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結婚式でドラ泣きした話

ドラ泣き。

 

何年か前に、映画ドラえもんのポスターに使われていたこの煽り文句。ただ泣くのでは無く、冠に"ドラ"がつくところが大変キャッチーで、私の目は奪われた。一見、意味がわからない謎めいた単語の響きと、堂々とした文字面とのギャップにときめく。

 

ドラ泣きって言い回し、超面白い。

 

うずうずして今すぐ使いたくなった。できれば劇的な、味わい深いここぞのタイミングで、この言葉を使いたい。そして、ドヤりたい。エスプリが効いているだろう、ウィットに富んでいるだろう。どうだ、まいったか。

 

そう言わしめたすぎて、今か今かと好機を伺ってはいたものの、一向にその時は訪れなかった。

 

数年経って。私は友人の結婚式に招待されていた。まっさらな銀紙の招待状を開くと、式場の名前とそこへのアクセスの仕方が書かれていた。検索をかけてみると、紫陽花が咲き誇る日本庭園の写真が出てくる。

 

紫や青色の花弁の裏。濃緑の葉がぎざきざと、絨毯のように敷き詰められこちらに手招きしている。ジューンブライド。六月にあげる結婚式は、良いものとされている。理由は知らなかったが、調べたところ神話が元になっているみたいだ。友人も縁起の良いものを好んだのだろう。モダンな雰囲気の漂う日本庭園の写真からは、選んだ二人の品の良さが伺える。

 

私は当日に着るジャケットを買い、ご淑儀袋を用意してその日に備えていた。

 

式当日は、からりとした晴天だった。天気が良すぎて暑いくらい。じんわりと汗ばむ温度に普段なら不快感を示すところだが、この日は違う。友人の人生最大の晴れ舞台に出席できることを考えると、疲れも吹き飛んだ。

 

電車に乗って小一時間、目的地に着くと駅周辺は広々としていた。天候も相まって清々しい気持ちになる。地図アプリを頼りに庭園まで歩くと、辺りの風景は厳かな雰囲気に変わり、マツやカエデの木が大きく背を伸ばした。奥に黒を基調とした建物が見えてくる。近くには池もあり、錦鯉が泳いでるのが見える。俄然、気分は高揚する。

 

浮足立って会場に向かうと、既に友人達が到着していた。黒のスーツやドレスを粧し込んで待っている姿は、みないつもより大人びて見えた。

 

結婚式に参加したのは、大人になってからは初めて。小さい頃に何度か招かれた記憶はあるが、物心ついたばかりだったので印象に残っていることは少ない。慣れない手つきでウェディングドレスの裾を握っていた幼き日の思い出が蘇ってくる。

 

あの頃は純粋だったなあ。

 

思い出にふけっていると、待合室には続々と人が入ってきた。入り口に置いてあった看板を見るに、今日は三組の挙式が行われるらしい。結婚式を挙げる人は年々少なくなっていると聞くが、今はどれくらいなのだろう。会場が賑やかになるにつれて、私は大人になったことへの感慨と、子供でなくなったことへの余韻に浸っていた。

 

会場でしばし友人達と談笑する。新郎と新婦が別室で準備をしている間に、私は手持ちのお金を新札に換えるべくフロントに向かった。渡された3枚の新札に顔を近づけると、新品の紙の匂いがして緊張した。それらを封筒に詰めて皆がいる場所に戻る。

 

式の時間がやってくると、一行はぞろぞろと目的地であるチャペルに向かった。そこは十字架の立つ真っ白な建物で、西洋式の外観が日本庭園の中で一際目立っていた。ここで、あの華やかな式が執り行われるのか。

 

なんだか感慨深くなった。私には結婚をするという価値観が備わっていない。それは私がゲイだからなのかもしれないが、元々の人格にもよるところも大きい。日本では同性婚は認められておらず、一部自治体では同性パートナーシップ制度があるようだが、田舎で青春時代を過ごした私にとってはいまいち馴染みがないものだ。誰かと長く一緒の時間を過ごした経験が少ない私にとって、結婚とは途方もない出来事のように思える。

 

私にも、将来を案じられる恋人が見つかるのだろうか。見つかったとしたら、この国で結婚したいと思うのだろうか。自分のことすらままならないのに、他人の人生の責任を取ることなんて果たしてできるのだろうか。友人の結婚式なのに自分のことを考えているなんて、私は随分と冷徹なのだなあと思えた。

 

チャペルの正面にある大きな扉の前で、スーツを着た案内係の人が立っていた。

 

「新郎のご友人様は右手、新婦のご友人様は左手へ、それぞれお座りになってください。」

 

二人共と友人な場合どうすればいいんだろうね、と近くで声がした。私たちは男女に分かれてから建物内の長椅子に腰掛けた。

 

