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『蛙化現象』とかほざく女

歌手、大森靖子の歌詞にこんなフレーズがある。

 

「@youtubeさんからあたしの全部をわかった気になってライブに来ないね」

 

突き放すようなこの台詞は、現代の音楽の消費のされ方に対する疑問を投げかけるようでいて、そのことに憤慨するわけでもなく、仕方がないと受け入れる包容力も見せている。大森靖子は俯瞰の達人だ。人間の明るみも暗みも全部知っていて、それを"あえて"言葉にする。ある人にとってはナイフのように刺さり、ある人にとっては母性のように響くだろう。そんなアンビバレントな感情を、まるで手癖でやっているかの如くさらっと表現してしまう。そういうところが魅力的で、ある種の叙情を感じて私は大ファンなのだが、私も実を言うと『ライブに行かないが音楽が大好きな』ずるいファンなのである。

 

ある時から自分がライブパフォーマンスの空間が苦手なことに気づいた。それまでも何度か、色んなアーティストのライブに足を運んだことはあったし、それなりに楽しめていたようにも思う。だが美大に行って、周りの友達がこぞって地方まで遠征に向かっているのを見ると、どこか遠い感じがした。そこまでして見たいものでもないような、冷めた気持ちが自分の中から湧くのを感じた。

 

なぜかを考えたら色んな理由が思い浮かぶ。大きい音が苦手とか、汗かくのが嫌いとか、人混みが苦手とか、一体感を感じると冷めてしまうとか。まあほんと、あるよねって感じ。

 

ライブっていうのはそういう不快感すらも全部ひっくり返すような輝きがあり、やっぱりそれは憧れのアーティストが目の前で演奏し、歌っているという"ナマ"な感じから来るものだ。ライブ感ともいうらしいが、もちろんそれは私も感じる。今まで平面世界にしか存在しなかったアーティストが、現実にいるのだからやっぱり嬉しい。

 

しかしそれはそれとして、やっぱり私はそういう状況でも俯瞰してしまう。私が今見ているものとかを客観視して、別のことを考えてしまう。没入できない。せっかくお金をかけて足を運んでいるのに心の底から楽しめないなんて自分でも損だと思うが、でも実際そうなのだ。

 

『蛙化現象』という言葉を聞いたことあるだろうか。主に女性が使う言葉なのだが、好きな人が振り向いてくれた時に謎の不快感に襲われ、その人を気持ち悪いと遠ざけてしまう現象のことだ。私は最初にこれを聞いた時、なんで?と思った。だってずっと片想いしてる人が振り向いてくれて、両想いになったら言うことないじゃん。なんでそれが気持ち悪いの。なんでそれで嫌いになるの。成就しなかった片想いに失礼じゃないのか。お前は一体何様なんだ、と否定したくなる気持ちが湧いた。

 

ネット上では主に男性から、単に自分が冷めてしまっただけのことを蛙化現象とか都合よく呼ぶ女に対しての非難が殺到している。私もそうで、正直理解に苦しむ脳みそのバグのような拗らせ方だよなと思う。それで君が生きやすいなら良いけど、そうでないなら素直になれば良いのにとしか思えなかった。

 

ただ、蛙化現象を恋愛の裾野から広げて、表現の場に拡大してみたらどうだろう。私も結構似たようなことをしているのではないか。

 

人は好きな人の前だと緊張するものだし、時には整合性のない非合理的な行動をとってしまうものだ。それは恋愛に限らない。大本命に出会ってしまったら、それがなんであれ強く意識せざるを得ない。例えば私は、大ファンの人に実際に会うと会わない方が良かったと思ってしまうことが多い。例を挙げよう。

 

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漫画家のアシスタントをしている時に、先生にサインを欲しがる他のアシさんを見て気持ち悪いと思った。サインなんてもらってしまったらその人に一生追いつけない。その人はただの憧れになってしまい、自分は一生ただのファン。それがなんとなく許せなかったし、先生にサインいる?と聞かれた時にそれを普通に言ってしまい、クビになった。

 

アイドルのトークイベントに行った時には、帰りにチェキ撮らないんですか?と聞かれ、自分ごときがあなたと一緒に写るなんて写真が可哀想です。と言ってしまい、周囲をドン引きさせた。

 

好きな文筆家が納涼祭に参加していて、偶然手を繋ぎ一緒に踊る機会があったにも関わらず、声を掛けなかった。その人はプライベートで来ているのだし、私なんかが声をかけて仕事モードにさせるなんて失礼だ。そんなことを考えてしまった私が恥ずかしい。と自己嫌悪した。

 

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また私の友達はデザイナーだが、大学に憧れの人が講師としてきた時に、その人に自身が柱としているデザイン論をぶつけていた。あわわと思ったし、かなりハラハラした。だってそんな、一端の美大生が本職のデザイナーの考えに及ぶわけがないのに。謙虚に頷いていればいいのに。普通ならこう思うだろうが、きっとその友達も必死だったのだろう。憧れの人を目の前に、絶対に自分の存在を意識させてやりたいとどこかで思っていたのだろう。めちゃくちゃわかるし、結果的にそれが生意気に見えたり非合理的な行動だったとしても止めることはできない。『若さ』で誤魔化される一時的な言動は、普段平穏な人の本性を簡単に暴いてしまう。

