿の方に中身を盛り付ける。いい?そんで、柿ピーが下の棚に入ってるから、白い皿に盛って、出す。そこまで終わったら声かけて。」

 

ボンちゃんは小声で素早く私に指示を出す。私は、わかりましたといい言われた通りにお通しを作る。作り終わったら、ボンちゃんに報告する。

 

「そしたらおしぼりがここにあるから、お箸と一緒にこれも出す。出すときは、前から失礼しますって言うんだよ。あ、その前に、最初に来たときは灰皿とコースターも出すんだけど、それはあたしがやっちゃったから次お客さん来たらやろうね。とりあえずはい。出してきな。」

 

私はおしぼりとお箸を持って、タクさんに目配せをした。

 

「前から失礼します。」

 

そう言って、カウンター越しにお箸とおしぼりを渡す。タクさんはじっと携帯を見ながら、なにか文字を打っている。素早い指の動きが気になりながらも、小皿にもりつけたお通しをタクさんの前に差し出す。タクさんは首を少し振り、柿ピーを一口摘んだ。ボンちゃんがこちら側に寄ってくる。

 

「そしたらビールね。ここに伝票があるから、お客さんの名前書いて、ビールに正の字の一画目を書く。OK?そしたら作り方だけど、やったことは無い?」

「無いです。」

「そしたら手本見せるから見てて。こうやって手前に引くとビール、奥に倒すと泡が出てくるから。大体7:3になるようにまずビールから出して、最後に泡ね。……こんな感じ。」

 

ボンちゃんの手元には、見事に7:3に分かれたビールが出来上がっていた。長年使ってきたのだろう、手慣れており教え方も上手だ。

 

「あとビアグラスは出したら必ず冷蔵庫にしまう。その棚に入ってるから、同じようにやってみて。」

 

冷蔵庫の中を覗くと、逆さまになったビアグラスがいくつか入っていた。同じようにグラスを1つしまう。冷蔵庫を閉めると、ボンちゃんは既にタクさんにビールを出しながら言った。

 

「はいどうぞ〜。私も一杯飲もうかしら。」

「アンタ早速飲むわけ?いいけど、ベロベロになんないでよ。アンタが酔っ払うと大変なのはこっちなんだから。」

「分かってるわよ。ここは私の店よ?好きにさせて頂戴。」

「まったく……ねえ、ちょっとフミヤとがみ。アンタらも飲みなさいよ。私が奢るから。」

 

ボンちゃんが、あんたたち良かったわねという顔でこちらを見ている。フミヤが声を出した。

 

「そしたら、同じの一杯頂きます。」

「あ、僕も同じの、頂きます。」

 

フミヤに合わせて声を出す。伝票に正の字を付け加えてから、私は自分のビアグラスを取り出した。ボンちゃんに言われた通りに真似してみる。黄色い液体が、グラスに注がれる。7分目くらいまできたら、今度はレバーを奥に傾ける。しゅわーっと良い音がしながら、白い泡が蛇口から垂れるように出てくる。溢れないように気をつけながら、グラスいっぱいまで注ぐ。

 

出来上がった生ビールはひんやりと冷たく、ビール越しに見る景色は横長に引き伸ばされて人の顔を歪めている。白い泡が、それを隠すように覆うと、今日今立っているこの場所がなんだか不思議な場所に思えてくる。ついこの間初めて来たばかりなのに、なぜか懐かしい感覚がしていた。

 

「それじゃあ、乾杯ー!」

 

私は持っているグラスをタクさんのグラスに近づけた。からんと、空中に響く音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええ、17歳なんですか?!」

 

私は素っ頓狂な声を上げた。タクさんは、シーっと言いながら人差し指を口の前に立てた。

 

「あんまり大きな声では言えないから、ここでは24歳ってことにしてるの。」

 

照れるようにそういうタクさんだったが、私は信じられなかった。タクさんの見た目はどう若く見繕っても20代後半のようにしか見えなかったからだ。まさか、私より一回り年下だなんて。ん、ということは、まだ高校生なのか。

 

茶髪にロングの髪。ワックスで整えられたその分け目からは透明に光るリングが見えた。ピアスも開いているのだ。これで高校生って、私の高校時代とは雲泥の差だ。ちゃんと学校には行ってるのだろうか。

 

怖くて聞けなかったが、タクさんの話す様子から、学校には行ってないことがわかった。タクさんは繁華街の近くに家を借りており、そこに1人で住んでいるのだと言う。別の市に住む両親とは疎遠なようで、話す時に苦虫を噛み潰したような顔をするので、わかりやすく親子の縁を絶っているのが伝わってきた。

 

「私の話なんていいから。アンタたち、なんか話しなさいよ。」

 

タクさんは照れ臭そうに私とフミヤを指さした。タクさんの手に持つタバコが燻って、煙を登らせる。すると、フミヤが口を開いた。

 

「はい!俺とがみくんは同い年で、どちらも大学生です。がみくんは美大に通ってて、すごいですよね。自分はほんと、名前だけ書いて受かった大学なんで、恥ずかしいです。」

 

フミヤは自分を下げて、私を持ち上げた。こう言う雰囲気は苦手なのだ。確かに私は努力して大学に入ったが、それは私にたまたま絵の適性があったからで、勉強は一切出来なかった。もし勉強の方で大学を受けてたら、私も彼と同じようになっていただろうし、なにより彼が私と比較して自分の人生を恥じる必要が全くない。

 

「いえ、僕はほんと、たまたま受かったっていうか、全然そんなのじゃないですよ。美大って入ってみるとほんと可笑しな人たちばっかりでそんな尊敬されるようなところじゃないし。」

 

精一杯の謙遜をした。私はこういうとき人の顔を見れなくなる。自分が注目されていたり、尊敬されていたりするとなんだか恥ずかしくなって、その敬意を踏みにじるような発言をしてしまうのだ。急に喉が渇き、ビールを口に運ぶ。一口飲んで落ち着くと、タクさんの顔を見た。タクさんはニヤリと笑ってこちらを見つめていた。

 

ふいに、入り口の鈴が鳴った。

 

「いらっしゃいませー!」

 

私とボンちゃんとフミヤは揃って入り口の方に移動した。見ると、ヒロポンが立っていた。

 

「ボンちゃん〜来たわよ〜。あら、若いお二人もどうも〜。がみちゃん、初めての入店はどう?緊張してる?」

 

ヒロポンは私の方を見て言った。

 

「いえ、緊張はそんなに。ボンちゃんが優しく教えてくれてるので大丈夫です。」

「そう、それなら良かった。」

 

私はヒロポン上着を預かり戸棚に掛けた。ヒロポンはタクさんに目配せをして一礼し、いつものカウンターの一番右端に腰掛けた。

 

「後でヒロトも来るって言ってたから。たぶん30分くらい。」

 

また知らない人の名前だ。ゲイの世界では皆があだ名で呼び合うので、似たり寄ったりな名前になることが多い。ゲイアプリでも、時々誰が誰だかわからなくなる。私は人の名前を覚えるのが苦手なのだ。

 

私はボンちゃんに教えてもらった通り、灰皿とコースターをヒロポンの前に差し出した。ヒロポンはタバコをポケットから取り出し、吸い始める。

 

「お通しは?」

 

ボンちゃんがそう聞くと、ヒロポンは手を顔の前で振った。

 

「さっきいっぱい食べてきたの。要らないわ。」

 

なるほど、常連さんにはお通しを出さないこともあるのか。私はボンちゃんが戸棚からヒロポン鏡月を出すのを黙って見ていた。常連さんのボトルはあの棚から取り出すのだ。

 

ボンちゃんが、ヒロポン鏡月を手元に置くと、目配せをした。どうやら作ってみろと言うらしい。私はグラスを探した。これですか?とボンちゃんに尋ね、ボンちゃんが頷くと私は冷凍庫の中から手頃な大きさの氷を取り出し、グラスの中に入れた。1つ、2つ、3つ……。グラスが満杯になると、ボンちゃんはヒロポンに尋ねた。

 

「飲み方は?」

 

ヒロポンは、いつもので。と呟く。するとボンちゃんは冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出した。

 

ヒロポンは薄めが好きなの。作ってあげて。」

 

薄めってどれくらいだ。分からなかったが、先週ボンちゃんが作ってくれた水割りを思い出しながら鏡月をグラスに注ぐ。パキパキと氷が水に浸かる音がする。少し注いで、その後水を入れる。するとボンちゃんがマドラーの場所を指差した。私はそれを取ると、グラスに入れてかき混ぜた。

 

これでいいのだろうか。恐る恐るヒロポンに水割りを渡すと、ヒロポンはありがと。といいグラスに口をつけた。何も言わない。

 

ひとまず、濃くなかったのであれば良しとしよう。ボンちゃんが言うに、ボトルはキープする時にその一本分の値段を会計するので、キープボトルからお酒を出したときは伝票にはなにも付けなくていいそうだ。覚えたことをメモしようかとも思ったが、メモ書きになるようなものを持ってきていなかったので、心の中で復唱する。

 

ふいに、ヒロポンが言った。

 

「それで、がみちゃんは結局ゲイなの?」

 

フミヤとタクさんもこちらを見た。今更何を言っているんだろう。私とヒロポンはゲイアプリで出会っている、ゲイじゃないわけないじゃないか。そう思ったが口には出さずに、答えた。

 

「ゲイですよ。」

「え、いつから?」

 

タクさんが口を挟んだ。

 

「いつからだろう。初めて男の子を好きになったのは中学の時でした。同じ部活の子を好きになって、告白とかはしなかったんですけどね。そこから、高校生まで特に何もなくて、アプリを始めたのもほんと最近です。」

「へぇー、じゃあまだデビューしたばっかってことなんだ。」

「そうですね。まだこっちの世界のこと全然詳しくないです。」

「ふーん。がみちゃん、ホゲてないからぱっと見どっちかわかんないんだよね。」

 

ホゲってなんだ。そう思ったが、会話の流れでそのことがオネエの人の仕草を表すことはなんとなくわかった。ヒロポンは身を乗り出して言った。

 

「ノンケっぽいってやつ?」

「やだー超かわいい。」

 

タクさんが口に両手を当てながら返す。ノンケっぽいと呼ばれることは不思議と悪い気持ちはしなかった。ゲイの世界に染まっていない、初々しい子が人気なのは何となく知ってたからだ。

 

「そうそう、フミヤはノンケよ。この子なんかは見た目少年っぽいからゲイに受けそうなのに、勿体無いわよね。アンタ、さっさとこっちの世界に入りなさいよ。」

「えー、ボンちゃん!それは無理だよ〜。」

「アンタ、一回くらい男とやってみ?案外、出来ちゃうから。」

「まじかー俺は女の子がいいのに……。」

 

