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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 23

二月、私とフクロウくんは私たちが出会うきっかけとなったフラダンス部の女の子にお礼を言うために、彼女をご飯に誘った。大学からほど近い喫茶店で待ち合わせる。その喫茶店は名前の通りに落ち着いていて、店内にはアンティークの家具とバーカウンターが並んでいる。少ないながらテーブル席もあって、静かな音楽がいつも掛かっていてメニューはシンプルだがこだわっているのがよくわかった。私とフクロウくんは店の入り口近くで待ち、その子が合流したのに合わせて店内に入った。

 

小さいテーブル席に私とフクロウくんが隣同士で座り、向かい合わせにその子が座る。フクロウくんの隣に座ると、私はお尻が半分くらいしか椅子に乗らずに違和感があった。肩を寄せ合うようにしてなんとか姿勢を保ち、しばし談笑する。

 

「Mちゃん本当にありがとうね。今日はお礼だから、好きなの食べて。」

 

フクロウくんがそう言って彼女側にメニュー表を半回転させ渡した。Mちゃんとはその子のあだ名だ。Mちゃんはメニュー表を見て頷いた後、私たちに渡す。古めかしいゴシック調の文字に、黄みがかった厚紙。ひしゃげた四隅は折れた後元に戻したのだろう皺が刻まれており、このお店が代々この付近の住人によって愛されてきたことを物語っている。

 

私たちは店員を呼んだ。

 

「チキンステーキ定食を───」

 

そう言ってMちゃんは私たちの方を見た。私とフクロウくんも小さく手を挙げる。

 

「3つで。それとあたしはレモンティーのアイスを。」

「おれはブラックコーヒーのホットで。」

「ミルクティーのアイス。」

「一緒にお持ちいたしますか、食後になさいますか。」

 

店員が口を開いた。私たちは目配せをして、小声で示し合わせた。

 

「食後で。」

 

ほどなくして食事が運ばれてきた。プレートに置かれた鶏肉は照り焼きになっており、表面の皮の部分はこんがりと焼けてじゅうじゅうと音を立てている。中まで火が通っているであろう肌色に焼けた部分は美味しそうで、なんとも食欲を誘った。他にも添え物のブロッコリーやにんじん、小鉢に盛り付けられたサラダにお味噌汁と器に盛られた白米。その上にはゆかりが振られており、紫色が良いアクセントになっている。私たちは顔の前で両手を合わせてから食事に手をつけた。

 

Mちゃんは結構美大らしい子というか、割と個性的な見た目をしている。服装もひねりのある花柄で、あまりストレートにこういうものを羽織るってことは世間の人はしないだろうと思ったし、髪は明るい金色に染まっていてショートボブにぱっつんの前髪を垂らしながら器用そうに食事を口に運んでいた。大きめの瞳はまん丸で、まつ毛がくるんとカーブを描いている。

 

「Mちゃんはさ、卒制の後って暇だけど何してる?」

 

フクロウくんが口を開いた。Mちゃんがこちらを見る。

 

「んー映画見たり、音楽聴いたりしてるかな。」

「どんなの?」

「"たま"とか、ボカロとか。」

「ボカロ聞くんだね。」

 

そう言うとMちゃんは携帯を取り出して検索をかけ始めた。しばらくその様子を見守っていると、彼女は動画の再生画面を私たちに見せた。

 

「知ってる?きくおって人なんだけど。」

 

あどけない男の子が色彩に刺されているかのようなサムネイルだった。だいぶニッチなとこいくな。思わず声を出しそうになったが、それよりも早くフクロウくんが反応した。

 

「おれも好き。」

「病んでる感じがいいよね。」

 

私も青春時代よくボカロを聴いていた。ryo(supercell)、DECO*27、ハチ、wowakaあたりの大御所も好きだったし、ちょっとひねくれてピノキオP、sasakure.UK、ヒッキーP、梨本うい、トーマなんかも好んで聴いていた。ていうか2011年までのボカロなら大体わかるくらいディープにハマっていた。当然きくおも知っていたし、なんならきくおミクのPVを作っているsi kuさんをこっそり追いかけるなんかもしていた。

 

美大に来てからはほとんどボカロの話はしなかった。なんとなく自分だけが知ってる秘密基地のような感じがして話す気になれなかった。カラオケも高校まではあれほど行っていたのに、今は行かない。同級生は皆こぞってシンプルな服装で脱力感のある無造作ヘアの男が歌う悪意とかさらさらない感じの曲が好きそうだったし、私もそういうの好きだ。けどなんていうか、私の中には元々ボカロ曲のような刺々しさとか厨二心とかそういうのが入っていたんだよなと、郷愁に浸りながら彼らを見た。