チャペルの天井は大きな窓になっており、そこには青々とした木々のそぞろが映っている。光を取り入れる構造になっているのだろうか。午前の陽の暖かさが講堂内を包み込んでいる。側には大きなグランドピアノが見えて、ここで音楽家たちの演奏も行われるのだろう。私たちは新郎と新婦が来るまでの間、閑談しながらそこに座っていた。

 

ほどなくして、先ほどの案内係の人が私たちの前にやってきた。

 

「お集まり頂きありがとうございます。これよりお二人のご結婚を祝う式を執り行わさせて頂きます。私、本日の進行を努めさせて頂く者でございます。どうぞよろしくお願い致します。」

 

そう言うと司会の方は、深く一礼した。私たちも頭を下げる。

 

「式は静粛なものになります。皆様の思い出の中に記憶していただきたいので、撮影等はお控えください。まもなく新郎と新婦が入場致します。皆様、どうか拍手でお迎えください。」

 

すると、控え室の扉から二人の女性が出てきた。一人はグランドピアノの前に座り、もう一人はピアノの前に立つ。司会の男性と対になる形だ。

 

演奏が始まると、聞き覚えのある旋律が講堂内を吹き抜けていく。曲名はわからなかったが、会場の氣を押し上げるかのように開放的で、心地よい音色だった。司会の男性が歌いだすと、連れ添うように隣の女性も歌い、それらがちょうど良い和音で重なり、調和していく。

 

いよいよ始まるのか。高揚感が腹の底から昇ってきて、私は目を閉じ、その場の空気に身を委ねた。

 

「新郎、新婦のご入場です。」

 

出入口の扉が開かれると、真っ白な花嫁衣裳を着た新婦が奥に立っているのが見えた。隣には薄墨色のスーツを着た新郎も居て、二人は手を取り合いながら、仲睦まじげにこちらへ歩いてくる。絨毯を踏みしめるようにして、一歩ずつ丁寧に進む。

 

その二人の姿を、生涯忘れることはないだろう。息をするのも忘れるくらいの気品と、火傷するくらいの優しさが伝わってきて、私の手のひらはいつの間にか胸元で合わさっていた。何度か手を動かし、その度に心臓が脈打つのが聴こえる気がして、目を奪われるとはこのことなのだろうと思った。私の周りの一切は当然のように穏やかで、落ち着いていた。

 

新郎と新婦が式の場について、私たちに一礼をした。後方に神父様が立っている。

 

「これよりお二人の結婚を祝して、神父よりお祝いの言葉が述べられます。」

 

案内係がそう言うと、神父様は一歩前に踏み出した。後ろ手に持っていた紙を開き、そこに書かれている文を読み上げる。

 

それは長い祝辞だった。正直、最初の方はなんと仰られたのか覚えていない。映画などでもよく見かけるような、ありふれたものだったように思う。ただ、神父様の視線がある一点に集中し、深く息を吸ってから話されたその言葉だけは、私の胸にしかと刻み込まれた。

 

「二人の喜びは二倍になります。なぜなら、あなたの喜びは私の喜びでもあるから。二人の重しは半分になります。なぜなら二人で支え合えるから。人は、一人でいるよりも二人でいる方が強くなれるように、神様はお創りになったのです。」

 

二人という言葉が、何度も繰り返し強調される。これは結婚式の主役である二人に向けられた、最大級の賛辞であることは言うまでもない。しかし、私はこの言葉を聞いた時、少しの畏怖を感じた。手を取り見つめ合っている二人の姿が、とても儚いものに思えて仕方なかった。

 

私は今までの人生で神を意識したことはほとんどない。日本に生まれ、それなりの宗教に属してはいるが、クリスマスやバレンタインだって祝うし、神様のためにすることと言ったら米粒を残さないことくらいだ。

 

神父様の仰った神というのは、一神教における神だろう。七日間で世界を創世された、全知全能の存在。今の日本の結婚式も、西洋の文化を中心に出来ていることはそれとなく見聞きしていた。

 

しかし、だとすれば尋ねたかった。私たちのような存在は一体どうしたら良いのですか、と。

 

キリスト教の宗派、カトリックでは同性愛は禁止されている。姦淫罪に当たるというのが理由だそうだ。以前にその情報を知った時は、自身が罪深い存在なのだと知り、生まれ育ったのが日本で良かったと密かに安堵していた。

 

だけど今、神父様の言葉に直面して揺れ動かされている自分がいる。二人って、同性ではいけないのですか。もしそうなら、私たちの伴侶は一体どこで見つけたら良いのですか。神父様、神父様、神父様。

 

そんな私の思考など、この場には相応しくない。目の前の二人は掛け値なく美しい。祝福されるべき存在に違いない。それはこの場に集まった人たちが証明しているし、私だって二人を応援したい。主役は、彼らなのだ。

 

「健やかなる時も、病める時も、二人永遠に、愛することを誓いますか?」

「はい、誓います。」

 

