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アンハッピーニューイヤー

2024年は幸先がすこぶる悪かった。思えば年末から、その系譜は紡がれていたのかも知れない。

 

晦日、私は知人からiPadを譲り受けることになった。元々自腹で買う予定だったお金が浮いたので、私はその足で電気屋に行き、新品のapplepencilを買った。純正品で、二万。年末だから良いか、と言う甘えが夏頃まで続くから、私は常に金欠なのだろう。最近のiPadは凄いらしく、専用のペンを買えば、絵が描ける。直接iPadの上にペンを滑らせれば、そのままクロッキー帳を持っているが如く絵が描けるのだ。なんとなく存在は知っていたが、久しく絵を描いていない私は、ガジェット通の絵描き達を横目に見つつ、ずっと本ばかり読んでいた。いつの間にか相当なアナログ人間になっていたことに気付かされる。applestoreでprocreateを買う様子が余りに不慣れで、憐れまれたのか知人は親切丁寧に操作方法を教えてくれて、そのお陰で私はすんなりとペンを走らせることが出来た。

 

iPadの描き心地は最高で、最初は感動した。だがすぐに腹正しくなった。何故だろう?苦労が水泡に帰す感覚を覚えた。私のペンタブ時代とは何だったのだろう?こんなにも画期的に、屈託なく描写が出来て、逆に嫌じゃないか。大学時代にこれがあったらどのくらい作業が捗っただろうか、と過去の皮算用をしてしまい、悲しくなるくらいにはiPadは絵描きにとって革命に違いなかった。液晶タブレットを持ち運んでいるようなものなのだから、そりゃ当然だ。私が中学生の時は、弁当箱くらいの大きさのWACOMのペンタブ(なんと廉価版のPhotoshopが付いていた!)にぐりぐりと太いペン先を押し付けて描いていた。今のように手振れも補正してくれないし、表面は摩擦がなくつるつるだった。モニターとの時差合わせも必要な徒労感はあったが、当時の私にはそんなことは関係が無かった。あの頃の私の絵に対する熱量は相当なもので、ずっと独りで描いていた。なんならそれで知名度を得て、少し偉そうにさえしていた。それから十数年経って、現代のテクノロジーの進歩に驚いている。

 

AIに芸術は代用できないなどと言われるが、実際のところ複雑そうなイラストは真っ先にAIに浸食された。文章の世界も、かなり危うい。動画も、現時点で精巧なディープフェイクも作られているのだから、これからどうなるかは分からない。人間にしか出来ないと思われていたことの表層は、殆どが機械で代替可能だった。

 

勿論、AIによる創造はすぐ飽きる。人間の底意地の悪さを、彼らは模倣出来てはいない。どこかピュアな味わいの──まるで子供が背伸びして上手に見せている風な──根明な印象を受けるものが多い。人間の手によるモダンさ、即ち二面性のある表現と言うのは、まだまだ彼らは不得手と思う。

 

しかしながら、テクノロジーと言うのは表現世界においてのインフラでもある。紙や印刷技術、写真や映像媒体の出現、コンピュータによる絵画技法、プログラミングによるインスタレーション電子書籍やweb広告など、挙げればきりが無いほどに私たちの表現手段は変化している。これから先、どういうものが主流になるかは分からない。模倣が犇めき合う現代のSNS文化も、何時まで続くのだろうか。表現はテクノロジーの進歩に最も分かりやすく影響を受ける分野かと思う。

 

視覚芸術は変化を視認しやすいが、一方で文章については、比較的変化が緩やかに見える。本は古くからあるメディアだが、生きた化石のように当時からの姿を殆ど変えずに残っている。近年ではインターネットの出現が、分かりやすい変化であっただろうか。活版技術により平面に乗せられた文字列が、画素という媒体によってシームレスに綴られるようになったのは記憶に新しい。文章という表現は、メディアよりも言葉自体の変化に呼応している印象がある。それくらいにはやるべきことが変わっていない、読んで書くだけのシンプルなところが、時代を超えて愛されている理由なのだと思う。

 

(余談だが、初めてワープロで書かれた小説が芥川賞を受賞したのが1987年。バブルが崩壊する頃にようやく、コンピュータによる活字表現が世に浸透していった。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵が言葉だった、と言うのは絵描きに通じる事柄と思う。私も昔は口下手で、何か言いたくてもすぐに言葉に詰まってしまい、その鬱憤を絵を描いては晴らしている、所謂コミュ障な人間だった。しかし、口達者な友人が出来たことで影響を受けて、次第に描けることよりも、話したり、考えたりすることに喜びを感じるようになった。動物で例えれば、周囲の環境に合わせてコミュニケーションを変化させる、粘菌に近い生物だったと言えるかも知れない。

 