 

「映画だとどんなの観るの?」

 

私はMちゃんに聞いた。

 

「邦画が多いかな。しんどい感じの好きなんだよね、岩井俊二とか。」

 

リリィシュシュの監督だっけ、後輩が好きって言ってたなあ。岩井俊二は違うだろうが、当時の私はゲイをテーマにした映画を片っ端から見るようにしており、娯楽というよりは勉強のために映画を観ていた。『渚のシンドバッド』『Mommy』『ぼくを葬る』『ブエノスアイレス』『ブロークバックマウンテン』『メゾンドヒミコ』『怒り』……いつも思うが、なぜゲイの映画監督というのはこのような悲劇的で、それでいて清潔な生活の中に絶えずエイズへの苦しみがあり、隣に死をひたと感じる感受性の強い美青年を描きたがるのだろう。なんかそういうルールでもあるのか?それとも視聴者が望むゲイの姿とはそういう、美しく可憐な花の生涯のようなものなのだろうか。……今となっては疑問に思うことも多いが、当時の私がそういうものを見て勇気付けられていたのは事実だ。なんていうか、ナイーヴだったのだ。仲間がいなければ心細くなるのも無理ないし、映画監督なんて職業は物想いに耽るような人種でないと務まらないというのもわかる。

 

しかし創作物の中のゲイと実際の私たちは、やはり全然違うのだ。

 

「陰鬱な映画と言えばずっと観たかったやつがあって。タイトルはええと、なんだっけ。」

 

私は話題を広げるようにそう呟いたが、肝心のタイトルがまるで出てこなかった。

 

「洋画?邦画?」

 

フクロウくんが助け舟を出してくれたが、私は小さく首を振った。

 

「邦画。」

「誰が出てる?」

「そんな有名な人が出てるやつじゃなくて、もっとインディーズみたいな。」

「うーん、どれだろ。おれ観たことあるかな。」

「確かモノクロで、結構古かった気が。」

 

しばらく唸ってから、私はあっと声に出した。

 

「思い出したけど。ごめん、誰も知らないかもしれない。」

「えー気になる。教えて。」

 

Mちゃんはテーブルに肘をついて身を乗り出していた。私は答えた。

 

「知ってるかな。『追悼のざわめき』」

 

その言葉を聞いたフクロウくんは顔をこちらに向けたまましばらく固まっていた。ご飯を食べる手が完全に止まり、頭の上に鳩が乗っても気付かなさそうな状態。鹿公園の鹿が一斉に振り返ってこちらを見た時のような、変な間。フクロウくんの金縁メガネの奥にある瞳は文字通りは点のようになっており、私は思わずどうしたのと聞きたくなった。私がおかしなことを言ったわけではないようで、フクロウくんは手を顔の前で振りながら次第に動きを取り戻していき、やがて満面の笑顔になって言った。

 

「家にDVDある。」

 

こんなに嬉しそうな人を見たのは久しぶりだった。私がまじ?と返すとフクロウくんはまじと答える。まさか、私がこの映画を知ったのは偶然インターネットで見つけただけだ。知名度もそこまでないし、第一私たちが生まれるより前の映画だ。それをこんな身近な人が知ってて、なおかつDVDも持ってるってそんなことあり得るのか。

 

その時、この人とは本当に分かり合えるんじゃないかと思った。喜びのあまり声が裏返って咳払いをする。Mちゃんもきょとんとした顔でこちらを見ている。

 

「ごめんごめん。なんか昔の映画でさ、衝撃の余りカルト的な人気が出ちゃったような、そういうやつだよ。」

 

フクロウくんはそうMちゃんに伝えた。彼女はピンと来ていない様子で、面白そうだねと答えた。私とフクロウくんはハイタッチとかしちゃってて、なぜか全身全霊で嬉しそうで。Mちゃんからしたら全然よくわかんなかっただろうな。

 

「今度観せてよ。」

「もちろん。」

 

その後は頼んだチキンステーキを平らげてから、私たちは食後のお茶を待ちつつゆっくりとした時間を過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運ばれてきたレモンティーを少し飲んでから、Mちゃんは言った。

 

「ゲイの人ってどうして男が好きなの?」

 

