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少年アヤの才能は枯れた

 

私はこのブログで少年アヤのことを書いたことがない。なぜかと言うと、ファンだから。私は現在進行形で夢中であったり、好きなものをブログに書くことをあまりしない。『鉄は熱いうちに打て』の逆をやっていて、ほとんど常温になるまで自分の中の熱が冷めたものでないと書く気がしなかった。冷静でないままに書かれたものは、どこか落ち着きのない、迸ったものになってしまうと考えていた。

 

だから昨晩、この記事を読んだ時も私は気持ちを冷凍しようと思った。いつか食べたくなった時にチンして取り出せるように、自分の中の涼しい場所に保管するつもりだった。だって私は少年アヤのことが好きだから。恐らく他の誰よりも。

 

タイトルにある『しんだあの子』とは、りゅうちぇるのことで間違いないだろう。今年の七月に訃報を聞いたとき、私は旅行に来ていた。大浴場で疲れを癒やし、美味しい食事をし、おそろしいほどふかふかな布団に寝そべりながら、幸福を実感していた。この世の悪い出来事など何もなかったかのように振る舞いつつ、休日を謳歌していた。ふとテレビをつけた瞬間に飛び込んできたニュースに我に帰った。酷く困惑してしまった。

 

りゅうちぇるのことはほとんど知らない。昔好きだったタレントというくらいで、私はりゅうちぇるがどんな思いで生活をしていたのか、悩んでいたのかなど、共感をベースにした想像を働かせても途中で諦めてしまうくらいには何も知らなかった。いや、何もは嘘かもしれない。知っていたこともある。例えば元パートナーがぺこであること、育児に熱心だったこと、若いのにしっかりしてるねと言われていたこと、ある日離婚を発表したこと、そのせいで世間からの非難を浴びていたこと、いつの間にか女性らしくなっていたこと。普通に暮らしていたら当たり前に入ってくるそれらの情報はもちろん見聞きしていたし、だからこそりゅうちぇるの訃報には困惑を隠せなかった。だって考えたことがあるから。最近のりゅうちぇる、大丈夫かな?って、心配になったことが何度かあったから。

 

いくら心配をしても私は無名だし、あの時自分がりゅうちぇるに何かできたのかを考えても、やっぱり何もできなかっただろう。『何かした』という実感がわずかに得られるだけで、りゅうちぇるのことは救えなかったと思う。私には自分を語る以外の能力はないし、富も人望も才能も何から何まで突き抜けているりゅうちぇるのような存在に、私ごときがなにか言うなんてそれこそ失礼だし意味がないだろう。やる前から諦めていた。

 

でも実際にりゅうちぇるは亡くなって、私の想像は現実になった。全然大丈夫じゃなかった。それを知ってたのに、感じてたのに、自らの可能性に蓋をした。やる前から何もできないと決めつけていた。私は結局、誹謗中傷をする世間となにも変わらなかった。

 

わたしのせいだ、と思った。わたしには、あの子よりすこし年上の世代の当事者として、もっとできることがあった。直接関わることはできなくても、あの子の抱えていた荷物を、ちょっと持ってあげるくらいできたはずだ。

 

 

 

 

 

 

私は少年アヤと会ったことがある。向こうは覚えていないだろうが、まだ世間が伝染病に脅かされる前の穏やかな年の夏、住宅と住宅の隙間にオアシスのようにひっそりと佇む公園があり、そこで私たちは出会った。目が眩むような真昼の日差しが雲に遮られて、辺りは蒸せ返るような湿度でいっぱいで、正直不快さもあった。でも出店のチョコバナナを見つけたらなんだか嬉しくなって、一本買って眺めた。ブラウンの光沢の上にふんだんにまぶされたカラースプレーはきれいで、思わず写真を撮った。それをストーリーに載せている間に、一緒に来ていた友人は既に公園内に出来上がっている人の渦に呑まれてしまい行方がわからなくなっていた。私も友人を探すようにして、チョコバナナを口いっぱいに頬張りながら公園に入った。

 

誰しもが聞き覚えのある音頭が流れ、司会がマイク越しに声を出す。

 

「皆さん、続いてくださいね。右手、左手、回転させて〜上!」

 

まるで産まれた時からそうすることを知っているかのように、周囲の人たちが踊り出す。音楽に身体を預けて、器用にリズムに乗っている。見よう見まねで手振りを真似してみると、身体中が夏に飲み込まれてしまったかのようにじんとした。暑くてじめじめしていて大きい音が鳴っているのに、不思議と楽しくて。ぐるぐると中央にある灯りの前を歩いた。音楽は妙にゆっくりになったと思えば、瞬く間に派手になっていき、その不安定さがなんだか可笑しかったが、とくに誰もその事を気に留めていないようだった。

 

集団の中で頭一つ飛び抜けるくらいに背の高い友人は、一目見て分かった。こっちこっちと言いたげな手の振り方をしていたので行ってみると、彼は嬉しそうに耳打ちで「がみにゃんの好きな人がいるよ。」と言ってくれた。慌てて視線の先を見たが、すぐには見つけられなかった。何度か目を細めると、人混みの中にそこだけ蛍光ペンで印がついているみたいにはっきりと、見覚えのある人物が立っているのが見えた。