 

私やその友達の非合理的な行動にはやはり、"好きすぎるが故の"暴走といったニュアンスを読み取れる。

 

人が人を好きになるのに合理的な理由などない。もしそのような理由をつけられたとしてもそれは後付けであり、語感に意味を付けているようなものだ。人はカッコいいから好きになるのではなく、好きだからカッコよく見えるのである。原因と結果が逆である。元々世界にはたくさんの音があり、それらがオノマトペとして人々に真似され、ちゅんちゅんは囀り、にゃんにゃんは鳴き声と認識されるようになった。音そのものに意味などない。

 

人間に生まれてしまった以上は、意味付けしたくてしょうがない。無意味なものなんて許せない。『好きすぎて傷付けちゃう』みたいな究極の自己愛にもやはり何かしらの意味を見つけなくてはならない。表現においての私の行動は、均一化したくないという気持ちの表れなのだろう。

 

美大生なんて全員そうだが、入学当初はみんな尖っている。穏やかそうに見えるやつも内心敵意剥き出しで、隙あらば周りを出し抜こう、1番になろうと思っている。これは全然大袈裟な話ではなく、何かを作って発表するという行為は必然的に他者との差別化になるからだ。

 

そもそも人間は、別に自己表現などせずとも生きていける。衣食住をこなすだけでも、なんならそこに存在しているという事実のみでも、生物は周りに多大なる影響を与えている。石器時代の人間のコミュニティの中では男性に生まれただけで身体が大きく、より多くの食事を占有することができた。ライオンは被捕食者からみれば、存在自体が恐怖でしかない。全ての生き物は存在しているだけで"それらしい"のであり、ライオンはわざわざライオンです!とは言わない。それでも世界に流れる理というものが、ライオンをライオンたらしめている。

 

その上で人間がなぜ表現をしたがるのか。答えは簡単で、表現とは発露である。風邪をひいた人間が熱を出すような、至極当然の結果。我々が肌に彩色を施すのも、身体を鍛えるのも、社会をよりよくするためにデザインをするのも、結果に意味を後付けしているにすぎない。私たちは、なんかしてないと生きた心地がしない生き物なのだ。

 

「人生はただの暇つぶし。」

 

これはひろゆきが自身のYouTubeチャンネルで言っていたことだ。私は彼に感化されるタイプの人間ではないが、この言葉の意味はよくわかる。我々が個体レベルで生存していることに意味なんてないし、そもそも生命が生まれた理由すら偶然と言えばそれまでの話。しかしそんなことを言ってしまっては目の前の辛さをどうすることもできないので、とにかく意味を考える。『運命』とか『タイミング』とか『役目』とか。人は都合のいい言葉を与えられると不都合な真実に目を瞑ることができる。

 

気絶してた方が幸せなのだ。知ってしまうと知る前には戻れない。どれだけ月日が経とうと人はどうでもいいことは覚えているし、大事なことは忘れる。そして、思い出したくないことほど思い出す。もし生涯を何も疑問に思うことなく生きていけるのだとしたら、その人は幸福そのものに違いない。

 

じゃあ実際に気絶してたらどうなるのかというと。受験は友達に合わせて選ぶ。女性なら主婦、男性なら公務員を目指す。子供ができたら自分と同じ道を進めたがるし、テレビを見て笑い、真剣な話は茶化す。冷蔵庫は物がいっぱいで、ママ友の噂は常に気になる。「行ってきます。」と「ただいま。」を繰り返して老後を迎える。退職金、年金が少ないと愚痴をこぼし、子供に介護を任せる。そうして病院のベッドで、家族に看取られながら「幸せだったなあ。」と呟き、生涯を終える。このような人生のロールモデルとはまさに日本の豊かさの象徴であり、昭和然としたノスタルジーに過ぎない。発展途上国に生まれなかった私たちの、無自覚で身勝手で幸福な幻想に過ぎない。

 

知ることとは傷つくことなのだ。私は他人が創作物を見て傷ついたとか言っていることを正気の沙汰とは思えない。創作物に傷付けられたんじゃない。君は傷つきたくて創作物を見ているのだ。他人のせいにするべきじゃない。

 

そのことに自覚的であるか無自覚であるかには大きな差があって、別に表現を生業としないなら好きにすればいい。人の内面には触れず、自分の内面も傷つかない。そういう生涯を過ごせばいい。人生は暇つぶしなのだから、各々勝手に過ごせばいいのだ。「人に迷惑かけない範囲で」「法律を遵守して」など考えず、大いに迷惑かければいい。法律など無視すればいい。それを咎められたとしても、本質を理解しない君ならきっと全然平気なはずだ。人の痛みもわからず、自分の痛みにも鈍感なゾンビのような君なら、きっと生涯そのまま幸福に過ごせるはずだ。そういう『幸せ』を、お望みだったんでしょう?