私とフクロウくんは顔を見合わせた。どうしてかって、そんなの自分でもわからない。生まれた時からそうだし自分で選んだわけでもないから、なぜと聞かれるとなぜなんだろう。逆にノンケは、自分が異性を好きな理由を説明できるのだろうか。フクロウくんは答えた。

 

「うーん、難しいね。最初は女性が好きだったけど思春期に自覚するってケースもあるし。どうしてかと聞かれると、性欲が湧くからとしか言いようがないかもなあ。」

「そう考えると不思議だね。単に子供を産むって目的だけなら淘汰されてもおかしくないのに、ずっと存在するってことはなにか理由があるんだろうね。」

 

Mちゃんは示唆的な意見を述べた。それは私も考えたことがあり、以前同級生と似たような話をした。その時は母体のストレスが原因で突然変異的に生まれてくる説と、そもそも野生動物にも同性愛が広く見られるという理由から、働きアリ怠けアリのように遺伝子の時点で采配されている説などを話した。専門的なことはわからないが、自身の実感としては同性愛に意味はあると思う。なぜかはわからないが、もし意味がないと言われてもそれはまだ人間が見つけられていないだけで、これから解明されることのように思う。そうでなければ納得できるはずもない。

 

"かんじんなことは目に見えないんだよ。"

 

サン=テグジュペリが『星の王子様』でそう書いたように、私たちは子供が産めないがきっと役割が違うのだ。目に見える影響ばかりが重要視されているように思う。そのような分かりやすい物事は生活を豊かにするけれど、その分なにかが削られていくような不安も感じる。大事なことは、もっと他にあるんじゃないだろうか。

 

Mちゃんは言った。

 

「でも、2人が付き合ってるってことはお互いに好きってことだもんね。」

「それはそうだね。」

 

フクロウくんがそう返したのを聞いてなんだか不思議に思った。確かに私たちは両思いかもしれないけど、付き合う前からおんなじ気持ちだったかというとそうではない。なんとなく嫌じゃないとか好きになれそうとか、そういう曖昧な気持ちだったように思う。でも今は好き同士だ。それってどういうことなんだろう。

 

「がみにゃんはフクロウさんのどこが好きなの?」

 

Mちゃんは言った。私はその質問にうまく答えられなくて、しどろもどろになりながら変なことを言ってしまったと思う。それを聞いてMちゃんは笑った。

 

「わかる、私も付き合うならがみにゃんよりフクロウさんの方がいいもん。」

 

急に千本の矢が降り注いだ。私は両手で自分の身体を守ったが、腕には何本もの矢が刺さり満身創痍になった。前半部分要らなくないか、フクロウくんかっこいいよねでよくないか。

 

何の悪気もなく笑うMちゃんに対して、こいつも思ったことそのまま言うタイプなんだな。美大生ってマジでそんな奴ばっかだな〜と下瞼に力を入れながら、その日の会食は終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日を境に私たちは加速的に親密になった。初めて会った時から嫌な印象はなかったが、付き合っていく最中でも私はフクロウくんに対して不満を見つけられなかったし、そのことに気付いてもいないくらいには満たされていた。互いに愛を確かめる訳でもなく、私たちはただ沼に沈んでいくようにして共依存となった。毎日フクロウくんの家で寝食を共にし、日々の些細な出来事を報告しあう。今日はなんの映画を観たとかこの展示が観たいとか、この曲が良かったとか。そういう文化的な話題を話せる人はあまりいなかったし、なによりフクロウくんは私に優しかった。それはもう火傷するくらいの温度でひたすらに私を甘やかしてくれた。私はそれに応じるようにわがままになり、甘えているのか自堕落なのかもわからないようなことを喚いては構われることに安堵していた。フクロウくんの背中を後ろから抱きしめている時の私は他の誰でもなかったように思う。一人で生きることに慣れていた私にとって、このような温もりとは最後にいつ味わったのか思い出せないくらいとてつもないもので、しかしそれがなんなのかは私の中で形になることはなく、それらはアメーバのように結合したり分離したりして、ただ泡のように体内を埋め尽くすのみだった。

 

「二人ってすごいね。」

 

夕飯のチキンライスを食べ終わってソファに座っていた時に、私から出た言葉だ。

 

「どういう意味?」

「ほら、今までずっと一人で暮らしてたから。誰かが近くにいるってこんなに安心するんだなと思って。」

 

フクロウくんはテレビを見ていた視線を止めて、顔をこちらに向けた。私は続けて言った。

 