フミヤはそう言って苦笑いをした。私は彼のことを勝手にゲイなのだと思い込んでいた。同時に、ノンケなのにゲイバーで働けることを尊敬していた。自分が女の子の店で働くようなものか。セクシュアリティが混ざり合う非日常の空間に、私の気分は昂っていた。こんな風に自分を偽ることなく話せる空間は珍しい。いつも学校では自分のことを紹介するときに嘘を織り交ぜていた。好きでもない女優の名前を出したり、彼女がいたことを免罪符にしたり、本当は処女を喪失しているのに、童貞のことだと言い換えたり。そうやって、少しずつバレないように嘘を盛り込んでいた。

 

嘘は麻酔のように私の罪悪感を麻痺させる。少量の毒を飲み、耐性をつけるように私は嘘が上手くなった。しかし、毒は毒だ。使い方に気をつけないと自分が辛い思いをする。私は嘘をつくたびに、ちくりと自分の胸が痛むのをずっと無視し続けていた。本心を隠して、偽りの自分を演じてきた。それが耐えきれなくなって爆発して、美術部で喧嘩をしたり、彼に告白したり、母にカミングアウトしたりしてきた。体がもう限界だと言っているのだ。嘘をつかなくて済む空間を、ずっと私は求めていたのかもしれない。私は何の気兼ねもなくゲイだと言える今この居場所が、とても貴重なものだと言うことをよく理解していた。

 

「ノンケなのに、どうしてゲイバーで働こうと思ったんですか?」

 

私はフミヤに質問をした。彼は、笑って答えた。

 

「ボンちゃんに声かけられて、今までずっとバーで働いてたしちょうどいいかなと思って。」

 

そんな、軽い気持ちで働けるんだ。私はフミヤのように明るく働けない。仕事が怖くて仕方なくて、自分みたいな奴が働いても迷惑かけない場所をずっと探し求めていた。消極的に立ち回って、居場所を欲しがるくせに消去法で、できないを積み重ねてきた。フミヤは、勉強はあまり出来ないのだろうが、働くことに関しては少なくとも私よりも優れた何かを持っているように思えた。ボンちゃんは、照れ臭そうに笑うフミヤを見て言った。

 

「そうよーあたしが見初めてあげたの。感謝しなさいよ。あとねがみちゃん。ここはゲイバーでもあるけど、ミックスバーだからね。普通にノンケのお客さんも来るわよ。」

 

そうなのか、初めて知った。聞けば、ゲイしか入れない女性入店禁止の店もあれば、セクシュアリティ問わず誰でも入れる店もありで分かれていて、この店は後者になるらしい。客の半数近くはノンケなのだそうだ。

 

「それよりがみくん、タメなんだから敬語は無しでいいよ。」

 

フミヤはそう言って、私の肩を叩いた。私も笑って、そうだねと返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局その日は、ヒロトさんと言う小太りのゲイのおじさんと、オオイエさんという眼鏡のゲイの男性、それからノンケのお客さんが数組入った。私は不慣れながらもお客さんに挨拶して周り、席についてお酒をもらい話をした。なにげない会話の中に逐一下ネタが挟まってはきたものの、私はまだ新人ということでそこまでのイジリもなく穏便に扱われた。時刻は朝の5時くらいを迎え、客も常連さんしかいなくなった頃、ようやくその日の勤務が終わった。私は少し酔っていたが、問題なく帰宅できそうだったのでそのまま徒歩で家まで帰った。その後ボンちゃんからLINEが来た。

 

「来週もよろしくね。」

 

私は嬉しくなってすぐに返事をした。

 

「はい、よろしくお願いします。」

 

その後は毎週お店に入った。店員とは言っても覚えることは少なく、お酒の種類こそあるが、カクテルを頼むようなお客さんはほとんどいなかった。そのため、お通しの準備をしたらボトルからお酒を作るか、ウイスキーをロックグラスに注ぐか、生ビールをビアグラスに注ぐくらいで後は席について話すのがメインだった。私はどうやら知らない人と話すのが苦ではない方で、大学のことや地元のこと、セクシュアリティのことなどを話してその場を盛り上げた。途中、おしぼりを変えたりお酒が減ってきたら作るのを忘れずに。

 

働いている中でこれといって怒られることはなかった。むしろ、真面目に働いていることを評価された。中には美大生というだけで手を握ってくるお客さんもいた。この地域では美大は一流の大学として扱われているようだった。もちろん謙遜はするが、それをされて悪い気はしない。美大生という肩書きは、自己紹介するのにちょうど良いブランドだった。

 

その日も、いつものように朝5時近くになって最後の皿洗いとゴミ袋をまとめているところだった。ボンちゃんが言った。

 

「この後タクの家に行くけど、がみちゃんも来る?」

 

私は二つ返事でOKした。どうせ明日は日曜でやることがない。ボンちゃんやタクさんにも苦手意識は持っていないし、なによりバイトを始めてから生活が充実しているのを感じて嬉しく思っていたところだったからだ。

 

タクさんの家は、バーから歩いて20分くらいのところにある小さなアパートだった。部屋に入ると、衣服やショッピング袋で散らかっていて、足の踏み場に困る状態だった。面食らいながらも、部屋の奥に進む。

 

タクさんはずいぶん酔っ払っていて、時折喉を鳴らしながら、倒れ込むようにしてベッドの上に寝っ転がった。

 

「あ〜ん。男ってなんですぐ逃げていくのかしら。」

 

タクさんは酒焼けした声で言った。振られでもしたのだろうか。わかる、わかるよ。私も振られたとき、物凄く悲しかったから。おんなじ気持ちだよ。そう思って、私はベッドに腰掛けた。ボンちゃんは床に毛布を敷いて、その上に寝るようだった。

 

部屋の明かりが落とされる。もう朝に近い時間だったので、小鳥の囀りが窓の外から聴こえる。薄明かりがカーテンの隙間から漏れて、部屋は淡いブルーに染まっていた。

 

「アタシなんて、どうせロクでもないオカマですよ。もう、嫌になる。全部、あーあ。」

 

横でぶつぶつと、こちらに背を向けながら呟いている。タクさんは情緒不安定な様子で、ときおりLINEのタイムラインにリストカットオーバードーズを仄めかす文章を投稿していた。それに多くの励ましのリプライがついて、長いログが立っていくのだ。

 

タクさんのことはよく知らないけど、まだ17歳で親とも疎遠で、夜の仕事やってたらそりゃあ不安にもなるよなあ。私はそう思って、隣に寝ているタクさんに励ましの一言を送った。

 

「大丈夫、そんな日もあるよ。」

 

なんてことのない、生肌を摩るような言葉。彼にとってそれが励ましになるかは分からなかったが、なにも言葉をかけないよりはマシだろうと、そんな気持ちで言った言葉だった。

 

するとタクさんは、くるりとこちらを向いて私の首元を舐めた。

 

「あーん。がみちゃんは優しいね。ありがとう、好き。好き。好き。好き。」

 

首に温かい塊が触れる。鎖骨の方から、耳元までを登るように、舌が這いずり回る。私は驚きと恐怖で身動きが取れなかった。この人は、なにをやっているんだろう。私のことが好き?本当なのか。

 

ボンちゃんはすぐそばにいるが、なにも反応はない。寝ているのか、聞いているが無視しているのか、どっちなんだ。

 

タクさんはそのまま、私の衣服の中に手を入れてきた。私は反射的に、その手を振り払った。タクさんの手は行き場を失い、そろそろと彼の背中の方へと戻っていった。

 

私の首を舐める舌が、頬を伝って唇の方に伸びてくる。私は、耐えきれなくなってベッドから降りた。

 

タクさんは、泣いていた。目を真っ赤に腫らしながら、こちらを潤んだ瞳で覗いていた。黒い瞳孔に映る、私の顔。引き攣るように口角が下がっている。怒っているのだろうか、いや、動揺しているだけだ。この人はただ、酔った勢いで誰でもいいから温もりが欲しかっただけだ。

 

私はそのまま洗面所に行き、舐められた首元を洗い流した。冷水が垂れて胸元を濡らす。その冷たさに正気に戻る。私は今、嫌悪を感じている。好きでもない人に舐められて、ショックを受けている。

 

そのまま無言で部屋を出た。タクさんは最後までベッドの上で呻いていたが、なにも聞こえないふりをして玄関を出る。繁華街まで必死に歩く。日曜の朝、辺りは白く照らされている。電柱にはカラスが何匹か、鳴き声を上げてゴミ袋に狙いを定めている。カラスの瞳がこちらを覗く。さっきのタクさんの目と同じ、真っ黒い動物のような瞳。背中に猛烈な悪寒が走る。私はたった今、レイプされた。同意の無い性行為、理由のない暴力と同じだ。突然現れて、なす術もなく蹂躙される。自分の首元を触る。まだ、あのざらりとした舌の感触が残っている。私は、なんてことをしてしまったのだろう。

 

彼もあの時、同じ気持ちだったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後は帰宅して、あの時の記憶をなかったかのようにして振る舞った。タクさんはその後も何にも変わらずにお店に出てきていた。私も普通に話すが、お互いにあの夜のことは触れないでおいた。

 

2年の冬が終わり、3年に上がる頃。就活の足音が聞こえてくる中、私は苦しんでいた。課題が本格的に就活を捉えたものに変わる。課題をこなすたびに、私は行き場の無い途方もない気持ちに苛まれた。真っ黒い闇に心が覆われる。ゲイバーという居場所を見つけても尚、私は叫びたがっていた。使命感を持って生きることと、折り合いのつかない自分自身との狭間で揺れ動く。魂を削りながら生きている感覚がある。それは、私の心身を蝕み、苦しめている焦燥感の正体なのだろう。私は一体何者なのだ。どこからきて、何を成さねばならないのか。

 

彼との思いにもまだ決着はついていない。切迫した思いが連なり、枷となる。母との関係、父の不在。そして、クラスメイトに本当のことを打ち明ける日がやってくることを、私はどこかで予見していたのかもしれない。

 

魂が剥離する。羽虫が飛ぶように思考が捻転する。うるさい、うるさい。近寄るな、私を放っておいてくれ。

 

ざわめきの中で呻く。居場所を求めて吠える獣。破壊的な衝動が私の喉元から肉を食いちぎって、寂しさとなって膨張する。その欠落が、私は何より愛おしいと思うのだ。完璧であると思えるのだ。私から剥がれ落ちた、魂の片割れ。それを探して飢える、慟哭する、衝突する、抱擁する。慰み者の唄。

 

薄明かりの元で、宿る寂しさを片手に、徘徊する化物。それが私だった。悲劇は、まだ終わらない。数多の蝙蝠が大きな波を作るように、私は運命という名の巨大な掌から逃れられないのだ。