新郎が答えた。そうして、新婦に掛けられているベールに手を添える。露わになる花嫁の肌は、陽の光に照らされて白く滲んでいる。握った両手を胸元まで掲げて一礼すると、新郎は新婦に口づけをした。静かに、目を瞑る二人。

 

音楽が再び奏でられる。五線譜が視覚化されたかのように、震えるようなそれは私たちの鼓膜をぐわりと揺らす。高揚は最高潮に達して、幸福さとは人をここまで麗しく見せるのかと、敬慕にも似た感服さが私の全てを奪っていった。心に直に触れるように、熱い何かが湧き上がってくるのを感じる。祝うという行為は、突き詰めるとこんなにも鮮やかで、豊かな表現となり得るのか。

 

時間が引き延ばされていくような錯覚。気付けば、誓いを終えた二人が扉に向かって歩き出していた。扉はゆっくりと開かれ、それが完全に開ききった時、私の視界は光に満ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無限にも似た静寂さの中で、私は自身の血が流れる音だけを聴いていた。眩く、境界のない世界。そこを照らすのは光ではなくて、空白のようなものなのだろう。名前や意味など、人間が見出すなにもかもが、まだ見つけられる前の無に近いなにか。もし永遠があるなら、この場所のことに違いない。

 

二人の姿が遠くに見える。迷いなく人生を進むであろうその背中は、凛々しく、壮観で、かけがえのないものだった。きっとそれは投影なのだろう。私が作り出した幻であり、現実の二人を表すものでは到底ない。しかし、時に人の想像は現実よりも明らかなリアリティを描き出すことがある。

 

『嫌らわれ松子の一生』という映画がある。悲劇を描いた話だが、概ね喜劇的で、ミュージカルを交えて進んでいくため、観ていて鬱屈とすることは少ない。主人公である松子はかなり痛々しく、なかなか学ばない。そんな無学な自身を知りながらも、強い生命力を持って逞しく生きていく姿は波乱万丈で、ドラスティックにも映る。その映画の最期に、松子は天国への階段を登る。とても満たされた表情で。

 

私はその映画と同じようにどこまでも続く階段を、二人が登っていくのが見えた。

 

ああ、結婚するということは、二人で天国への階段を登ることなんだ。

 

そう腑に落ちたとき、なぜか涙が止まらなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泣くという表現には、何者かに支配されているような感覚がある。泣こうと思って泣ける演技の上手い人も中には居るのかもしれないが、私は泣こうと思っても泣けない。どうしても悲しい記憶などを思い出してしまう。人が記憶によって泣かされるなら、それはその人の意思によるものではないように思える。

 

ドラ泣きという言葉には、支配がある。圧倒的な感動を、ぐりぐりと押し付けられて心が溢れてしまうような、とんでもなさがある。それは決して不快なものではなく、国民的キャラクターがもたらす宗教観に近い。私たちはいつだって、ドラえもんのような存在に心を掴まされているのだ。

 

私はあの結婚式で四回泣いた。それら全てが冗談ではなく、ずぶずぶでぐちゃぐちゃな大号泣だった。近くに居た教授が軽く引くくらい、ティッシュ一箱じゃ足りないくらい、泣いて泣いて泣き続けた。二人の歴史の断片が、私にも流れてきたのだから当たり前だ。

 

誰かと人生を共にするなんて考えたこともなかった私は、本当に独りぼっちだったのだと思う。そんな私に、二人は”愛なるもの”を教えてくれた。それくらいに婚姻制度とは、人類にとって必要不可欠なものだったように思う。

 

ドラえもんが日本人に代えがたいものになったように、私は結婚式によって泣かされた。まさにドラ泣きだ。それは決して悲観的なものではなく、敬意による大号泣である。このような美しさを持った人間が、私に居場所を与えてくれたのだから、感謝しなければ不遜というものだ。

 

あれから私は恋人ができたり、別れたりもした。今は好きだと思える人間関係に恵まれている。それはあの時に泣いたからなのだろうか?私の流した涙が世界に伝搬し、存在を他者から認知されるようになったのだろうか。そんなのは飛躍に過ぎないが、ただチェスの駒を動かすように、ひらがなに濁点を打つように、私は人生の先々に『点』を打っているように感じる。それらを論理や感情が繋ぎ合わせて、『人生』なる立体感を示しているようにも思う。

 

何が書きたかったのだろう?私にもよくわからなくなってきたが、これで筆を止めたいと思う。私を結婚式に呼んでくれた二人は今も友人だし、そのことが私を繋いでくれているようにも思う。大人になればなるほど、意味のわからないことですぐ泣いてしまうようになったし、それを恥ずかしいと思う気持ちも消えた。大いに、泣こう。みなでドラえもん、観よう。私は観ないかもだけど、子供が生まれたご夫婦なんかは今でも観るでしょう。いつだって、人は泣いてよいのだ。それが感動ってものでしょう。そういうことに、しておきましょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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