「恋人がいる人ってずるい。こんな風に暖かくて居心地がいい場所にいる癖におれより課題やらないやつとか、すぐ弱音吐くやつとか、そんなやつばっかで。そんなやつに対して自分は劣ってるとか思ってた。実際は誰かといる時点で倍のエネルギーがあるってことじゃない?それって不公平に思える。」

「みんなそうだって思うの?」

 

フクロウくんは私に質問した。私は質問の意味がよくわからなかった。

 

「だって、恋人がいる人は幸せでしょう。」

「そうでもないよ。いても満たされない人もいるし、いなくても幸せな人もいる。」

「そうなのかな、恋人がいて幸せじゃないなんて不誠実な気がする。そういう人達は自然と別れていくんじゃないの。」

「もちろん長く続かない人も多いだろうけど、みんなそうとは限らないよ。なにか理由があって付き合いを続ける人たちだっている。」

「それってどんな?」

 

私はフクロウくんに質問した。

 

「わからないけどさ、人にはわからない部分が沢山あるって思う。おれはりゅうのすけのことを理解しているつもりだけど、それでもそれが絶対かなんてわからない。どれだけ親密な間柄でも、お互いに言えないことがあったり嘘をついちゃうことだってあるんじゃないかな。」

 

フクロウくんの言っていることは頭で理解できても、心が納得しなかった。だって私は君に嘘をついていない。隠し事も一切していない。初体験だって彼のことだって私は包み隠さずに伝えてきた。君が笑って受け止めてくれるからそれが正解なんだと思っていた。そうじゃないのか?

 

「少なくとも、おれは君に正直でいるつもり。」

「それは感じてるよ、ありがとう。」

 

そう言われた後、私は両腕を伸ばしてフクロウくんの肩に腕を回した。覆いかぶさるように身体を密着させると、微かな肌の匂いが鼻腔をつく。身体が熱を帯びるとそれらは行き交いながら反応し合い、別のなにかになっていく。それらが"営み"と呼ばれるものなのだとは知っていても、いざ自分が体験すると不思議で仕方なくて、もっと合理的な名前をつけたくなる。例えば『愛』とか。しかしその言葉を使おうとすると私の喉には粘着質なものが纏わり付いて剥がれなくなり、苦しさから逃げるようにして私は君に温もりを求める。

 

ふと顔を上げるとフクロウくんと目が合った。伏せられがちのその目は今にも閉じられそうなくらいに暗かったが、それでも私は君に見つめられているということがよくわかった。背中を撫でる感覚が合図となり、私たちは時を同じくして唇を重ねる。舌を絡ませる行為はどう考えても普通じゃないけれど、これが私たちにとってのふつうなのだ。幾度となく経験した行為だったがその日のそれはどこか寂しくて、自分の中の欠けた縁をなぞるように弱々しく身勝手なものだった。でも君はそれが当然だとでも思っているみたいに何も言わなかった。きっと優しいから何も言えなかったんだろうね。私は言われないことは無いと見なすような人間だけど、それでも君が理解しているという事実だけはよくわかった。

 

遮光性のカーテンが陽の光を塞いで、溢れるように互いの輪郭を白く滲ませる。葡萄色の裏地は全てを平たくしてしまうみたいに部屋全体の彩度を落としていく。静寂した空間の中で私たちだけが混ざり合っていき、それは随分と支配的に感じられたがはたしてどうなのだろう。私たちの身体は別の生き物のようだったし、その動きはまるで過去として連番のように保存されていっているようにも思えた。

 

フクロウくんの膝に顔を伏せると、ううと呻き声が漏れた。苦しいわけではなく、なんというか居た堪れなかった。

 

「おれ、フクロウくんがいればもう他に何にも要らないかも。」

 

自分の中から零れ落ちた言葉に自分でも驚いた。どうしてそんなことを言ってしまったのだろう?誰に拾われるはずもないボトルメールのような気持ちは海に揺蕩ってすぐに消えてしまうはずだった。朝になっておばけたちが居なくなるようなシンプルな話。しかし、私の思いとは裏腹にその言葉は不運にも誰かに拾われてしまったようだった。

 

「それは、良くないね。」

 

遠くで放たれたその声は、とても無機質な感情表現のように思えた。私の頭を誰かが撫でる。

 

「ごめん。」

 

