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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 18

「皆さんには黙っていましたが、私はゲイです。」

 

大学の工芸棟への続く広い通路を横断するように、生徒たちは列を作り、地べたに座り、私の言うことに耳を傾けていた。私を中心として波状に整列する様子は、真上から見たらまるで鉄球に吸い付く砂鉄のように有機的だ。ある一定のルールに支配された並びをしているが、そこには課題のプレゼンテーションの場という秩序がある。

 

大学3年の1月。私は自分の専攻全員の前で、自分がゲイであることをカミングアウトした。幾重にもイメージトレーニングを重ねて、この日のために準備して向かったプレゼンだったが、その場のほとんどの生徒からしたら突然のことだったであろう。私が言ったことに対して皆真顔で、静かに聞いていた。一度ゲイであると伝えてしまえば後はするすると、抜けるように言葉は出てくる。

 

私の後ろには私が描いた男性のイラストレーションが並んでいる。それらは犬と男子をテーマにした作品で、飼い主に似ると言う言葉から連想し、犬の犬種から飼い主をデザインすると言うコンセプトでまとめ上げたものだった。

 

プレゼンが終わったとき、拍手が起こった。私は正直、作品にはそこまでの力をこめていなかったのだが、プレゼンは言葉の力だ。作品自体でピンとこなくても、プレゼンを聞いて感動すると言うことはよくある。言葉を添えることで、曖昧な理解にピントが合いコンセプトが浮き彫りになる。コンセプトが理解された瞬間、作品はより鮮やかに映えて見えるのだ。今回の私の作品は、イラストレーションがどうとかよりも私の言葉に長年の積み重ねがありそれが重みとなったのだろう。本当のことを積み重ねると人の言葉は魔法になる。

 

プレゼンのコメントシートの反応はさまざまだった。素直にびっくりしたと書く人もいれば、カミングアウトについて全く触れず、作品に対してだけコメントするもの、応援するよといった肯定的なコメントもちらほらあった。ネガティブな反応としては、純粋にショックを受けたと言うコメントが多かったが、それも私にとっては想定内だ。ただ1人、心に残るコメントをしてくれた先輩がいた。

 

「このように人生で大事なテーマを、こうもあっさり告白して終わらせることが信じられない。」

 

その先輩は映像が得意で、自主的にクオリティの高い映像を何本もつくっている人だった。作品そのもので勝負しろ、言葉で誤魔化すな、お前の魂を全部作品にぶつけろよ。そう言いたげな先輩の言葉が裏に透けて感じ取れた。

 

私はそのコメントを読んで歯を強く噛んだ。私の作品を見ても、ゲイであることは伝わらないし、有象無象に紛れて忘れ去られてしまう程度の完成度でしかなかった。それを私はカミングアウトという儀式を行うことで結論づけてしまった。それはきっと作品と向き合う姿勢を放棄していると、その先輩は捉えたのだろう。

 

この頃の私は作ることよりも話すことのほうが楽しいと思っていた。言葉にして会話をし、意見を交わして空想を共有する。そう言ったことに満足して作る苦しみから逃げていたように思う。作品に真剣に向き合うということは、安易に言葉にしないということだ。言葉で伝えることによって人は安心し、作った気になる。言葉は麻酔のように苦しみや痛みを忘れさせ、本来伝えなければならない作品の彩度を鈍くする。言葉に頼るようになった人の作品は脆く、言葉なしでは生存ができなくなってしまう。

 

しかし、今となってはそれも役割なのだと思う。言葉にするのが得意だが、こだわり抜いて仕上げることが苦手な人だっている。睡眠時間を削ってまで仕上げたいという根性のある人もいれば、生活を大事にしたい人だっている。作品と人生は一貫しているものではなく、別々に成り立っているものなのだ。

 

デザイナーの友人に、作ることと生きることは切り離せなくない?と聞いたらこう言われた。

 

「それは違う、生活の上にデザインがある。」

 

これはアートとデザインの違いのような話であり、言葉にするのは難しい。ただ、確かに言えるのは私は作ることと生きることが一緒くたになってしまった人間だということだ。

 

この課題が始まる前に、私は"プレ"プレゼンとして、教授たちと集まる小規模なミーティングで先にゲイであることを告白した。

 