 

咽び泣くようにして、作品を作る。その日々の中で私は、段々と自分の身体が思うように動かなくなっていくのを感じた。頭で命令しても、身体が言うことを聞かないのだ。気ばかりが焦って、前が見えなくなっていく。不穏な空気に支配される。私を取り巻く環境は一変していく。

 

私は、次の課題で一度死ぬことになる。もっとも、それまでの私の生活は遠回しに自殺していたようなものだった。だが、今回は違う。一度、完全に自分の魂を殺してみたいのだ。そうしなければ、前に進めない気がしたから。

 

明日が真っ黒く塗り潰されるような、そんな夢を見る。私は、私は。

 

就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 14

大学2年の冬。この季節、私の下宿がある地域ではかなりの雪が積もる。窓の四隅から漏れる空気が、部屋全体を凍らせる。底冷えするような寒さと地元では表現する。足元からくる冷えは、いくら暖房をつけていようとじわじわと部屋全体を寒さで飲み込んでいく。私は素足のままダークグレーの床を踏みしめると、いつものようにパソコンの前の椅子に腰掛けた。凍える手でパソコンの電源を入れ、ポケットからスマートフォンを取り出す。インターネットに接続されていないと、いてもたってもいられない。社会から断絶されたような、途方もない不安が襲ってくるので、いつだって電子機器は手放せない。パソコンで好きな音楽を流しながら、手元の端末で検索を掛ける。そうだ、世間はもうすぐクリスマスだ。

 

聖なる夜。日本では恋人たちが同じ時間を過ごすためにあるイベント。クリスマスプレゼントなんて、もう何年ももらっていなかった。だが近所の家を飾る電飾やネットニュースはいじらしく、私にこの季節の到来を告げる。私は、普段なら冬休みを使って実家に帰省するところだった。だがちょうど半年ほど前、母にゲイであることを告げて以来実家に戻れなくなった。正確には、戻るわけにはいかなくなったのだ。

 

合わせる顔がない。

 

それは、申し訳なさからくる感情では無かった。母に対する恨み、憎悪に似た黒い感情。会えばそれらを吐き出してしまうのが分かっていた。もし今の状態の私が母に会えば、私の顔は歪み、変形して母に拳を振るうかもしれない。それどころかキッチンに立ち、包丁を手に取り母の首元を裂いてしまうかもしれない。そうなる前に、家族との関係を断つことで私は自分自身を守っていた。

 

しかし帰省もせず、他に予定もない10日あまりの休暇は、私にとって地獄だ。夏休みもそうだった。どこかに旅行するにはお金が足りず、欲しいものも買えない。行くところといえば空腹を満たすためだけに行くスーパーと、コンビニくらい。暇を持て余し、インターネットで検索をかけ、無料で読める情報で脳を働かせる。掠れた声で小言を言いながら、ベッドに横たわり眠くなるまでスマホを見続ける。そうして目が乾き、充血してきたら倒れ込むようにして眠る。睡眠時間は、12時間以上。

 

学校が始まれば気が楽だった。少なくとも課題があり、友人と話せる。嫌でも授業があれば起きなければならないし、学校に行けば体も疲れて眠くなれる。少なくとも、ネットに齧り付いて漠然とした時間を過ごすことは無かった。

 

だが、今は後期の授業も半分が終わる。虚ろな目で考える。私はなぜ、こんなにも無意味な時間を過ごしているのか。働きもせず、芸術に打ち込むこともない、無為な時間を過ごして何もしなかった一日を後悔するのをあと何回繰り返せば気が済むのだろう。私は、どうしてこんなことをしているのだ。

 

考えに考えた。思考が一回転して地べたに尻餅着くまで考え、結局のところ簡単な答えに行き着いた。私は、寂しいのかもしれない。

 

繁華街のイルミネーション。電光掲示板が描くネオンサイン。煌びやかな栄華。それらが私の網膜に、うっすらと滲みを作る。憧れや希望や嫉妬心が心の底から湧いて、叫び出したくなる。私はここにいる、誰か見てくれとネットに書く勇気もない。私の居場所だったかつてのインターネットは、自罰的な居心地の悪い場所に変わってしまっていたからだ。評価されない気持ちなんて書く必要がないと、当時の私はそう思っていた。

 

だから、その日も今までと同じように1人の夜を過ごすつもりだった。しかし、暗雲のように寂しさが私を覆う。もうすぐ20歳になる。それなのに、このまま枯れていくだけなのか。何もしないまま、誰にも気持ちを打ち明けないまま、1人で死んでいくだけなのか。

 

スマートフォンを検索する指を止め、ホーム画面に戻る。そうして、アプリケーションの画面を開く。カラフルなアイコンが乱雑に散りばめられる中を掻き分け、検索窓にワードを打ち込む。黒いアイコンが大きく表示された。

 

元々、ゲイの世界に出会い系のアプリがあることは知っていた。同世代の情報に飢えていた私はインターネットを覗き見し、今の若いゲイの世代がどういう交流方法をとっているかを調べていた。そこに、気になる情報を見つけたのだ。

 

顔写真を登録すれば、位置情報から近くのゲイを表示してくれて、メッセージのやり取りもできるアプリ。mixiのように紹介制でもなく、誰でも自由に登録できる、無料のもの。今の私にピッタリだと思ったが、顔を晒す勇気がなくずっと遠ざけていたものだった。

 

それがクリスマス前になって、突然思い出されたのだ。まだ間に合う。始めるなら今しかない。体型は細く頬はこけていていかにも不健康な私だが、若さだけはまだある。売れるものがあるなら、それで勝負するしかない。私にも仲間が欲しい。ゲイの世界に居場所を作りたい。

 

そう思って、出会い系アプリを開いた。初めにメールアドレスを登録する画面が現れる。そこにメールを打ち込み、パスワードを設定する。すると、位置情報を共有しますかというポップアップが表示される。少し迷ったが、この際学校の友達にバレても仕方ないと思い、許可した。次に、名前や身長、体重を入れる欄。プロフィール文章を入力する欄に短く、はじめましてと記入する。そして最後に、顔写真をアップする場所が出てくる。

 

いよいよか、と思った。正直なところ、出会い系アプリには顔を晒さない人も大勢いる。風景の写真や、動物の写真、自慢の筋肉の写真など。ただ私の場合は顔以外に売れるものが特になかったのと、そもそも顔写真を登録しなかった場合ロクな出会いに恵まれないだろうという算段を立てていたので、最初から顔を出す選択肢しかなかった。

 

諦めて写真フォルダの中から使えそうな写真を探す。私の場合、無表情だとかなりげっそりして見えるので、なるべく笑顔の写真を探す。となると、人と写っている写真しか無いので、他人が写っている部分をうまく切り取る。良い塩梅に自画像ができたら、色味を健康そうに見えるように橙色のトーンで調整する。そうして、笑顔の私の顔写真ができあがる。

 

アプリの写真のマークをクリックして、画像を添付する。アップロードされた写真と、プロフィール文を見比べ、違和感がないかを確かめる。よし、見栄えは良くなった。多少盛ってはいるが、これくらいは許容範囲だろう。これなら従順そうな、若者らしい元気のある印象を与えられるだろう。

 

写真を上げてからしばらくすると、私の携帯が震えた。黒いアイコンに、メッセージが来ましたという通知。予想より早く来た。とりあえず中身を確認しなければ。

 

見ると、風景の画像に英文でなにやら書いてあった。なんと書いてあったのかは読めないし、顔写真がそもそもない。ガッカリして、返事をせずにアプリを閉じる。

 

最初はこんなものか、と自分をなだめながら携帯の画面を見守った。その後も何通かメッセージは来たが、どれも怪しい見た目のアイコンだったり、下品な文章を送りつけられたりしたので返事はしなかった。私の落胆は大きくなる。

 

数日経って。クリスマス当日を迎えていた。クリスマスはアプリ内の人も人肌恋しくなるのか、人が入り乱れている様子が窺えた。そんな中、一通のメッセージが私に届いた。

 

「こんばんは。若いですね、よかったら今度お茶でもしませんか。」

 

見ると、目元は映っていないが首から下は褐色のネイビーのシャツを着た男のアイコンが表示された。年齢は、私より一回り上。目元が気になるが、悪くないと思った。私は返事をして、ある程度愛想の良いメッセージのやり取りをする。

 

「こんばんは。お茶いいですね、ぜひ。」

「こちらこそぜひ。距離近いですね、大学生さんですか。」

「そうです、丘の上の大学に通ってます。」

「そうなんですね、あそこの学生さんで知り合いいますよ。よかったら紹介しますよ。」

 

知り合いなど絶対に会いたくなかった。私はやんわりと断りのメッセージを送る。相手からは冗談ですよと取って付けたような返答が返ってきた。私も語尾に笑をつけて返す。

 

「直近で空いてる日ありますか?」

 

ネイビーシャツの男にそう言われた。いきなりだと思ったが、まどろっこしいやり取りが無いのはありがたい。手っ取り早く会った方が気が楽だった。私はもう冬休みに入っていたのでいつでも空いているので、すぐに返事をした。

 

「そちらの都合に合わせますよ。」

「それじゃあ、今度の日曜はどうでしょう。年末だから忙しいかな。」

「大丈夫ですよ、その日で。実はリアルするの初めてなんで、緊張してます。」

「そうなの!初めてが自分で良かったのかなーなんて。」

 

話が少し弾む。相手は同じゲイで、私より少し年上だ。きっとリードしてくれるだろう。顔の全部が分からないのが心残りだが、メッセージをしている感じでは危ない感じもない。この人なら大丈夫だろうという甘い見通しを立て、誰でもいいから会ってみたいという私の欲望を満たす相手として利用させてもらうことにする。

 

「それじゃあ、今度の日曜で。また近くなったら連絡しますね。」

 

私たちはメッセージを終えた。今週末に会うなら、急がなければ。私はすぐに美容院の予約をし、週末に備えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学からバスで20分ほどの場所にある繁華街。その中にあるチェーン店の喫茶店の前で、私は待っていた。グレーのパーカーに上からコートを羽織って、ポッケに手を突っ込みながら携帯をいじる。時刻は、13時を少し過ぎた頃。

 

昼食はまだ済ませてはいなかった。空腹を感じ、時計を何度か見直す。もう待ち合わせの時間は過ぎているが、連絡が来ない。もしかして、直前になって私と会うのをやめてしまったのかと不安がよぎる。顔写真が良くなかったか、それともチャットで何か失礼なことを言ってしまったか。思い当たる節を全て洗って、冷静になる。大丈夫だ、私は失礼になるようなことは言っていないし、第一向こうもノリが良かった。この流れでドタキャンなんて、いくらなんでも出会う気がなさすぎる。向こうは年上だし、きっとお店探しか何かで時間がかかっているのだろう。私は初めて出会い系アプリで出会う男性に対して、過剰な期待をしないようにと平静を保っていた。