静かに一拍置いてから、私はもう一度ごめんと言った。一体誰に何を謝ったのだろう、寸断されたようにその先の記憶がない。私はその時に何を感じて、何を申し訳なく思ったんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やるべきことは沢山あったはずだ。きっと互いに就職活動をしていないことや、卒業後実家に戻るのかどうかなど、これからの人生を決めていかなければ行けない大事な時期だったはず。それを私たちはむやみに浪費していた。私がそうさせなかったのだと思う。無邪気に、乱暴に、大人になることを拒んでいた。二人の時間が永遠であることを望んでいた。それはフクロウくんにとって重荷だったに違いない。

 

その日のフクロウくんの様子がいつもと違うことはなんとなく感じていた。察することが難しい私でもわかるくらいにそっけない態度だった。なにか嫌な予感はしたが、なるべくそのことに触れないように気を遣いながら私はフクロウくんに話しかけていた。

 

午後に差し掛かるくらいの時間に、私は今日のお昼何食べようねとフクロウくんに聞いた。フクロウくんは返事をしなかった。寝ているのかと思い布団の上から体を揺さぶってみるも反応はない。何度か声を掛けても無視される事実に、私は少し苛立っていたように思う。お腹空いたよ、ご飯食べなくていいの、ねえ。何度か体を揺さぶり続けた。

 

「一人の時間欲しいかも。」

 

急に何処かから音がした。私はそれが言葉だと理解するのに随分と時間がかかったように思う。

 

「そっか。」

 

予想以上に小さな声が出てから、私はベッドに手をついた。身体の力が抜け、腕が重力に従ってだらんとなる。しばらくそうしてぼうっとしていたが、次第に私の中からは煮え立つような澱んだものが湧き上がってくるのを感じた。

 

今のなに?

 

その言葉を考えれば考えるほど私は動揺した。いや、言葉そのものの意味はわかる。問題は裏にある発言者の意図にあった。今ここでそれを言う意味って何?この人は、以前からそれを思っていたってことだ。そうじゃなければこのタイミングでこんなに冷たい言い方をするはずがない。一体私はいつ、何をやらかしたと言うのだろう。

 

伽藍堂の体内を言葉が落下していくような感覚があり、ひゅうんと空気を裂くような音、他のどこでもない感じが私を一人にさせた。落ちきった言葉はやがて底面にぶつかり、醜い音を立てて潰れた。

 

は?意味がわからない。

 

途端に気持ちが冷めた。頭で考えるより先に、私の腕は目の前の布団を思い切り剥がしていた。真冬だからきっと驚かれただろう。寒くて困惑されたかもしれない。でもそんなことを構う余裕はどこにもなくて、私は縮こまった図体に向けて思い切り気持ちを吐露した。君は今の状況がどれほど大事かわかってない。一緒にいることがどれほど貴重なことか理解していない。おれが君のことをどれほど好きなのか、一切わかろうともしていない。なんなんだよ、ふざけんなよ。一人でいたいなら一生そうしていろよ。

 

大声をあげて罵倒した。ふざけんな。カス、死ね。それらは怒りではなく、悲しみからくるものだった。やり場がない気持ちがとめどなく溢れてくる。私は何でこんなことを言っているのだろう?誰に対してなにに、憤慨しているのだ。どこにも居場所がないような寂しさが押し寄せてきて、それらは身体をこじ開けて無理やりに入ってこようとしたが、私は全力でそれらを跳ね除けた。嫌だ、もう二度と一人にはなりたくない。比喩ではなく、真っ直ぐな私の気持ちだ。就職も行くところも決まってない身分のくせに抜け抜けと恋愛に勤しんで、そのくせ恋人に拒絶されるなんて私は本当に滑稽だし、大間抜けだった。そんな自分をわかっていたくせに、誰かの優しさにつけ込んだ。全部罰だと思う。居場所がないのも孤独なのも自分で選んだことだ。私は自分で積み上げたものを自分で壊すのが好きな悪魔なのだと思った。

 

どれくらい喚いたのかわからない。私は気づいたら外にいた。遠くで誰かが謝る声が聞こえたけどそんなことはどうでも良くて、さっさと一人になればいいと思った。君が一人の時間が欲しいというのなら存分に楽しめばいいじゃないか。そこに私は必要ないのだろう?