何かを両立させることは難しく思う。マルチリンガルよりもモノリンガルの方が話者としての先鋭性が保たれるように、器用な人に突き抜けた点数を取らせるのは難しい。どちらも居て正しいのだが、欠けた部分を補うために他の能力が伸びると言うのは、どこか神秘性を感じてやまない。人間以外の生物にも同様の仕組みがあるのだとすれば、それは救いにも思う。

 

先日、iPadに触れていて気付いたことがある。昔なら何時間も集中して描けたのに、たった数十分描くだけでどっと疲れてしまった。加齢か?と焦ったが、どうやら違う。何やら、使っている脳の部位が異なっている。絵を描くときに熱を帯びる箇所は、文章を書くときとまるで違った。普段使わない筋肉を動かして筋肉痛を起こしてしまうみたいに、私の『描く筋肉』は随分と衰えていた。

 

ただ、完全に描けなくなった訳ではない。『どう描けば良いのか』のイメージは、むしろ昔よりも視えている。昔はイメージが不鮮明で、手探りでそれらを探っていた感覚だったが、今の私は描く前から出来上がりが視える。それを意識して描こうとする行為に、身体が追い付いていない状態だった。今の私は、何年も描けてリハビリをしないとかつてのように描くことは難しいだろう。

 

文章は逆に、執筆中は仕上がりが視えておらず、書きながら都度、話を継ぎ足しながら書き進めている。より詳しく言えば、物語という完成形(絵)を、文章(筆)で彫り出している、と言うのが正しいだろうか。昔に絵でやっていたことを、今は文章でやっている。

 

『描く』と『書く』では、それぞれで使っている脳の部位や、腕の筋肉がまるで異なる。習熟度の問題なのか。アスリートが、身体を動かしたいと言う欲求に従って種目を選ぶように、どうするかが先にある状態。何をやるかは二の次になる。芸術を競技と捉えるならば、それも正しい。表現が先にあって、目的を後付けする方法。目的先行で作り出すことは、老成に近いものを感じる。人を動かすのはいつだって、若さと呼ばれる迸りそのものなのでは無いか。

 

……兎にも角にも、私はiPadにて久々のお絵かきを堪能していた。友人の似顔絵を描いたり、自画像を描いたり。電車の中でも颯爽と取り出して描き始めてしまうくらいに浮かれていたが、家に帰ってから気が付いた。

 

充電器が無い。

 

iPadは充電器の端子がタイプCのため、通常のUSBポートでは充電できない。ケーブルだけ買っておいたのだが、パソコンの端子に差したところ、何故か通電されなかった。理由が分からなかったが、色々試して無理そうだったので、近くのコンビニに行ってタイプCの充電器を探した。少し高いが売っていたので、私はすっからかんになった財布を満たすため、ATMを利用した。

 

引き落とせない。

 

その日は大晦日だったが、不運にも私の銀行は小晦日から一月の三が日までメンテナンスのため、一切の利用が出来ない状態だった。財布には札は一枚も無く、小銭はかろうじて千円あるかどうか。慌ててクレジットカードから交通系ICにお金を落とそうとした。

 

支払いが完了できません。

 

なんでだよ!とクレカの利用残高を覗いたら、残り四千円しか無かった。元々千円入っていたのを含めると、五千円。小銭を合わせても、六千円。残り四日ある休みで、使えるお金はこれだけ。嘘だろ、と思ったが、明らかに前もって引き落として置かなかった私が悪い。しかし、これでは飲み食いだけでギリギリだ。幸い予定は無かったので、節制すれば生きられはするが、充電器を買ってしまえば絶対に足りなくなる。正月に美味しいものでも食べようと思っていた私の考えは、脆くも崩れ去ってしまった。

 

思えば去年はお金が無かった。散財が原因なのだが、口座残高が三桁になるタイミングが四、五回あったし、現金が足りない分をクレカで補っていた。お金が無いのに旅行に行って、旅費は纏まった現金が入る年末に払うことを約束し、建て替えて貰っていた。飲み会など、年の暮れは出費が嵩むが、それを見越しての行動などひっくり返っても出来ない私が節制するはずも無く、友人や先輩などに小さな借金をしながらなんとか生き永らえていた。

 

ようやくまともな現金が手に入り、借りた分を返済し、来年こそは浪費をしない生き方をしようと意気込んだことは良かったが、そのしわ寄せはしっかりと十二月分のクレカ残高に反映されており、私は年末年始を細々と生きるのを余儀なくされた。自業自得なので、そこについては何も言うまい。帰宅してからiPadを起動し、少しだけ絵を描いてから正月明けまで寝かせようと思い、applepencilを走らせた。

 

反応しない。

 

何度やってもペアリングしない。やり方が間違っているのかと、ネットで調べたり、動画に撮るなどして知人に助けを求めたが、何も間違っていないようだった。さすがに可笑しいだろうと思い、手元を見た。

 

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ペン先って、こんなだっけ?