 

周りで起こっていることの意味が全然わかってないような、きょとんとした男の子。ふわふわのシャツとハーフパンツを着こなして、どちらも淡い色だったのでサンリオのキャラクターみたいだった。プライベートで来ているのか隙だらけで、私が見つめていることなんて他の人間がすべて居なくなっても気付かなさそうだった。混乱しながらも辿々しく踊る姿はほんとうにかわいくて。どこまで行っても少年アヤは、私の想像通りの男の子だった。

 

「行って来なよ。」と友人が私の背中を叩いた。私は少年アヤをブラウザ越しにしか見たことがなかったし、著作を買ってただ読んだだけの他人なわけだから、挨拶する資格なんてない。プライベートで来ている作家さんに声を掛けて仕事モードにさせるなんて申し訳ないと思っていた。

 

しかし、意識とは裏腹に私の身体はどんどんそちらへと近づいていく。どうしても間近で見たかったのだと思う。私の大好きな文筆家の少年アヤの姿を、肌身に感じたかったのかも知れない。

 

渦は密度を増して、少年アヤと斜向かいの位置まできた。向こうは私の視線には気づいていないようで踊りに集中している。額に汗が滲んで、着ている甚平はもうぐっしょりで、そんなことどうでもいいくらいに少年アヤを見つめた。私にとってのいちばんの、きらきらでかっこいい王子様の姿は、他の誰よりも美しかった。

 

列が動いて、少年アヤは私の目の前にやってきた。慌てて目線をずらしたが、視野に映る少年アヤは私を見ているようだった。軽く会釈したのがわかったので、私もおもわず顔を上げた。

 

生まれて初めて王子様と目が合った。その瞳はあまりに純粋で、世界のことをほんとうになにも知らないみたいだった。時間が止まったような錯覚があって、一切の動きはスローモーションに見えて。口角がほんの少し上がるところなんかは私の想像とそっくりで、妄想と現実が入れ替わってしまったように感じた。両手がこちらに伸びてきたのに気付いて、私も手を伸ばす。直に触れるそれは程よく熱くて、きっとあの時の熱は私の身体に浸透しきって、今も体内を燃やし続けているのだと思う。

 

少年アヤの血が、私にも流れていたのがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな少年アヤが先日、記事の中でこう書いた。

 

ようやく、自分は女でも男でもない、ノンバイナリーであると受容できたとき、わたしはすでに30歳になっていた。大多数のひとが生まれて数年で掴むそれを、わたしは30年かかってやっと把握できたのだ。

 

私は少年アヤがノンバイナリーを自認していたことを初めて知った。過去に読んだ本の中では、そういう言語化をしていなかったから。もちろん私は少年アヤの著書を読んできたが、読めていないものもある。その中ではもしかすると言っていたのかも知らないが、とにかく驚いた。

 

少年アヤは、少年アヤでしかないでしょう。

 

私はノンバイナリーという性別をよく思っていない。本人の勝手と言われたらそれまでだが、他人が自認しているのもいやだ。理由は全くもって正当なものではなく、私の中の邪な心や身勝手な態度から言っているに過ぎないから、ノンバイナリーの考え方に救われる人たちが大勢いることはわかっている。それでも、ノンバイナリーを称してしまえることに違和感を感じて仕方ない。

 

ノンバイナリーとは、自らの性自認を男性や女性に当てはめないとするもの。つまり男でも女でもない性別だということ。

 

考え方は素晴らしいのかもしれない。まさに現代的というか、みなが薄々感じていた違和感を見事に払拭し、言語化するような言葉なのだと思う。実際にノンバイナリーの知名度は他のセクシャルマイノリティに比べてどんどん上がっている。ではなぜ、私がその考えを手放しで受け入れられないのか。

 

私はジェンダーとは男と女の間を揺れ動く、グラデーションの状態だと考えている。ノンバリナリーの逆だ。『男でも女でもない』ではなく、『男でも女でもある』だ。ある時はものすごく傲慢な性格が出てしまうし、またある時は倒れそうなくらいに繊細にもなる。私は自らのそれを『ギャルと文学少女の同居』と呼んでいる。

 

過去にブログに書いたように、私自身はほぼ女性的だ。陰茎くらいしか男性みがない。そのためトランスジェンダー(身体は男性、心は女性)に当てはまるのが客観的には正しいのかもしれないが、自身としては他人から色眼鏡で見られることにそこまで抵抗がないから、手っ取り早く咀嚼しやすい『ゲイ』を思春期に自認している。案外それがしっくりきて、私の状態はゲイに適応した。

 

この『適応する』という感覚を拒絶しているように見えるから、ノンバイナリーの考え方に素直に共感することができない。枠組みに当てはまらないことがわかるなら、なぜわかったのかを伝えてほしいと思う。それを明確にしない限り、『枠組みに当てはまらない』という枠組みを作っている、と言う批判が常につきまとう考え方だと思う。

 