 

時刻が13時半に差し掛かろうとしていた。私はしびれを切らして、アプリで男性にメッセージを送った。

 

「こんにちは、今日ですよね。僕はもう着いてます。着く時間わかったら教えてください。」

 

なるべく優しく、時間なんて気にしていませんよと言うスタンスでやんわりとメッセージを送った。すぐに既読が付いた。

 

「すみません、遅れちゃって。もう着きます。」

 

その返事を見て、ひとまず約束をすっぽかされていないことに安堵する。しかし、もう着くとは言ってもこの雑踏の中、どうやって相手を見つけ出せばいいのだろう。しばらく辺りを見回して、それらしき人が確認できなかった私は、男性にまたメッセージを送った。

 

「僕はグレーのパーカーの上に青色のコートを羽織ってます。下は黒色です。」

 

服の色を伝えるのは、我ながら良いアイデアだと思った。こうすれば人前で目立つ行動を取ることもなく、互いを認識することができる。すると、男性からメッセージが来た。

 

「ありがとう、見つけました。」

 

どこだろう。もう一度辺りを見渡すと、私の方を向きながら近寄ってくる、小柄な男性がいた。ドット柄のポロシャツに黒いジャケットを羽織り、ベージュのパンツに白いスニーカーを履きながら、腰を振っている。

 

ん?と思った。私が待ち合わせたのはこの人なのだろうか。やけに小さく、手足はずんぐりむっくりしている。写真で見た感じだと大人びて男性的に見えたが、こちらに寄ってくるその人は、脇をしっかりと締め、腕を横に振り、腰を左右に動かしながら歩いてくる。ちょうどバーレスクのダンサーが観客を誘惑するような、大胆かつセクシーな動き。

 

猛烈な違和感が私を襲った。心臓の鼓動が早くなり、冷や汗をかく。実物と写真、全然違うじゃないか。初めて目元を見たが、控えめに言ってアプリに書かれていた年齢より10歳ほどは上に見える。顔もかなりむくんでいて、頬肉の盛り上がりは細い目元を更に見えづらくしている。にやにやと笑みを浮かべながら、男性はこちらに手を振っている。

 

「はじめましてぇ〜ん。」

 

男性が口を開いた時、語尾がくねっと上向きに反り返ったのを見逃さなかった。私は動揺するも、とにかくなにか返事をしなくてはいけないと思い、男性に話しかけた。

 

「はじめまして、がみといいます。〇〇さんですよね。」

「そーです〜初対面だからどんな子が来るのかと思って緊張してたけど、若々しくて良いわね〜。」

 

話せば話すほどオネエだ。手指の所作なんかもいちいち女性らしく、しなやかなのが癇に障る。

 

「今日はよろしくお願いします〜。」

 

そう言って男性は小脇に抱えたハンドバッグをしっかりと握りしめ、踵をかえして細い小道を進んでいった。私もその後を追う。

 

着いたのは裏路地にあるバーだった。外観は少し怪しい気配があり、初見では絶対に立ち寄らないであろうと思った。中に入ると私と同年代くらいの男の子が1人立っているだけで、中はがらんとしていた。まだ昼間だからだろうか。

 

「ここは昼はランチ営業してるバーだから結構穴場よ。私はお酒飲むけど、あなたはどうする?」

 

せっかくなので飲むことにした。この頃の私はお酒が飲める機会に出くわすと、必ずと言っていいほど泥酔する癖があった。母のこと、彼のこと、バイトのこと、それらを忘れられる幸福な時間として酒を逃避に使っていた。ひとまず、互いにビールを注文する。

 

「かんぱーい。初めまして、よろしく〜。あっボーイ君も久しぶり〜。元気だった?えっ、私?私はバリバリ元気よ〜。今日は久々に若い子捕まえちゃったからテンション上がってるわ〜飲むわよ〜。」

 

ボーイ君と呼ばれた男の子は、へらへらしながら私と会釈をした。話を聞くに、高校を卒業してからずっとこの店で働いているそうだ。ちゃんと働けている同年代を見るだけで心がちくりと傷む。私にはできないことを、目の前の彼はやっているのだ。

 

「この子はマスターに見初められてここで働いてるの。あれ、そういえばマスターは?」

「今奥にいます。呼んできますね。」

 

そう言ってボーイ君はカウンターの奥に入っていった。厨房だろうか、しばらくして奥から40代くらいの男性とボーイ君が一緒になって戻ってきた。

 

「やだ〜久しぶり〜。元気だった?私はもう超元気よ〜。」

 

全ての語尾に〜が付く喋り方は、テレビで見るオネエの方とそっくりだった。違いは、黙っていれば普通のおじさんにしか見えないことだけ。

 

「初めまして。若いね、うちのボーイ君と同い年くらいじゃないかな。」

「自分21っす。」

「あ、そしたらほぼ一緒ですね、僕はもうすぐ20歳なので。」

「やだ〜2人とも若すぎ〜。私が一杯奢るから、あんたたち飲みなさいよ。」

「いいんすか!あざっす。」

 

私、男性、マスター、ボーイ君とで改めて乾杯した。一体何の集まりなのだろう。初対面の人だらけで最初は少し緊張したが、お酒を入れることによっていい具合にほぐれて、バーの中は賑わい出した。私たち以外の客がいないのも相まって、男性のトークはどんどん弾む。

 

「なによ〜ちゃんと前見えてるわよ〜……って、誰が切り傷みたいな目をしてるですって?!」

 

切り傷みたいな目、要するに細過ぎて前が見えていないのではないかと言うことなのだが、言われた本人はやけに嬉しそうだった。私も最初は男性に対して苦手意識を持っていたが、それはアプリでの印象との落差があったからで、実際にこうして話すと、まぁ悪い人ではないのだろうとは思った。なによりアプリで会うのが初めてな私にとっては、店を案内してくれるというだけでありがたい存在ではある。

 

お酒も進み、いい具合に酔いが回ってきた。時刻も夕方近くに差し掛かり、辺りも暗くなり始めていた時、男性が言った。

 

「この後二軒目行くけど、どうする?」

 

私はその言葉を待っていたかのように、頷いた。今日はもう、飲んで飲んで飲み散らかそう。明日も休みだし、構うものか。酒で上がったテンションを保ち続けるため、二軒目の店にも着いて行くことにした。

 

「そしたらマスター、悪いけどチェックで。」

 

そう言って男性は、マスターの前で指をバツ印にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私と男性はお店を後にした。その辺の店で夕飯を軽く食べた後、繁華街の裏路地の方をどんどん進んでいく。昼間はそこまで思わなかったが、夜になると雪で湿ったコンクリートに雑居ビルの光が反射して、都会の様相を浮かび上がらせる。ネオンサインが怪しく明滅し、道端に転がったビニール袋や空き缶は、昨日この街で起こったであろう出来事を象徴するようにのさばっている。すれ違う人たちはほとんどが男女で、肩を寄せフラフラと歩いている。

 

男性は迷うことなく入り組んだ道をすいすいと進んでいく。そして、とあるビルの奥のエレベーターまで進むと、2階のボタンを押した。私はソワソワしながらエレベーターが降りてくるのを待つ。

 

「ここは私の行きつけの店だから。大丈夫、みんな優しいから、あなたもすぐ馴染めるわよ。」

 

男性の励ましの言葉を受け取りつつ、私は酒の余韻に浸っていた。この人が言わなくてもなんとなく、今から行くその店がゲイの人が集まるバーであることはわかっていた。人生初のゲイバー、一体どんな店なのだろう。エレベーターの扉が開くと、そこには『BARボン』と書かれた看板が立てかけられた、白い大きな扉があった。

 

扉を開けると、からんからんと鈴が鳴る音がした。

 

店内は入り口からは奥のテーブル席が見せないような構造になっていた。奥に進むと、10畳ほどの空間に、カウンターとテーブルが等間隔に並べられている。薄暗い店内にはオレンジのライトが床から照らされていて、カラオケボックスに似た雰囲気を醸していた。実際、テレビも二つあり、カラオケの選曲画面が映し出されている。ここで歌うこともできるようだ。

 

鼻腔に濃いタバコの匂いがまとわりつく。ソファーや壁に染み込んだヤニの香りが部屋中を覆っている。その奥に、20代後半くらいの茶髪の男性が1人、カウンターには恰幅のいいぱっちりとした二重が特徴的な男性が立っていた。

 

「いらっしゃいませ。あら、ヒロポンじゃない。この間はどうも〜。」

「ボンちゃん〜来たわよ〜。ほら、こないだ言ってた若い子、連れてきたわよ。」

 

ヒロポンと呼ばれた男性は、小慣れた様子で手前にある戸棚を開け、ジャケットをハンガーに掛けた。私も恐る恐るコートをハンガーに掛ける。店主はボンちゃんと呼ばれているらしい。入り口にかけてあった店名が分かりやすく名前になっているのだ。ボンちゃんは、とろんとした瞳で私を見た。

 

「初めまして。お名前は?」

「あっ、えっと……がみです。初めまして。」

 

私はアプリに設定している自分の名前を言った。

 

「そう、がみちゃんね。年齢は聞いてるから知ってるわよ。若いわね〜。ちょっとタク。新人の子よ。挨拶して。」

 

ボンちゃんがそう言うと、奥の方にいた茶髪の男性がこちらを見た。豹柄の服を着て、ロングの茶髪を靡かせて、つまらなさそうにタバコを咥えている。

 

「どうも〜タクです。よろしくね。」

 

タクさんの声はやけにしゃがれていた。酒焼けだろうか、ダミ声で喋る姿は若干の威圧感があり、私は怯みながらも返事をした。

 

一番右のカウンター席にヒロポンが座り、その横に私が座った。ボンちゃんはカウンターの奥で何かを探している様子だ。

 

「はい。どうぞ。」

 

渡されたのは透明な、ガラスでできた重々しい灰皿だった。ヒロポンはそれを目の前に置かれると、ポケットからタバコを取り出して吸い始めた。私は吸わないのでいいです、と小声で伝えると、ボンちゃんは私の前に置いた灰皿をカウンターの奥にしまった。

 

「お酒は何にします?ヒロポンはいつもの鏡月よね。」

 

ボンちゃんは私たちが座る横辺りにある戸棚を開け、酒の瓶を取り出した。瓶にはネームプレートが掛けてあり、そこにはマジックでヒロポン☆と書いてあった。ボンちゃんはそれをヒロポンの前に置くと、グラスを二つ用意した。冷凍庫の前で氷をアイスピックで割りながら、グラスに入れる。コースターを私たちの前に添え、氷が入ったグラスを手元の方にやる。