 

哲学的ゾンビ』という思考実験がある。自分以外の他人に意識はなく、表面だけで内面が存在しないとする考え方だ。そんなことあるはずないって思うけど、実際に他人がゾンビでないことを証明する手立てはない。人は主観というフィルターを通してしか物事を客観的に判断できないからだ。私は以前、他人をそのように思ったことがある。周りの人間の身勝手さに辟易して、こいつらゾンビだから、だから言葉通じないんだと解釈したことはある。それは自分の世界に閉じこもるためのただの言い訳で、結局のところ認知の歪みだ。しかし、そのように考えること自体は悪いことではない。物事を逆に考えるということは本質を抉り出す作業だからだ。ロールモデルのように生きるなら人に本質などいらないが、誰かを感動させたいと思うなら本質に触れることは必要不可欠だ。それを欠いた表現というのは、誰の心にも刺さらない。

 

美大に来てから確信に変わったことがある。それは、面白い表現をするやつほど捻くれていて、人格が破綻しているということだ。病理的とも言うかもしれない。人間にパラメータが存在するとして、バランスが取れた均一な形をしている人は会社員に向いており、極端な人はアーティストに向いているとか、そういう眉唾物の話だ。ただそれは実際に物事を掘り下げていくにつれて確信に変わって行く。

 

『二丁目に捨てるゴミなし』という言葉がある。これはゲイの人は懐が広く、どんなに見た目や中身が残念な人でもどこかで誰かが拾ってくれるという意味だ。実際はそうではない。ゲイの人ほど人を見た目で判断するし都合の悪いものはゴミのように捨てる。傷付けられてきた人ほど人を傷つける。ただ二丁目というワードを世界まで拡大すると、その言葉は私にとって真実のように聞こえる。

 

人生に躓いても、ロールモデルを外れても、人間には這い上がれる力があると思う。それは現実を都合よく解釈しているだけかもしれない。不都合さに目を瞑っているだけかもしれない。でも結局のところ人生の負けっていうのは自殺のことだし、ほとんどの人は傷ついたからって死ねない。言ってしまえば私たちは死ねないから生きている。私が生きる理由もそうだ。死ねたら死んでいる。だってまともに生きていくにはこの世の中は不条理すぎるから。受験も就職も結婚も、ルックスも家柄も人柄もなにからなにまでランダムで、そんな誰かに決められた人生を死ぬまで全うしなければならないなんて、生とは懲役のようなものではないか。だからといって後ろ向きに生きて楽しいかと言われると全然楽しくない。後ろ向きながら前に進むしかない。どうせ死ねないならせめて楽しく生きるしかない。そのために我々は人生に意味づけをしているのだ。デザイナーならデザイナーとして。スポーツマンならスポーツマンとして。狂人なら狂人として。みな各々の役割を演じているだけなのだ。

 

踊ってるみたいだと思う。世界は舞台装置の上の、デウス・エクス・マキナに向かう演者達のパフォーマンスのようだ。我々には認知できない『神』なるものが作った台本に沿って、しっちゃかめっちゃか騒いでるだけだ。でも、そうだとわかればやることは一つしかない。演者は演者らしく、せめて楽しく踊るだけ。

 

ライブに陶酔出来る人が、私は羨ましい。彼らは演者として、ただ踊っているだけだ。ファンとして正しい振る舞いをしているだけだ。そこにノれない私がいたとして、そんな私でもカラオケは楽しいし、飲み会だって我を忘れる。結局他人を必要としているし、他人に生かされている。楽しいをくれるのは私ではなく他人だから。人は他人から受ける影響を、楽しいと錯覚する生き物だから。

 

好きすぎると遠ざけてしまうというという人は、表現をやればいい。君の好きの余剰分を、自分の中に向けたらいい。そうすることできっと素敵な物が生まれ、それを見て誰かが感動し、もしやもしや憧れのあの人が知ってくれるかもしれない。君を『ファンの1人』ではなく『1人の作り手』として見てくれるかもしれない。そんな未来があるかもしれないと思うと、少しは楽しく感じないだろうか。

 

私は子供を産めない代わりに表現をしているのかもしれない。命を宿すという行為に、自分の母性と父性を込めているのかもしれない。もちろん意味づけに過ぎないが、俯瞰し過ぎてもしゃあないのだ。哲学はとっくにやり尽くされ、アートは消費され、我々は20年周期で繰り返すファッションのように、既知を未知のように見せているだけなのだ。ただ、そのことに悲観的になるのではなくせめて楽しく踊ろう。我々が楽しくなかったら、多分見る人辛いから。

 

私は蛙化現象とかほざく女が嫌いだし、そういう女でもある。でもまあ、それでいいんじゃないでしょうか。陶酔出来る何かがあるうちは、ひたすらそれをやり尽くそう。もう出来ん!からの一回追加!が筋トレっていいらしいし。私は筋トレしませんが、表現で似たようなことをやってます。やり尽くした!って思ったら、もう次のやりたいことやってます。そういうもんだろ、だって私は"がみにゃん"なんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌詞の曲はこれです。

 

『魔法が使えないなら』

 

とても美しい。彼女のように物事を表現できるように、私もなりたい。