 

どうみても違うし、調べたらペン先は取り外せるみたいなので、家に来るまでのどこかで紛失してしまったらしい。慌ててかばんをひっくり返したが、見当たらない。どうして、何故……と頭を抱えて我が家を見回した。

 

家、きったない。

 

現在、私の家はごみ屋敷だ。去年一度も掃除しなかったからなのだけど、驚く程にごみまみれ。あと数年もすればテレビで取り上げられるような立派なものとなる。業者を呼ぶか迷うくらいには瀬戸際だ。

 

模範的なごみ屋敷に住んでいると、様々なことが麻痺してくる。これくらいの臭いなら大丈夫とか、何日くらいなら着まわしても大丈夫、とか。一般的な不潔さの閾値を余裕でオーバーした私は、夏に同じシャツを十五日くらい着続けていた。それも部屋着ではなく、会社のシャツとしてだった。白シャツは黄ばみ、洗っても汚れが落ちない状態になったので、白からグレーに買い替えた。マジの限界が来るまで洗わなかった。洗わない理由は、自分でも分からなかった。

 

家事を毎日こなせる人は偏差値が高い。やろうと言う意気込みなどでは到底立ち向かえないような壁が、家事にはある。私にとっての家事とは、三百六十五分の三くらいの当たり確率のスロットを、視認できないくらいの速さで目押しさせられているようなものだ。三つ当たりが揃うまで、何も出来ない。

 

事あるごとに会社で注意された。その度に先輩には笑われ、後輩にも失笑された。出来ないものは出来ないのだから、どう取り繕おうが恥ずかしいことに変わりはない。いっそ開き直って清々しく居る方が、周りも気を遣う必要が無いから楽だろう。私と言う存在が、彼らの自尊心を満たす材料になるならそれはそれで良かった。でも、ちゃんとしていない人を笑う気持ちを、分かりたいとも思わなかった。

 

ごみ屋敷を調べると、『セルフ・ネグレクト』という言葉がサジェストされる。ネグレクトとは育児放棄のことだが、枕詞にセルフが付くことによって、自身の世話を放棄した、自暴自棄に近いニュアンスの造語になる。私はこれを見る度に、歯がゆい気持ちになった。違うんだよ、全力で世話してこれなんだよ。やりたくないことを出来ない人間だって居るんだよ、と言い訳をしたくなった。

 

実際にそうで、私は追い詰められたらちゃんと家事をする。手続きもするし、管理だってする。これを言うとみな同調するが、私のそれはどうにも他の人のそれを大きく超えているように思える。私生活がぱあと言っていいのは、私くらいなものじゃないか。世話してくれる家族が居るうちはまだ良かったが、現在は実家を離れて一人暮らしをしている。身の回りの世話をしてくれる家族は、冬には雪が積もる田舎町で暮らしている。

 

元日、不幸にも震災があった。

 

幸いにも、私の家は無事だった。家族も無傷だし、家財が失われることも無かった。だけど、どうしてやるせないのか。不幸で居たい訳では決して無いのに、幸福になることを恐れてしまう。完璧に不幸でなければ、間違っている気さえしてくる。こんなことを書くと怒られるかも知れない。私の小さな幸福が、嫌な人だって居ると思うし、逆に私の不幸が、誰かを喜ばせることだってあるのだろう。

 

いじめられっ子のあの子よりマシ。貧乏なあの子よりマシ。可愛くないあの子よりマシ。学歴が無いあの子より、片親育ちのあの子より、依存症のあの子より、マシ。マシ。マシ。そんな言葉を積み重ねて、バブルみたいに弾けたら、いっそどうでも良くなるのかも知れないけれど、そんな囁きにも身を投じることが出来ない程度には、私は平気で、それが哀しい。

 

昨年、私が最も聴いたアーティストはanoだった。その中の『デリート』と言う曲に、こんな一節がある。

 

あぁ 息がしづらいや

もう何処にも行けないや

生きづらいや でもデストロイヤー には死んでもなりたくないや

 

彼女にこんな歌詞を書かせる社会は、滅べばいいと思う。でも全部崩壊させられるくらいの力を僕らは持たないから、だから正しくなるしか無いことも知ってる。正しくなって偉くなって、僕らの周りだけを鮮やかに塗りたくって、それで?って思うけど、それしか無いのなら、そこに向かうしか道は無いのだ。僕らを塞ぐ誰かの言葉を、悲しんだりせずに、風化させたい。アンハッピーをハッピーに、するしか無いような救いの無さに、僕らは憧れてしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みんな、頑張ろうね。

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