 

「この子はとりあえず、私とおんなじのでいいわ。私の瓶から注いで頂戴。」

 

ヒロポンがそう言うと、ボンちゃんはグラスに鏡月を注いだ。三分の一くらい入ったところで、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、注ぐ。マドラーをグラスに挿れると、乾いた音が店内に響いた。

 

鏡月の水割り。私はヒロポンと小さく乾杯をして、グラスに口をつけた。清涼感のある冷たい酒が喉を通る。胃がひんやりと冷たくなり、液体が体内に入ったことを感じる。初めて飲む酒だが、飲みやすい。喉を何度か鳴らし、半分ほどを飲み干す。

 

ボンちゃんはお通しを作っていた。柿ピーが小皿に盛り付けられ、冷蔵庫から大きめのタッパーを取り出すと、中身を小皿に取り分けた。それらを私たちの前に置く。ほうれん草のお浸しだ。

 

お通しをつまみながら、ボンちゃんと話した。ボンちゃんはこの店のママを初めて、3年ほどになるらしい。それまでは同じ街の別の店舗で店子をやっていて、今の店の系列店のママに雇われ店長になったそうだ。

 

「ボンちゃんはね、顔はミニラに似てるけど優しくてほんといい奴だから。」

 

ヒロポンが赤みがかった顔でそう言った。ミニラってなんだ。そう思って携帯で検索をかけると、ゴジラの子供の画像が出てきた。なるほど、言われてみれば確かに似ている。ふくよかな感じとか、垂れ目で二重の感じとか、そっくりだ。

 

酒があると話が弾む。私は大学のことや寂しくてゲイアプリを始めたこと、今日ヒロポンと初めて会ったことなどを話した。ボンちゃんは眠そうな目で、頷きながら話を聞いていた。

 

同じゲイであると言うことだけで、どこか安心できる。周りは皆年上ばかりで、一番若いと言うのもあってか勢いに任せてよく話した。小一時間くらい経っただろうか。ヒロポン鏡月の瓶も中身がほとんどなくなっていた頃、ボンちゃんが言った。

 

「あんた、いいわね。気に入ったわ。今度お店に入りなさいよ。」

 

私は、呆気に取られた。店に入るって、店員としてお店に立つってことか、私が?ゲイアプリでデビューしたばかりの私にとって、かなり飛躍した話のように聞こえた。

 

「いや、無理ですよ!僕自信ないです。」

「大丈夫よ、ちゃんと給料は払うから。時給千円、どう?あんたバイト探してたんでしょ。ちょうど良いじゃない。物は試しと思って、一回だけ。ね?」

 

確かに、バイトを探していたのは事実だった。時給千円、以前のバイトよりも高い。金に目が眩んだ訳ではなかったが、実際母にお金をせびるのも罪悪感で居た堪れないのも事実だ。ものは試し、一回だけなら……。

 

私は観念したように、ボンちゃんとヒロポンとLINEを交換した。来週の土曜、さっそくお店に立つことになった。服装などは全てボンちゃんが用意してくれるらしい。

 

「それじゃあ、よろしくね。」

 

ボンちゃんは私に、そう微笑み掛けた。

 

就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 13

お母さんの子になんて生まれなきゃ良かった。

 

RADWIMPSが出した『五月の蝿』という曲の一節だ。

 

私は高校時代ずっとRADWIMPSを聴いていたのだが、ちょうど大学生の頃にリリースされたこの曲を聴いて、私は当時の行き違いの果ての亀裂を、悔い、病んでいた。どうして母に、あんなことを言ってしまったのだろう。言わなくても良かった。むしろ、墓まで持っていくつもりだったのに。なぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日もいつものように母からの電話が鳴った。もちろん内容は、バイトの催促だ。母は常にお金の心配をしていて、不愉快だった。だからその日も、かかってきた電話に対してぶっきらぼうに、なに?と返事をしたところだった。

 

「何じゃないわよ。あんた、家賃払ってないでしょ。こっちにまで連絡来てるよ。なんでそう、前からわかってることができないの。バイトしなかったらいつかこうなるって分かってたでしょ。どうするの?今回は私が払うけど、今後どうするの?バイトいつするの?ねえ、決まるまで許さないよ。あんた、ほんといい加減にしなさいよ。」

 

うるさい、言われなくてもそんなことわかっている。心の中で反論する。バイトがしたくないんじゃない、続かないんだ。働くのが怖くて仕方ないんだ。どうしようもないんだよ。

 

そうした心の声は、言葉として出てくることはない。母からのお叱りの声を聞きながら、ただ黙り、時折小さな声でごめんというのがいつもの流れ。

 

早くこの会話終わらないかな。

 

母がお金に困っているのはよく知っている。いつも身近でみていたからだ。幼い頃から、ファミレスでは一番安いメニューを選ぶようにしていた。その方が母が喜ぶと思ったからだ。

 

どうしても欲しいゲームやおもちゃは、こっそり祖父に買ってもらっていた。母はいつも何かに怒っているみたいで、純粋に怖かった。いつだって甘やかしてくれて、楽しい場所に連れて行ってくれる祖父は、家庭内の私の居場所だった。

 

「じいちゃんは、りゅうのすけが宝物だったからねえ。」

 

祖父が亡くなってずうっと経ってから、祖母が言った言葉だ。自分でもそう思う。家族の中でも特別に愛してくれて、手塩にかけて守ってくれたのは祖父だったように思う。

 

その言葉を聞いた母は、苦い笑みを浮かべながら言った。

 

「子育ての厳しい面は私に任せてたからね。」

 

母の厳しさは、教育だったとでもいうのだろうか。毎日ご飯を作ってくれて、学校にお見送りしてくれたことには感謝している。授業参観だって来てくれた。ただ私の中の母のイメージは、常に忙しそうにしていることと、怒ると鬼のような形相で私を睨むことだった。

 

母が嫌いなわけではない。大学入学が決まったときは心から喜んでくれたし、私のことを愛しているのだと思う。ただ、どうしても電話ではお金のことばかりを責められる。どうしてわかってくれないんだ、私はこんなに職場で辛い目にあっているのに、どうして助けてくれないんだ。

 

そんなの、言わないからに決まっている。私が仕事ができないのは、男性への恐怖心があるから。そして、男性への恐怖心の根源は、お父さんがいないことと、私がゲイであることが関係している。

 

母は私がバイトを探そうとしない理由がわからない。だから責めるのだ。やらない理由を言わなくてはいけない。ただやりたくないでは済まされない。受験の時に約束したからだ、入学してからのお金はバイトで工面すると。

 

暗に、カミングアウトを迫られている気分だった。

 

しかし母には言えない。言ってたまるか。彼女まで作って隠したかった自分の恥部だ。私がゲイであると伝えて、母が受け入れてくれるはずがない。なぜなら、私の生まれ育ったような田舎にはゲイの人なんていないし、仮にいたとしても絶対にカミングアウトなんてできる環境ではないからだ。人は自分の周りに存在しない人のことをテレビの中の出来事かのように扱う。私は彼らのように派手に煌びやかに振る舞えないし、そんな見た目でもない。第一、そんなふうに誤解もされたくない。

 

家族にだけは言えない。それが、当時の私の決断だった。

 

しかし、その日の母との電話はなかなか終わらなかった。私が切ろうとしても、母は電話越しに怒り、バイトを急かす。私ができないと言うと、なぜと詰めてくる。

 

「なんでって、できないからって言ってるじゃん。」

「だから、それは言い訳でしょ。だってこっちにそんなお金ないよ?仕送りあげられるほどの余裕もない。なのに働かないって、あんたこれからどうするつもり?何も家にお金を入れろなんて言ってない。ただ、自分の生活費くらい自分でなんとかしなさいよ。」

 

母は正論を私に突きつける。しかし、その時の私はどうしても、働く気になれなかった。

 

「……働けない理由だってあるでしょ。」

「理由って何。なんの理由があるの。言ってみなさい。」

「それは言えないけど。」

「言えないって何、言えない理由なんてないでしょ。あんた、私になんか隠してることでもあるの?」

 

しまった、言いすぎた。焦って取り繕うが、一度綻んだ継ぎ目は徐々に剥がれ落ちていく。

 

「隠してることくらい、あるよ。」

「言ってみなさいよ。怒らないから。」

「もう怒ってるじゃん。」

「それはあんたがずっとバイトもせず家賃滞納するからでしょ。」

「……なんでそんな、おれだけ働かなきゃいけないの?周りの友達は、バイトもせず仕送りもらってるのに。なんでうちだけなの?」

「それを分かっててあんた大学入りたいって言ったんでしょ。応援はしてるよ。ただ、生活費は本当にうちは援助できないの。だから、本当に、ちゃんと働いて。」

 

ちゃんと、という言葉がささくれのように引っ掛かる。ちゃんとってなんだ。なにをしてたら、ちゃんとした人間になるの。ノンケはちゃんとしてるの?お父さんがいる家庭はちゃんとしてるの?私は、ゲイだからちゃんとしてないの?