「もっと早く言ってよ。」

 

私がゲイと伝えた直後の女子生徒の反応だった。正直これほど嬉しい反応はない。私を排斥する訳でも、変に勘ぐって探りを入れてくるわけでもない、純粋に受け入れてくれる言葉。私はこういう暖かい言葉を投げかけてくれる人たちに囲まれていた。それを知らずに1人でずっと悩んでいた。いや、知らなかったのではなく、気付いていた。だからこそカミングアウトするという選択肢を取れたのだ。逆説的だが、カミングアウトしたら殺される場所では絶対にカミングアウトは起きない。そこまでいかなくても、受け入れてもらえる場所じゃないと私が察していたら、中学時代や高校時代のように、私は自分の個性を人前に出すことなど到底しなかったであろう。カミングアウトが生まれるということは、その場が肯定的な場所であるという証拠であり、事実肯定的な意見しか私の前では返ってこなかった。

 

裏を返せば否定的な意見を持った人というのは隠れざるを得ない場所だということだ。カミングアウトに対して、茶化したり拒んだりするような声をインターネット上ではよく耳にする。そういう空気に支配された場所に否定的な人々は集まり、同調する。それとは反対に、肯定的な意見が主流の場では肯定的な人達が温かく迎えてくれる。

 

否定と肯定が分離していると感じる。少なくとも、私が進んだ世界は肯定寄りだった。だからこそ私は死なずにここまで生きてこれたのかもしれない。もしも大学まで高校の延長で、カミングアウトできない場所だったらと思うとゾッとする。人が勉強をする理由とは、自分を肯定的な場所に導くためにあるのだ。しかし、世の中には今も否定側に身を置かざるを得ない人達が山ほどいて、ずっと苦しんでいる。かつての私のように。そんな人達に私がかけられる言葉と言ったら、どうか死なないで欲しいということだけだ。生きろとは言わない、ただ死ぬことだけは避けて欲しい。どうにかして、手段は選ばずとも、自分が逃げられる場所に逃げて欲しい。家庭のような場所に閉じ込められているのなら、家出して欲しい。お金が無いのなら、生活保護を受けて欲しい。どうにかして、なんでもいいから生き延びて欲しい。その先に、果てに、きっと肯定的な場所に辿り着くはずだ。そのためには多少、漕がなくてはいけないかも知れない。浮上しなければならないかも知れない。そんなほんの少しの力も残っていない人は、ゆっくりと眠って欲しい。好きなだけ、我を忘れて、倒れ込むように。

 

私も、寝ている間だけ幸せだった時期があったからよく分かる。自分の本当を見つけられないことは、それだけ耐え難きことなのだ。

 

その場にいた他の男子生徒からは、"おれは性別をグラデーションだと思っている"と話を受けた。私も同意見だったが、彼があまりにも必死そうに伝えてくるのがどこか可笑しくて、少しばかり笑いを堪えていたのをよく覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

就活の足音が聞こえる。忙しなく、轟々と音を立てて私たちの静寂な日常に迫り来るその音は、私や同級生、いや、その年就活を迎えるすべての人にとって心を掻き乱される音だ。黒板を爪で引き裂くように、煩わしく耳をつん裂く音。そして奔放で、諦めにも似た哀しいムードが辺り一面を覆っている。

 

大学3年の冬、私は苦しんでいた。ベッドの上で呻く。どうしてなにもしようとしないんだ、もう締め切りまで時間がないのに、どうして私の体は言うことを聞いてくれないんだ。

 

スマホを凝視し、検索窓にひたすらに、思いつく限りの自分の気持ちを打ち込んで、我に帰る。こんなことをしている場合じゃない、作らなければ。

 

体を引きずるようにして、なんとかベッドから体を起こすと、よれた服のままでPCの前に座る。電源をつけ、薄暗い室内が画面の光で青白く照らされる。ぼうっと、その画面を見つめながら画面下にカーソルをやる。開くのはPhotoshopIllustrator、Aftereffect、いつも作品を手伝ってくれたツール達だ。

 