男でも女でもない第三の性があるのなら、それを言語化してほしい。第三の性そのものがノンバイナリーと言うのなら、私にはまだその感覚が掴めていないから、どうか教えてほしい。あなたの感性や知性で、それを表現してほしい。

 

少年アヤにも同じことを思った。あなたには少年アヤという名前があるのに、それ以外の何者でもないのに、どうしてわざわざノンバイナリーであることを説明しなければならなかったのか。それを問いたくなった。

 

理由はもちろんあるだろう。重要なのは、少年アヤはノンバイナリーを決して『断定』しているわけではないということだ。あくまで『受容』できたとのだとしている。この言い回しには深い含蓄がある。限定的でありながらも決して言い切らない、含みのある言葉だと私は解釈した。

 

少年アヤも当然そこは理解しているはずだ。あくまで”現時点での私"がノンバイナリーであるのだと。それがどういう状態なのかを証明するまでには至っていないが、しかしそうなのだと。事実をスロウして、証明は他者に任せる。これは本当に素晴らしいことで、なかなかできることじゃない。文筆家としてまさにあるべき姿勢であると私は感じている。

 

しかし、だとすればなおさら疑問に思う。なぜ少年アヤはノンバイナリーを自認する必要があったのか。重複表現というか、文筆家としてあってはならない状態のように感じるが、これにも理由があると思う。

 

少年アヤはある時期から変わった。それまでの先鋭的な表現を捨て、伝えることに重きを置いた。文章を読む我々に向けてではなく、全く文章を読まないような子供に向けて、自らの筆を持つようになった。

 

初期の少年アヤの文体は、極めて退廃的である。自覚なしに傷口を抉ってくるような、病的な様子が見て取れる。もちろん今でもないわけではない。時々ぎょっとするような物言いをするところは健在で、それは紛れもなく私の読んできた少年アヤの文章だった。過去の生き様が好きでたまらない私のような読者からすれば、今の少年アヤは物足りない。好きだったインディーズバンドが売れてしまった時のような寂しさを感じてしまう。

 

少年アヤは元々速筆だったようだが、最近になって自身が遅筆になったと公言している。私からしたらコンスタントに単著を出しているのに何を仰るのかと思うが、どうやら本当らしい。自らの感覚に、客観性を持たせて書いているように思う。筆致がそれを示している。米津玄師が三枚目のアルバムから変わったように、少年アヤ自身もある時期から変化した。どこかで作家としての気付きがあったのだ。ある種の到達点を過ぎてからは、今までの書き方を脱ぎ捨てるかのように別の言葉を模索するようになった。それはまるで母性のように、読む人を慈しむ方向に進化している。

 

それが三十歳の出来事と言うのは、なんと早熟なことだろう。少年アヤの文才は誰が見ても明らかだし、私はもしかしたら軽蔑しているのかもしれない。あの憧れの少年アヤが、斬新でものの見事に狂ったようなあの表現者としての少年アヤが、母性なんて身に付けてしまったのだとしたら。失望にも似た感覚になるのも無理はない。私は少年アヤにはずっと、私の王子様でいて欲しかったのだ。

 

ただひとつ思うのは、もうだれにもいなくなってほしくない、ということだけである。

みんな、どうか平気でいてほしい。

愛は地球を救うって言いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少年アヤの才能は枯れた。枯れた植物が土に還って次の命を育むように、その先鋭性は失われて他者へと向けられている。そのことを寂しいと感じる私は愚かだと思う。誰もが優しさを持って生まれ、それらが損なわれることがないような、愛に溢れた社会を私たちは目指すべきなのに、わかっているのに、エゴがそれを邪魔する。革新的であることを望んでしまう。それは果たしてどちらが悪いのか。私は、かつての少年アヤが歩んだ道のりを歩もうとしている。少年アヤから受け取ったバトンを、次の世代に託そうとしている。そこには使命感にも似た焦燥があるが、定かではない。

 

完璧でなくても良いと、外野が言うのは卑怯だろうか。あなたにはあなたのやり方があると、使い古された老婆心を示す方が正しいだろうか。そんなことはどうでも良くて、ただあなたが変わってしまったことが、私には寂しいのだ。聡明なあなたのことだから、それも存じてのことだろうけど、それでも憎いのだ。どうして、と砂に文字を書くように言葉が削れていく。それは淡い表徴で、機微の輪郭であろう。取り止めのない思いを、言葉にするべきではなかったのかも知れない。気持ちが錆び付いて、風に飛ばされてからようやく、書き始めるくらいで良かったのかも知れない。それでも"書いた"。実存に対して論理を突き付けてしまうような、私はそんな意地悪な奴だけれども、それでもここに記されたものは、決して嘘ではない。どれもが混ざり合った具象で、泥土のような真実だ。──何を書いても届かないだろうから筆を置くが、私は本当に、この気持ちの整理の仕方を悩んでいる。自分にとって特別な誰かが、その特別さを失った時に、それで『とくべつ』だと思えるか。そう言うことが書きたかったのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつかの少年アヤに、手向けの花を贈る。どうか安らかに、生きてください。