 

母に対して怒りが湧いた。なぜ、この母親は私のことをこれっぽっちも分かっていないのに、正論ばかり押し付けるんだ。私だって働きたいよ。ちゃんと収入を得て自立するために大学に来ている。将来をちゃんと考えてるよ。それなのに、今バイトができないことでこんなに責められるの。なんでだよ。

 

あー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

むかつく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いいよ。あなたには絶対に分かりようがない秘密を、おれは持ってるから。だから働けないの。それに、おれのことをなんにも知らないで好き勝手いうけどさ。それ他人に向かって説教してるのと同じくらい無意味なことだと思うよ。」

「……はあ?あんた、なに言ってんの。誰があんたを育ててきたと思ってんの。息子のことは私が一番分かってるわよ。それに、なに?その秘密って。さっきから、あんたまさか悪いことしてるんじゃないでしょうね。」

「してないよ。」

「じゃあ何、秘密って……まさか、麻薬?」

 

思わず笑いそうになった。この母親は、18年間も息子を見てきて、本当に何も分かっていないんだ。薄氷のようにやわい表面だけをなぞって今まで生きてきたんだ。真実なんて目もくれずに。

 

なーんだ。

 

「麻薬って、そんなわけないよ。」

「じゃあ何、お願いだから教えて。私の知らない秘密って、なんなの。」

 

私はこのすっからかんな母親を、心底可哀想に思った。だから、言った。

 

「ゲイなんです。だから働けないんです。理由、知りたい?」

 

数秒、間があった。

 

「……え?ゲイ?」

「そう、ゲイなの。だからバイトしたくないの。ごめんね、今までずっと知らなかったよね。男で、男が好きなんです。わかる?ほんと、ずっと気付かなかったんだね。18年間、他人を育ててたんだよ。ごめんね?」

 

語気が強まる。私の口調が刺々しくなるのとうらはらに、母の声はか細く、小さくなる。

 

「……本当なの?」

「嘘だと思うならそれでもいいよ。ずっと黙ってたから。言えなかったんだ。それがストレスで実家も出たかったし、ほんとせいせいするよ。一人暮らしができなかったらこうして言えなかっただろうしね。ほんと、感謝だね。」

 

母は、しばらく黙り込んだ。続けて、私は問いかける。

 

「バイトができないのは、男性が怖いからなんだよ。うちずっとお父さんいないよね?知ってる?ゲイって母子家庭出身の人が多いんだって。ずっと自分がなぜゲイか考えてたんだけどさ、もしかすると母子家庭が原因なのかもね。そしたら、お母さんが原因ってことになるよね。笑えるね。」

「……あの時彼女がいたのは?」

「可愛かったから付き合ったの。それだけ。結局セックスもできずに別れた。だってしょうがないよね、ゲイなんだもん。家族に隠したくてちょうど良かったから付き合ってたの。あ、それでね、男性が怖くて仕方なくて、おじさんとうまくコミュニケーションができないから、だからいつもバイトクビになるの。本当は働きたいんだけどさ、ごめんね。こんな不出来な息子で。ほんとごめん。」

 

謝る気なんてさらさらない。とにかく、電話越しにいる母に、ありったけの罪悪感を植え付けたい。

 

「だから、まとめると、あなたはずっと18年間他人を育ててきたんです。化けの皮が今剥がれました。これからは他人だね。ほんとは全部1人で背負い込んで生活していければ楽だけど、今はできないから力を借りちゃうね。ごめんね。いつかこの借金全部返すから。生まれてからずっと、自分に掛かってたお金全部返すから、そしたら他人になろうね。」

「……なに言ってんの。そんなの望んでるわけないじゃん。」

 

母の声は、少し潤んでいた。

 

「まあとにかく、バイトができない理由、分かったでしょ。もう長電話だから切るね。ほんと、孫の顔見せられなくてごめんね。」

 

私は電話を切った。言ってしまった、勢い余って全てぶちまけてしまった。

 

カミングアウトという儀式は、祝福されるべきものとして扱われている。結婚式を挙げたカップルに、皆がお幸せにというように、カミングアウトをしたセクシャルマイノリティには、よく勇気を出したね、と賞賛の声が挙げられる。Twitterなどで何度も見た光景だ。

 

私は、あのカミングアウトの儀的な装いが苦手だった。なぜなら私はそのように立派に讃えられるようなカミングアウトをしてきたことがないからだ。初めての告白は玉砕し、わんわん泣いて友達に肩を貸してもらう。そんなみっともないカミングアウトしかしてこなかった私は、ゲイだと伝える方法を、最終手段として捉えていた。つまり、もう後には引けない状態になるまで我慢して、爆弾のようにアウトするということだ。まさか肉親にまで、爆弾を投げつけることになるとは思っていなかったのだけど。

 

普通、カミングアウトした後というのは多少なりスッキリするものだ。しかし、その時の私は怒っていた。どうしようもなくドス黒い感情が湧き上がり、取り留めもなく罵る言葉が湧いてくる。しかも、なるべく相手を傷つけるような表現が生まれてくるのだ。私の一体どこに、こんな語彙力があったのだろう。

 

吐いても吐いても吐ききれず、少し冷静になってきた頃、事態を重く捉え始めた。どうしよう、ついに母に言ってしまった。

 

しかし、言ってしまったものは仕方ない。そうやって気持ちを割り切ろうとするが、気が滅入る。これからのことを考えると、憂鬱で仕方ない。家族にどう顔向けしたらいいんだ。私はこれからどうしたらいい。

 

最悪のカミングアウトが終わって、その後どうやってその日を過ごしたかはよく覚えていない。ご飯を食べて普通に寝たのだろうか。そうだとしたらあまりにも無神経すぎる気がする。しかし、記憶にもやがかかったようにその日1日の出来事が思い出せずにいる。私はあの日、どう言う気持ちで過ごしていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝、私の携帯が鳴った。母からの着信だ。

 

「昨日は色々言いすぎてごめんね。あのあとちょっと反省してた。バイトはしばらく休んでいいよ。……ただちょっと、改めて確認なんだけど。」

「うん。」

「ゲイって、治らないの?」

 

母のその一言に、私は凍り付いた。何を言ってるんだろう、治る?治す方法があるのなら、とっくにやってるよ。あるなら、逆に教えて欲しいよ。この女は、正気でこんなことを言ってるのか。

 

キレた。それはもう、本気の怒声を浴びせた。

 

「ふざけんな。おれがいままでどれだけ我慢して辛いことに耐えてきたか知ってるのか、知らないよな。なのに、治せるかだ?そんな言葉を言うために電話してきたのか。本っ当に、クソ馬鹿女だな。そんな方法、こっちが知りたいよ。治せる病院あるなら連れて行けよ。なあ、ほんとに、今すぐ治してくれよ。そしたらおれは親孝行できるし、バイトもできるようになるよ。一石二鳥だろ。はあ、ほんとに、馬鹿すぎて苛つく。なんで、お前みたいな女の元に生まれてしまったんだろう。父親の顔が見てみたいよ。あ、おれとそっくりなんだっけ。じゃあ父親もゲイだったんじゃないの。だから離婚したのかもね。何度も、何度も、何度も。」

 

18年分の積載が、一気に蓋を開ける。私の口からは口汚い言葉が溢れ出す。

 

「偽りの家族だったんだよ。その人のセクシュアリティは、ほとんど性別みたいなもので、それを知らずに育てたってことはずっと、他人を見てたのと同じなんだよ。おれはずっと寂しかったよ、苦しかったよ、仲間がいなくて田舎で1人、虚しかったよ。それでも将来を諦めずに必死にデッサンしていきたい大学受かって学費だって全額免除になってるんだ。十分親孝行してるだろ。おれにこれ以上完璧を求めないでよ。男性が怖いんだよ。コミュニケーションの仕方がわからないんだよ。仕方ないじゃないか、そう言う風に育てられたんだから。」

「りゅう。」

 

母が口を挟んだ。

 

「もういい、私が悪かったから。それ以上言わなくていいから。治せないのは分かった。ごめん、自分でもちゃんと調べておくから、また今度話そう。」

 

母との電話が終わった。最後はもう、喚き散らしながら憎悪の感情を剥き出しながら叫んでいた。私をこんな風に産んだ母が憎くてたまらない。見返せない自分が悔しい。私がちゃんとバイトができれば、ちゃんとノンケとして生まれていれば、こんなことにはならなかったのだろう。

 

お母さんの子になんて生まれなきゃ良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カミングアウト後は、何度か母から連絡は来た。ただ、私は電話に極力出ないようにしていた。無視を決め込んで、どうしようもなくお金が足りなくなった時だけこちらから電話をかける。そうして、金の催促をするのだ。最初はバイトの話を出していた母も、段々と何も言わなくなり、ただ黙ってお金を援助してくれるようになった。そのお金がどこから出ているのかは知らないが、お金を貰ったら貰ったで罪悪感に苛まれ、虫が湧いた植物を見た時のようにむず痒く、どうしようもない気持ちに襲われた。

 

大学2年の夏休み。学生たちで海を見に行った。地引網で魚を捕まえて、その場で捌いて食べる企画があるのだ。私は体型がガリガリでコンプレックスだったのであまり海は好きではなかったが、久々の開放感に少し心が安らいだところだった。

 

実は私は、18年間刺身が食べられなかった。だがこの地引網で捌いた魚を食べて、初めて生魚を美味しいと感じた。それからは抵抗なく刺身が食べられるようになった。

 

きらめく水面に西陽が照らされる。サングラスを額に掛け、ビーチチェアに腰掛ける。男子たちはまだ海に入っていて、浮き輪に浮かぶ様子を遠くから眺める。サイダーの蓋を開け、一気に飲み干す。

 

炭酸の刺激が胃から込み上げてくる。口に手を当て、二酸化炭素を口から吐くと、なんだか今いる景色が酷く現実離れしているように思えて仕方ない。

 

私はバイトもうまくいかない、母には最悪のカミングアウトをした、そして最愛の人に振られ、祖父が亡くなった。この一年半の間で起こった出来事が濃密すぎて、告白したのがはるか昔のように感じられる。たった10ヶ月ほど前のことなのに。

 

受験の時が懐かしい。あの時はただ、がむしゃらに目の前のことに取り組んでいれば成果が出ていた。しかし、大学に入ってからは課題もいまいち評価されず、私生活では失敗ばかり。物事は、真っ直ぐに向き合うだけではうまくいかないということがよく分かった。

 

いや、もしかしたら私の姿勢がとんでもなく歪んでいるのかもしれないけれど。

 

ひとときの海での休息の後は、家でぐったりして寝込んでいた。この頃から私は過眠に悩まされるようになった。一日12時間くらい寝ても、まだ眠れるのだ。浅い眠りを繰り返し、気づいたら学校に遅刻することも何度もあった。幸い、取得しなければならない単位はギリギリ取れていたため留年などにはならなそうだった。しかし、夏休みという貴重な時間をただ寝て過ごすのは自分でも勿体無いとは思う。でも体が言うことを聞かないのだ。

 

休みの日になるといつもこうだから、早く学校が始まってくれればいいのに。長期休暇なんて要らない。課題があれば、嫌なことも忘れて集中できるのに。そう思っていた。

 

就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 12

「……お願いがあります。」

 

私は薄暗い部屋の中で、私はベッドに仰向けになりながら電話を掛けていた。相手は、バイト先の店長だ。

 

「お願いって?」

 

店長が聞き返す。私は勇気を振り絞って、言った。

 

「バイトのことなんですけど……辞めさせていただけないでしょうか。」

「……話ってそのことか。なにも急に辞めなくても。おれは君のこと、全然大丈夫だと思ってるんだけどね。」

 

大丈夫という言葉を投げかけられ、私は不思議に思った。私は客にビールをぶっ掛けた張本人だ。半年以上も経って未だに全く仕事ができないのに。なのになぜ、この人は私を庇ってくれるのだろう。

 

私が思わぬ肯定の言葉に動揺していると、続けて店長が言った。

 

「なんか嫌なことでもあった?」

 

嫌なこと……思い当たる節は、ある。あるに決まっている。私がシフトに入るたび、ビクビク怯えなければいけない原因が。

 