そうして、作業が始まる。一度作業を始めてしまえば加速的に集中できるのだが、私は作業を始めるまでの時間が日をまたぐ度に長くなるようになっていた。最初の頃はとめどなく作りたい欲求が溢れてきて、家に帰る瞬間に制作と向き合った。今は学校から帰ってきても、しばらくベッドで横になり気づいたら深夜になっている。締切が迫り、もうどうしようもないというところまで近づいてやっと動き出すが、そんな調子ではいい作品など生み出せない。プレゼンで教授に残念な顔をされ、さらに気分が落ち込む。

 

負のループだった。このままだと就活もうまくいくわけがない、そんなことも分かっていた。だけどそんな自分を認めたくなくて、学校では調子のいい素振りをしていたし、受験というかつての成功体験を思い出して、自分ならやれる、間違いない、完璧だ!と自己暗示をかけてやり過ごしていた。

 

当然、そんな状態で仕上げた作品達がまともにポートフォリオに載るはずもなく、私は第一志望である会社の二次試験をバックれた。きっと自信が無かったから、落ちる自分を見たくなかったのだろう。

 

その頃母とは相変わらず、自分の状況がどうしようもないほど追い詰められてからようやく連絡を取ると言った調子で軽い絶縁状態は続いていた。その日も、制作が上手くいかないことやお金が足りないことなどを溜め込みに溜め込んでからぶちまけていた。俺はこんなに苦しんでいる、第一志望の会社を受けなかったのも全部お前のせいだ、死にたい、消えてなくなって、眠るように亡くなりたい。作ることなんて忘れて、子供のように安心したい。ただ、寂しさを忘れられる場所に行きたい。

 

母は黙って私の話を聞いた後、いつもこういう返事をする。

 

「でもうちだってお金ないのよ。りゅうも知ってるでしょ。」

 

それを聞いて私は逆上する。言葉を尖らせて、ナイフみたいに振りかざして母を痛め付ける。そんなことをするのも、図星だからだ。ぐうの音も出ない正論だからだ。お金が無いことは私にとってコンプレックスであり、それを自分で解決できないもどかしさにストレスが溜まっていた。ゲイであることとか、母子家庭であることとか、それらを隠れ蓑にして、私はお金が無いという現実から逃げていた。経済的に母に頼ってばかりだった。

 

こんな生活早く終わりにしたい。就活を決めて、未来を固定化して、安心したい。母と縁を切りたい。

 

そんな願いは勿論叶うわけもなく、私は就活も上手くいかなければ親子の縁も断つことはできない、なにもかもが中途半端で見すぼらしい枯れ枝のような凡人でしかなかった。自分の力でどうすることもできない運命を人は黙って受け入れるのだろうか。それとも血生臭く抗って、私は天才だ!と虚空に向かって叫ぶのだろうか。私は、後者は発狂だと思う。だが運命を受け入れるには辛い出来事が多すぎる。私はただの才能のない一般人で、就活に適性がなく社会に馴染めないはみ出し者なのだろうか。だとしたら、なぜ私は美大に来れたのだ、あの時受験で落ちていても良かったはずだ。合格になった意味はなんだ、私は選ばれてこの大学に入ったのではなかったのか。

 

手綱を握りしめるように何度も自分に、ここにいる意味を問い聞かせた。

 

冬休みに入り、私は帰省するつもりなどさらさらなかったのでバイトに明け暮れていた。正月の三が日もすべて出勤した。働いていないと、自分の中の流状の物が蠢いて、皮膚をぱつんと裂いて真っ赤な血肉を露呈させてしまいそうで怖かった。働いていると、時間という牢獄に囚われることなく私は生き延びることができる。生きている実感を得ることができる。

 

バーでは人と話すことが私の役目だ。それならば存分に、私は自分の力を発揮することができる。言葉を通じて自分を表現することは得意だったし、それで人が喜んでくれて金銭まで得られるのは、自分に欠けていた凹みにぴったり当てはまるピースが見つかったようだった。私は、ゲイバーの店子という役割を通じて社会とかろうじて繋がっていた。

 

その日もいつものように21時頃、ボンちゃんの店に着いて服を着替えてお客さんを出迎えた。何組かノンケのお客さんに、お酒を注いで回る。初めて顔を合わせるお客さんには自己紹介をし、自分も酒を一杯頂く。

 

年始の落ち着いた夜だった。私は本当に、いつもと変わらない夜を過ごしていたつもりだった。ただ、少しばかりお酒が入りすぎたかも知れない。指の先が痺れて立つ時にふらつく。だが脳は覚醒しているのか、全く痺れることなく明快な状態だった。

 

カランと音がして、お客さんが入ってきた。

 

若い男女のカップルだ。男の方はこの店に入っている店子の1人で、社会人を経て今は専門学校で学んでいる年上の学生だった。顔つきは似た俳優をすぐに思い浮かべられるくらいには整っており、浅黒い肌に癖っ毛が無造作に目元を作っている。腕には余計な脂肪が全くなく、昔やっていたであろう野球を彷彿とさせる引き締まった体つきをしていた。一緒に店子として入っている時も優しく、私に対しては常に敬語で一線を引いた態度で接してくれる青年だった。

 

その青年は、今隣にいる女性と付き合っている。その女性は顔立ちは美人だが口が悪く、男に対しての嫌悪感を露骨に態度に出すタイプの性格で私とはそりが合わなかった。だがお客さんという相手の立場の手前、無下に返すこともできず苦手意識は持ちながらもなんとか意思疎通は図っていた。初対面で私のファッションをジジ臭いと言ったり、借金をする男に対して死ねばいいと言葉にしたりと、思ったことを反射的に言ってしまう性格のようだった。

 

そんな2人が付き合っているのを知ったのはつい先週のことだった。以前からその女性はよくうちの店に1人で来ていた。夜の店で働いている彼女は、明け方に顔を出すこともあったし閉店した後のボンちゃんと店子を交えた食事にも着いてくるなど、なにかとこの店に関わってくることが多かった。

 

当時は単にこの店が好きなんだろうくらいに思っていたが、付き合っていると聞かされた時、今までの行動に合点がいった。なるほど、好きな男性がいたからこの店によく顔を出していたのか。

 

私はそれとなくショックではあった。店子と客という関係で交際に発展するのはなんだかいかがわしい感じがしたのだ。今となっては別に構いやしないのだが、身近にいる人が交際を発表するのは自分の現実と対比して辛い気持ちになるということはあった。もちろん、建前ではちゃんと2人におめでとうとは伝えた。

 

その日も2人揃って顔を出したので私とボンちゃん、それからタクさんはケーキの上の蝋燭の火を消す瞬間みたいに2人を囃し立てた。アツアツだね、いいなあ羨ましいと。しかし2人は意に介さず、神妙な顔つきをしている。

 

女性が口を開いた。

 

「なあボンちゃん、聞いてほしいことあるんやけど。」

 

ボンちゃんは2人に出す水割りを作りながら答えた。

 

「なあに、また生理の話?やーねほんとそういう話はもっと人がいない時にしなさいよ。」

「違うって、聞いて。」

 

茶化すボンちゃんに対して女性の表情が険しくなる。

 

「あたしたち、子供できたの。」

 

一瞬、天使が通ったかのように場が静まり返った。私は最初、女性の言っていることがよくわからなかった。だが、女性が真剣な顔でボンちゃんを見据えているのを見て、段々と事態の深刻さが伝わってきた。

 

「子供できたの?!やだ〜超めでたい!!」

 

タクさんが甲高い声を上げる。ボンちゃんは少し困ったような顔をしながらも黙っていた。2人に挟まれ、私は洗い物をする手が止まっていた。

 

「それで、こいつと結婚しようと思ってるの。」

 

女性は隣に座っている青年を見た。正直、それ以上余り聞きたくない言葉だった。結婚?出来ちゃったから、結婚するの?子育てはどうするの。仕事は、お金は?まだ相手の男性、学生だよね。本気で言ってるのか。

 

ボンちゃんはしばらく目を伏せていたが、そろそろと目線を女性の方に向けると言った。

 

「子育てってそんな甘いもんじゃないと思うけど。」

 