しかし、そのことを店長に直接伝えるのは憚られた。何故なら、私が自分の仕事のできなさを棚に上げて責任転嫁している風にしか思えなかったからだ。

 

「……自分が悪いってのはわかってるんです。自分が仕事できないから、周りに迷惑かけるから、だから結果的に……その……怒らせてしまうのはあると思うんです。その、凄く言いづらいんですけど。」

「バイトリーダーかい?」

 

店長は、私が言いたかった答えを先に用意してくれた。

 

「あいつもなあ、俺も言ってはいるんだけどな、なかなか頑固というか、仕事熱心なのはいいんだけどな。あんまし余裕ないやつなんだよ。坂上くん、結構キツく言われてたろ?」

「……はい。」

「そうなんだよなー。前にも新人の子辞めさせてるからなあいつ。俺からも遠回しに言っとくし、もうちょい頑張ってみない?せっかく半年続けたのがもったいないよ。」

 

返答に悩んだ。この人はいい人だ。男性が苦手な私でも分かる。本当に私のためを思って言ってくれている。ただ、その善意がつらい。

 

今ここで、バイトを続けることになった場合、また次の出勤日にバイトリーダーと顔を合わせることになる。そんなのは耐えられない。ただでさえ、前回の出勤日に祖父の死と振られたことが重なってパニックになり、怒られたときについ、言い返してしまったからだ。

 

「僕だって、色々抱えてるんですよ。今日くらいそっとしておいてください。」

 

その時のバイトリーダーも、さすがに私の様子を見て只事ではないと察したのか、それ以上の追及はして来なかった。今思えば、それくらい言い返しても良かったとは思うのだが、当時の私は仕事ができないくせに私情を職場に持ち込むなんて最低だな、と自分を蔑んでいた。

 

そんなことがあって、私はどうしてもバイトリーダーと顔を合わせたくなかった。

 

「……ごめんなさい。やっぱり、どうしても無理です。バイト辞めます。」

「そうか……残念だね。」

 

店長は名残惜しそうに言った。残念、という言葉。きっと私を思っていってくれたのだと思うが、その時の私には重く響く一言だった。

 

昔からそうなのだ。第一印象がやたら真面目そうに見えるからか、よく期待されてしまうのだが、その期待に応えられずに失敗して恥をかくことが多かった。その度、周囲の"残念"という言葉が頭にこびりつく。

 

店長とはその後、次の出勤をどうするかや、最後の給料のことなどを一通り話した。私は店長に、今後職場に行かなくて済む方法と、職場に行かずに手続きができる方法がないかを尋ねた。聞けば、バイトはかなりあっさりと辞められるようだった。電話をした直後からもう行かなくてもいいし、最後に借りている制服を洗濯して返しにきてくれればそれでいいとのこと。

 

店長との話が済んだところで、私は電話を切った。とにかくこれで、もうバイトに行かなくていい。お金の心配はあるけど、今はいい。これ以上は耐えられない。辞めてホッとした。

 

奨学金の5万じゃ家賃と生活費には到底足りない。そんなのは分かってる。それでも、あの職場に居続けることだけは耐えられなった。

 

バイトを辞めたことはもちろん、誰にも言わなかった。友人たちは私のバイト先の話などにあまり興味がないし、母にはそもそも言いたくない。次のバイトをどうするか決めろと急かされるだけだからだ。今は、ひとときの休息が欲しい。

 

大学一年生の冬が終わる。この頃の課題は比較的楽で、締め切りが長いものや座学めいたものが多かった。学生たちも学校に慣れてきたのか、次に入ってくる後輩のことで話は持ちきりだった。皆2年に上がることが楽しみで仕方ないんだろう。

 

私も、素直に楽しめれば良かった。しかし、私にはまだ彼への想いが払拭されておらず、それどころかあの日チャットで言われた"結構好き"という言葉を都合よく解釈して、まだ望みはあるのではないかと考えていた。彼に嫌われてはいない。それなら、私にもまだチャンスは残っているのでは無いだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春。学校の校門の前の桜並木が一斉に色付き、春休みを終えた学生たちで賑わい出す季節。私たち2年生は、去年自分たちがもてなされたように、新しく入ってきた一年生を連れ去り、あだ名をつけ、新歓を開いていた。

 

春は飲み会が盛んな時期だ。色々な出会いと別れが繰り返され、その度に飲み会が開かれる。私の飲み方は以前にも増して最悪だった。酔った勢いで思ったことを全て口走り、悪態をつき、好きでもない先輩後輩同級生とボディタッチで絡む。記憶を無くすことも何度かあった。理由はバイトのことや、彼に振られたからということもあるが、それ以上に、そのことを誰にも言えずに1人で抱え込んでいたことに原因があった。

 

むしゃくしゃする。誰かと一緒にいないとどうにかなってしまいそうだ。誰でもいいから構って欲しい。私に、この抱えている想いを忘れさせて欲しい。

 

お金の心配と、恋愛のこと。これらが当時の私にとっての大きなストレスの元だった。

 

ゴールデンウィークも過ぎ、彼に振られてから丁度半年以上経った頃。私の諦めはまだついていなかった。それよりも振られたことで勢いを増し、以前よりも積極的に彼にアプローチをするようになった。

 

以前空いた距離を埋めるように、近づく。挨拶も柔かに、彼の前で笑顔を絶やさなかった。きっと彼からしたら、今までずっと互いを無視し続けていたのに急に距離を詰めてくるものだから、不気味だったであろう。しかし、そんなことはおくびにも出さずに彼は私に対して優しかった。いや、あえて優しくすることで距離を保とうとしていたのかもしれない。それでも私にとって、彼の声や一挙一動は全て癒しに思えた。

 

ある日、思い切って聞いてみた。

 

「今日、君の家に行ってもいい?」

 

しばらくキョトンとした顔をした後、彼は言った。

 

「いいよ。」

 

私は舞い上がった。彼に許容してもらえた。以前は振られたが、そんなことは今はどうでもいい。今、彼に受け入れてもらえたことが嬉しい。彼のことを考えるだけで胸が溢れそうになる。自分の行動を制御できない。

 

その日、学校終わりに彼の家に遊びに行った。

 

飲み会で彼の家が使われたこともあって、内装や場所などは知っていた。10畳くらいある広めの1K。インテリアは洋風なものが多く、ドラマなどで見る男の子の子供部屋のような雰囲気を醸し出していた。トイレには虎と男の子のキャラクター。見たことない、名前はなんていうんだろう。

 

彼はベッドに寝転がり、私はソファに座った。以前、彼が家に来た時のことを思い出す。彼の家の匂いは、あの日洗剤と混じって包まれた彼の匂いと同じものだった。匂いというのは記憶に残りやすい。好きな人の香りに包まれて、気持ちが安らぐ。

 

2人でWiiスポーツという様々なスポーツを体験できるテレビゲームをした。彼はゲームや漫画も好きなようで、家には一通りのものが揃っている。2人で並んで、テレビ画面の前に座る。

 

正直、ゲームはさほど楽しくなかった。大学生になるまでは、娯楽といえばゲームで、毎日退屈な時間を紛らわすためにゲームに勤しんでいた。しかし、大学生になった今は同級生との会話や課題そのものが楽しくなり、ゲームに夢中になることも減ってきていたのだ。

 

なにより、彼の家に彼と2人っきりでいること。そのことが私のゲームへの集中力を削いでいた。

 

ゲームの画面の中で、私はパラグライダーに捕まって、青空を自由に飛んでいた。眼前には広大や山や海。大自然の中を自由気ままに滑空しながら、私は最近のゲームはよく出来てるね、などと当たり障りのない話題を振り、その場の空気をやり過ごそうとしていた。

 

彼は、チャットではよく話してくれていたが、直接会うと極端に口数を減らしていた。基本、無言。私は男性が無言でいると何を考えているのか分からないので、怒っているのではないかと心配になる。話しかけると返事は返ってくるので、安心する。彼がもし、あの時キスしようとしたことを怒っていたのだとしても、私に対して直接怒りを見せるようなことはしないのだろう。あくまでも優しく、話しかけられたら返事をする。自分からアクションは起こさない。そういう受け身の態度を取り続けることで、彼は自分自身を守っているのだろう。

 

ふと、彼が言った。

 

「なんか食べる?」

 

私はさほどお腹は空いていなかったが、彼の発言に思わず頷いた。

 

彼は料理がうまい。実家にいる時から家族に教えてもらい、一通りの料理は作れるようだった。入学当初、私が自炊をするのが初めてだということを彼に伝えた時、彼は私にカレーの作り方を一から丁寧に教えてくれた。

 

玉ねぎは飴色になるまで焦がさずじっくり炒めること。落とし蓋の代わりに皺を付けたアルミホイルを使ってアクを取る方法。包丁の手入れの仕方など、料理をしている時の彼の表情はまるで一端の料理人かのようにキラキラとしていた。

 

そして彼はよく食べる。身長が高いからと言うのもあるが、四六時中菓子パンやおにぎりなどを口にしている。それでいて特に運動している素振りも無いので、よく太らないな、と感心したものだ。

 

そんな彼が、私にご飯を作ってくれると言うのだ。彼の料理を食べるのはいつぶりだろう。懐かしい気持ちが蘇ってきて、私は彼に振られたあの時の悲しい気持ちを一時的に忘れることができていた。

 

キッチンに立つ彼を、部屋から眺める。大きな背中を少し丸めて、フライパンを上から見下ろす。ゆっくりと冷蔵庫に手を伸ばしたと思ったら、取り出したのは卵のよう。一体、なにを作ってくれるのか。

 

しばらくして、彼は部屋へと戻ってきた。手には黒いお皿に乗っかった、黄色いふわふわしたもの。はい、とぶっきらぼうにその皿を私に手渡した。オムレツだ。

 

冷めないうちに食べた。しっかり塩みがついていて美味しい。油に使ったであろうオリーブの良い香りがついていて、空腹ではなかったが問題なく食べられた。半分食べて残り半分を彼に手渡すと、彼もおう、といいながらぺろりと完食した。あのキャラで作ってくるのがオムレツって、彼は狙っているのだろうか。大きな体に見合わぬギャップに、かわいい。と言葉が口をついて出そうになる。

 

彼は人に優しくするのが心底好きな人なのだろう。でなければ振った相手を家に招き入れて、手料理を振る舞うなんてことするはずがない。少なくとも、彼に嫌われているわけでは無い。そのことに安堵するも、彼の態度次第で私の気持ちがプラスにもマイナスにも働く今の状態を、私は決して良いとは思えない。しかし私が行動しなければ、彼から私にアプローチをしてくることは決して無いことも分かっていた。これは、彼と私の我慢比べなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時刻は、何時頃だったろう。日付が変わるか変わらないかの間。大学生ともあればまだ起きていても何も不自然ではない、真夜中の時間帯。私は、彼に聞いた。