私もボンちゃんと同意見だった。この2人は未来が見えていない。女性は子育てとなったら夜の店は辞めざるを得なくなる。そうなったら働き口は学生である青年1人にのしかかる。学生で家計を支えるなんて到底出来やしないだろうから、彼は学校を辞めることになるだろう。そうなっても、働き口があるかなんてわからない、大きな収入には期待できず、非正規雇用に甘んじるしかない未来だって容易に想像つく。そうなったら生まれてきた子供はどうなる。一度産んでしまえばもう戻すことはできない。その子が自立して、大人になるまで支えることがこの2人にできるだろうか。無理に決まっている。待っているのは貧困に喘ぐ家庭か、悪ければ離婚だろう。青年は女性から逃げ出して、子供は母子家庭という烙印を押されて一生を過ごすことになる。余りに可哀想じゃないか。

 

もちろん、そうじゃない明るい未来を想像することだってできたはずだ。しかし、2人が付き合ってまだ1週間しか経っていないという現実と、私の育ってきた環境を重ねて私は立ち竦んでいた。手に持った皿が微かに震える。顔を俯かせて、両手に力を込める。生まれてくる子供の気持ちになったら、とてもやりきれない。子供は親を選ぶことはできないのに、ここにまた1人不幸な生い立ちを迫られている子供がいる。

 

私も、出来ちゃった婚なのだと母に言われたことがある。私が随分と大きくなって、背丈も母を追い越した後に突然、言われた。

 

「とっくに知ってるかと思ってた。」

 

怒りで震えている私を見て、母が言った言葉だ。私はその日、私が祝福されて産まれてきた子供ではなく、単に行為の末に"出来ちゃった"から産まれたんだと知った。出来ちゃったから結婚し、出来ちゃったから離婚して出来ちゃったもんだから仕方なく、ずっと私を育てていたんだなと、神様を呪いたくなった。産まれてきた意味とは何なのだろうと、考えるきっかけとなった出来事だ。

 

我が身を重ねた。女性はボンちゃんから理性的な返答が返ってきたことに気分を害しているようだった。手に持ったタバコの灰を何度も落とす。灰皿の中の吸い殻は先が黒ずんで、まるで行為が終わった後の男女のように横たわっていた。

 

私は2人を祝福することができずにいた。私の母が辿ってきた道を、この2人も辿ろうとしている。他人事でしかないのに、放っておけなかった。だが、私が彼らに何かを言ったところで彼らはもう結婚するつもりなのだろう。もう既に決定していて、最後に背中を押してもらいたいからわざわざボンちゃんに会いにきてこういうことを言ってるんだ。わかってはいた、ただ、納得できなかった。

 

私は苛立ちを抑えるかのようにお酒を一気飲みした。わざと声を大きくして、自分の内なる怒りを誤魔化す。たかが他人の結婚だ。自分が関わる必要なんてない、忘れてしまえばいい。明日になればまた自分のことに集中できる。笑顔を貼り付けて接客をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれくらい飲んだだろう。じんじんと耳鳴りがする中で、私は自分の意識が研ぎ澄まされていくのを感じていた。手足はとっくに使い物にならないほど感覚を失い、重たい着ぐるみを着ているかのようだ。視界は不安定で、目線を一点に集中することができていない。そんな中で、意識だけが明瞭に、私の頭の中を掻き乱す。

 

脳の一番柔らかいところにへばり付いた言葉たちが剥がれて、独自に動き出しているかのように、私の中でざわめき立てる声がする。それはオノマトペのように繰り返し、頭の中にこびりつき離れない。聞き覚えはある声、私がいつも思考している時のものだ。掠れ、よじれる声の主は私の思考が反響する声だった。高速で思考が回転し、雨に濡れた傘を振った時の飛沫のように言葉が次から次へと滴り落ちてくる。両目が上にずれて白目を剥く。ズボンの裾は、酒でも溢したのだろうか。ぐっしょりと濡れて冷たく皮膚を濡らしている。

 

私は店内の中央に立っていた。目の前には先ほどのカップルがいる。出来立てほやほやの、レンジでチンされた出来合いの2人。他の客はいつの間にかいなくなっていて、店内は薄暗くなり、半分ほど付けられた橙色の照明だけが辺りを照らしている。

 

女性が何かを喋っているが、私には聞き取れない。口元が話すたびにぐにゃりと変形し、その様子がスローモーションを掛けたみたいに残像を残して、薄紅色の花を咲かせているみたいだった。人が何かを喋っている、挨拶しなければ。

 

私は勢いよく前に一歩踏み出した。勢い余って倒れ込みそうになり、思わず目の前にある手を掴んだ。小骨のような感触に、先端が固く尖っている。付け爪が手に食い込んで痛い。思わず離そうとするが、倒れそうな姿勢で力が入ってしまい私はその手を思い切り握りしめた。

 

「痛い!怖い!」

 

女性が叫んだ。金切り声は、迷妄とした鼓膜に鈍く響いてきて、最初は動物の鳴き声のように感じられた。だんだんその声が収斂し、はっきりと何と言ったか聞き取れるようになった時、私は私を失いつつあった。怖い?わたしが?

 

顔の筋肉がこわばって全く動こうとしない。口が開いてくるも、顎を閉じられない。両頬を糸で縫い付けられたかのようにぴんと張り詰めた表情を浮かべ、私は笑っている。面白いことがあったわけではないのに、表情だけが笑みを浮かべている。視界の隅には男女が小走りでドアに向かっていくのが見える。

 

そうだボンちゃん、ボンちゃんは今どこに。

 

私は倒れ込みそうになりながら店内を歩いた。ボンちゃんは後ろのボックス席に座っていた。身を縮めて、お酒を片手に佇んでいる。上からの照明が色濃く陰影をつけて、印象派の絵画のようにも見える。

 

私はボンちゃんに擦り寄った。ボンちゃん、助けて。今私おかしい。何かが頭の中を占領して精神が研ぎ澄まされていってる。考えたくないのに思考だけが回転する。早回しの映像みたいに全てにブラーが掛かって見える。助けて、ボンちゃん。ねえ、どうして返事してくれないの?

 

ボンちゃんの肩に手をかけ、握る手にありったけの力を込める。ミシミシと衣服が擦れる感触。鎖骨に親指が当たって温かい肌が露出される。ボンちゃんの肉厚な窪みに思い切り指を捻じ込ませる。

 

「がみ、痛い。痛い。」

 

ボンちゃんが返事をしてくれた。下から見るボンちゃんの顔には長い睫毛が付いていて、光が当たり白く滲んでいる。皮膚には細かい穴や体毛があり、地表を上から眺めた写真みたいだ。瞳を見つめると、黒い瞳孔に私の顔が小さく覗き込んでいる。小人になった気分だ。

 

「ボンちゃんの目、きれい。」

 

私はボンちゃんの顔に自分の顔を近づけた。息遣いもはっきりわかるほどの距離。右手をほんのり開いて、ボンちゃんの目のほうに近づける。その目、本当に綺麗。取ってもいい?そう囁きかけながら、私はボンちゃんの下瞼に指を這わせた。

 

「がみ、今日はもう帰って。」

 

はっきりとした大きな声が聞こえた。私を払い退ける腕。帰って?私が、今帰ってって言われたの?両目を見開きながら、私は嘆いた。

 

何でそんなこと言うの。

 

私は近くにあった灰皿を掴み、思い切り腕を振った。遠くでガシャンと何かが割れるような音がした。振り返り、見るとタクさんの背中が見えた。豹柄のファーコート。茶髪をワックスで固めた髪は、こちらを振り向くことなく、ただこの場をやり過ごそうとしているのか微動だにしない。数秒ほど沈黙があったように思う。私はもう一度ボンちゃんを見た。

 

何かを叫んだような気もするが、なにを口走ったのだろう。それとも、言葉にならなかったのだろうか。私の拳は強く店の壁を叩いた。地鳴りがして、店の壁が凹んだ。奥には剥き出しのコンクリートが暗い空間を隔てて覗き込んでいる。

 

「がみ、もういい加減にして!!!」

 

ボンちゃんがもう一度叫んだ。私はその言葉をはっきり聞き取ると、咄嗟に罪悪感に見舞われ、謝った。ごめんなさい、もうしないから、嫌わないで、ごめんボンちゃん、ごめん。怖がらせてごめん。ごめんなさい。

 

私は上着を取ると店から立ち去った。