 

「横で寝てもいい?」

 

ソファから彼の方を見てそういうと、彼は目線だけをこちらに向けて言い返した。

 

「お前がいいならいいんじゃない。」

 

なにそれ、と思った。許可しているのかいないのか。全て他人に委ね、責任は一切取りませんよというスタンス。まぁいい、そっちがその気なら私も好きなようにさせてもらう。そう思って、私は彼の布団に潜り込んだ。

 

リモコンで電気が消される。豆電球がオレンジ色に室内を照らして、私たちの息遣いは薄暗い室内にこだまする。遠くの方で車が走っている音も聞こえる。窓から一筋の光が部屋をまたぐ。

 

私は、手を彼のお腹のほうに回した。体は呼吸で上下し、体温で手が温まる。彼の寝息は静かだった。いや、寝たふりをしているのだろうか。私が体を触っても、何も反応はない。いや、これでいい。これは私たちの我慢比べなのだ、と私は自分に言い聞かせる。

 

しばらくそうしていた。どれくらいの時間が経ったのだろう。私は眠れるはずもなく、ただ彼の背中に身を預けるようにして目を閉じていた。静寂さに包まれる。このまま朝になってしまうのが嫌だった。ずっとこうしていたい。彼のそばで、彼が嫌がらないのであれば永遠に、彼の温もりだけを感じて物言わぬ花のように生きていきたい。

 

そんな願いが叶うわけはない。彼にとって私は、ただの友人。好意はあれど、愛情に発展することはない、それだけの関係だ。しかし、いくら言葉や態度でそのことを示されたとしても、同じ教室で毎日顔を合わせる中で白々しくしていろだなんてそんなこと無理に決まっている。

 

私はきっと、ずっと永遠に、彼のことが好きなのだから。

 

お腹に当てている手をそっと、下の方に動かす。彼が履いているスウェットに手が当たる。そのまま手を中に忍ばせる。手はじんわりと湿度を増し、彼のパンツに手が触れる。ボクサーパンツのよく伸びる素材を肌で確かめつつ、その奥に指を伸ばす。硬いものに触れる。吐息が漏れ、心臓がどくどくと脈を打つ。緊張感と温もりの中で、私は過去に会った大学生との出来事を思い出していた。あの時は誰でもよかった。大切にしたいものなんてなかった。目の前の全てに苛立っていた。愛情に飢えていた。ただの獣だった私に、目の前にいる彼はときめきをくれた。未来を指し示してくれた。私が心底向き合って、大事にしたいと思えた関係だ。だから勇気を出して告白したのだ。その結果がどうであれ、今この時間を2人きりで過ごしている。そのことに意味がある。私は、私の思いをただぶつけ、わがままに彼を振り回しているだけかもしれない。でも仕方ない。これは恋なのだ。肉欲だけではない、彼の仕草や声に、私は恋をしたのだ。そのことを誰にも邪魔されたくない。私は、私のこの先の行動がまた彼を傷つけることになってしまうことも十二分に分かっている。しかし、止められないのだ。5月は一枚の掛け布団を2人で被るには少し暑く、素肌を露出して寝るにはまだ寒い。そんなちぐはぐな季節が愛おしく、繊細に思えるのは彼のおかげだ。永遠にこうしていられたら、どれだけ幸せだろう。終わらないで欲しい。終わらせたくない。この時間を私の人生に刻みつけたい。これは、魂の烙印なのだ。

 

私は布団の中に潜り込み、太ももの間に挟まれるような体勢になった。彼が起きるかもしれないと思ったが、もう遅い。膨らみに頬を密着させ、息を吐く。彼に流れる血の音を耳で聞くと、ゾワゾワとした感覚が下腹部から迫り上がってくるのを感じる。布団の中で、大きく息を吸い込み、私は、彼の履いているパンツに手を掛け、引き下ろした。

 

硬い。触ると弾力があってすべすべしている。暗くてよく見えないので、私は布団を剥いだ。露になる、彼の愛おしさ。

 

もう全部忘れたい。生まれてから今までに起きたこと、それまでの友達や受験のこと、全て忘れてしまってもいいから、この光景を目に焼き付けたい。それくらい、鮮烈だった。私は死ぬ時、きっとこの光景を走馬灯のように繰り返し思い出すのであろう。繰り返し、何度も夢で見るのであろう。その度に傷つき、悔やんだとしても構わない。この弾け飛びそうな瞬間を掴めたのなら、もうそれ以上何を望むものか。

 

火傷しそうなほどの温度に、怯むことなく見据えた。そして、その張りのある部分に顔を埋める。ボディソープの匂いが鼻腔をつく。彼の存在を、五感全てで抱きしめたい。

 

舌を出して、舐めた。それでも足りず、口に頬張った。ああ、神様。私はまたいけないことをしてしまいました。しかし、愚かであることを許容するこの男もまた、受容という名の罪人なのではないでしょうか。私はこの行為が罪であるならば、謹んで磔刑に処されます。しかし、私の存在そのものが罪なら、人はなぜ愛したり愛されたりする必要があるのですか。愛などなく、獣のように貪って、子孫を作り、それで事足りるではないですか。なぜ愛などという仕組みをお作りになったのですか。私はわからないことを言う神様なんかより、自分の欲求に素直でいたい。何もない私だからこそせめて、自分に対してだけは誠実でいたい。

 

性欲と愛情と、センチメンタルな片思いが混ざり合い膨れ上がる。化け物が顔を覗かせる。美味しそうなものを頬張る時と同じだ。人の欲望は際限がない。目の前に欲しいものを出されたら、躊躇なく欲しがるのが人なのだ。なぜ私は、男というだけで男を愛してはいけないのだ。

 

顔を上下させる。唾液が糸をひき、ほのかに光の筋を作る。こうすることが幸せだったのか。この先どうするのが正解なのか。よく分からない。それでも、一心不乱に目の前の出来事に向き合う。私が作り出した状況なのだから、責任は私が取る。そうしなければこの先、彼と顔を合わせることはできないだろうし、自分自身も報われない気がしたのだ。

 

口が痺れる。舌先を動かして、歯を立てないように気をつける。自分が見てきたもの感じてきたものを総動員して彼を促す。これで良かったのだろうか、これがしたかったのだろうか。彼の言ってた、"お前がいいならいいんじゃない"という言葉がリフレインする。感動も嘆きもない、時間だけが薄く引き伸ばされた一瞬。私の頭を彼の手が掴んだ。

 

焦って、口を離す。顔を上げると、彼が薄暗闇の中でこちらを見ていた。目線が私の瞳孔を捉える。心臓が跳ね上がった。彼の冷たく、鉛のような視線。あの時、ドアチェーンを跳ね除け私を拒絶した彼の目と同じだ。

 

「ごめん。」

 

咄嗟にそう言った。彼は何も言わず、私の後頭部を掴んでいる。

 

「ごめん、ごめん。」

 

目線を合わせられない。寒気にも似た罪悪感が私を覆う。彼は怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか。なぜなにも言わないのだ。寝ている時に勝手に体を弄られて、普通なら怒るはずだ。私の頭を掴んで剥がそうとしたのも、怒りからではないのか。なぜ黙っている。なぜなにも言わずに私を見ている。こうなることを分かっていて家に招いた、彼の気持ちがわからない。ぐるぐると思考だけが旋回して、冷や汗が流れる。

 

言葉が体の内側から溢れるように漏れてくる。彼のそばで蹲り、顔を伏せる。しばらくそうしていると、私の頭にもう片方の手が添えられた。優しい感触。彼はなにも言わずに、黙って私の頭を撫でた。

 

受容の奥に潜む、いたいけな感情。私はその時の彼の姿に、自分と似た小さな温もりを感じた。それは外見や態度からはわからない、彼の芯にある優しさだ。それを私は私への愛情だと勘違いした。都合よく解釈して、甘えた。そんな私の愚かさすら、彼は包み込んでくれた。

 

夜が明け、窓から指す光が私たちを薄く照らす。少し肌寒いくらいの室内で、私たちはどれくらいそうしていたのだろうか。涙が出たわけではなかった。ただ、申し訳なさと後悔と、彼の優しさが身に染みて、私は顔を上げることができなかった。恋した罪人。しかし、これが私の求めていた父からの愛情に似たものであることも、その時の私はうっすらと感じていた。

 

もし私にお父さんがいたなら、彼のような人であって欲しいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝になり、小鳥の囀りが聴こえる頃。私はまた、彼の背中を見つめるようにしてベッドに寝そべっていた。彼の息遣いは静かで、こちらからは起きているのかどうかよくわからない。

 

「もしおれが女の子だったら、普通に付き合えてたのかなあ。」

 

独り言のようにそっと、彼の後ろで問いかける。彼はなにも言わなかった。ただ私の言葉だけが虚しく、彼の部屋に余韻をもたらす。

 

それからしばらくして、アラームが鳴り響き私たちは目覚めた。ついさっき起きたことをなにもなかったかのように振る舞い、身支度をして学校へと向かった。教室に着くと、いつものように皆がおはようと声をかけてくれて、私の意識はやっと日常へと戻ったような気がした。

 

彼とはその後、普通の態度で接した。やけに愛想良く振る舞うのではなく、逆に互いを遠ざけるのでもなく、普通に。そつなく日々は過ぎ、私はあの日の出来事を何度か夢に見た。その度に思う。彼にとって、私とはどういう存在なのか。あの日のことをどう思っているのか。答えがあるなら教えて欲しい。

 

5月も終わり、梅雨の気配が近づく頃。私の人生にとっての重大な、それでいて最も悲劇的な出来事がもうすぐ起ころうとしている。さんざめく日常と、私の孤独な芯の部分が対比する。光だろうか。嫌に生ぬるい情感が、のしかかるようにして私の足を引っ張る。上っ面の憧憬。簡素な、悲鳴にも似たけたたましさ。それらはさらなる足音として、私を追いかける。大学2年の夏がもうすぐ始まろうとしている。そんな矢先にどうして、あんなことが起こらなくてはならなかったのか。宿命が、囁きかける。

 

「君のやったことはレイプだよ。それ以上でも以下でもない。君には罰を与えなくてはいけない。欲望のままに走った人間の愚かさに、吸い寄せられて息絶える。そうして耐え難き苦悶の果てにようやく、一筋の光が見えてくる。琥珀色の雀が鳴いて、ぐるりとこちらを覗き込む。先は憂い、しばしの陥落。崩壊の足跡を縫って祝えよ。神に甘んずることなかれ、静粛に、清らかに、慎ましくあれ罪人よ。」