 

思い切り閉めたドアが重く響いてから、私はドアチェーンをかけた。何も考えることができず、ただひたすらに顔面を濡らす液体の正体がわからずに穢らわしいと思った。こんな無色透明なものが体内から出てくる意味がわからない。私は一体なんなのだ。

 

ドアをノックする音と誰かが謝る声が聞こえた。しばらく無視したが一向に鳴り止まないので苦情を言いにドアを開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。

 

「りゅうのすけ、ごめん。ほんとにごめん。」

 

"それ"はひたすらに何かを謝っているように見えたが、"なに"に謝っているのかよくわからなかった。なぜ私の名前を知ってるのだろう?この男は誰に何の許しを求めているのだろう。

 

「意味がわからないんだけど、さっき一人になりたいって言ってたじゃん。」

「あれはそうじゃなくて。」

「そうじゃないならなんであんなこと言ったの。」

「違うんだって。いいから、少し話をさせて。」

「無理だよ。おれ、君の気持ち尊重したいもん。」

 

私はドアを閉めようとしたが、男は足を挟み閉まらないようにしていた。

 

「りゅうのすけ、お願いだから話を聞いて。まだまだ二人で話さなきゃいけないこと、たくさんあるから。」

 

そういって男は私に懇願した。この男が私の中に侵入したがっていることはわかったが、それが快なのか不快なのかを判断しかねていた。恐らくどちらも正解なのだろう。この男が私に対して必死になっている様子が、どこかでまんざらでもなく思う自分が居るのもわかる。

 

私はドアチェーンを外して男を家に入れた。男は「ありがとう。」と言い、ぶ厚いコートとずぶ濡れになったスノウシューズを脱ぐと、身を低くしながら私の部屋へと入った。

 

むき出しのフローリングはかなり冷たく、靴下を履いているとはいえ座るには耐えがたい温度だった。しかし私は躊躇なくその場に座り込むと、あぐらを掻きながら向かい合わせになるようにして体の向きを変えた。男も恐る恐る膝を下ろし、最初は正座しようとしていたが、私が崩すように伝えると楽な姿勢になった。しばし沈黙が流れる。

 

「あのさ、」

 

封を切ったのは男からだった。私は視線を丁度男の顔が焦点から外れる位置に固定し、一切身じろぎをしないように末端部分を硬直させて聞いていた。顔の筋肉もぴくりとも動かさない。

 

「おれがさっき言ったこと、謝りたくて。ほんとにごめん。」

 

男はそういってまた私に謝ったが、正直回りくどいなと感じた。知りたいのは気持ちではなくて理由なのに。私は口を開く。

 

「おれはさ、フクロウくんのことが大事なの。大事だったの。今もそうかもしれない。だから君の前で嫌な部分はほとんど見せていなかったと思うし、精いっぱい君のこと大事にしていたよね。それなのにさっき言われたこと、あれなに?一人の時間なんていくらでも作れるじゃない。わざわざ欲しいなんて言わなくても、一人で出かけてくるねとか、電話してくるねとか、そういえばよかった話じゃない。なんであんな冷たい言い方で、おれに釘刺したわけ?」

「本当にそうだよね、自分でも酷いと思う。」

「誰かと付き合うってことは、必然的に二人になるってことじゃない。付き合ってないときは常に一人なわけでしょう。今までおれ、ずっと一人だったの。それが寂しいんだってことにも全然気づかないくらい、一人に慣れてたの。でも君と付き合って誰かと一緒にいることがすごいことだって知ったよ。こんなに幸せなんだって。さっきの発言は、そんな幸せを踏みにじるようなものだったって思わない?」

 

フクロウくんは相槌も打たず、静かに私の話を聞いてから何かに納得したような動きをして言った。

 

「そうだね。そう思われても仕方ないと思うし、さっきの言葉が嘘だったとも言わない。おれはもしかしたらりゅうのすけに対して気を遣ってたのかもしれない。本当は言いたいこととかを我慢してたんだと思う。りゅうのすけはそうじゃないよね、おれに対して本気で話してくれていたよね。おれはそれ、嬉しかったんだよ。それも嘘じゃない。」

「じゃあなんで一人になりたいのさ。そんなこと言われたら悲しいじゃん。」

 

私は感情を悟られないように必死に抑えていたが、きっとばれていたと思う。

 

「それでもね、おれらはずっと一緒にいたんだよ。本当に朝から晩まで一日中。寝るときもご飯を食べるときも、ずっとね。そういう状況下にいるとさ、考えられなくなるんだよ。自分のことや、これからのこと。おれはものすごく弱くて不器用だから、りゅうのすけとの時間と自分の時間を両立することが苦手だったんだ。でもその伝え方が意地悪だったと思う。許してほしい。」

 

それを聞いたときの私は、嫌ではなかった。むしろこれが愛なるものなのかもしれない。そう信じていいのかもしれないと、どこかで思った。しかしそんな思いとは裏腹に、私の表情はますます強張りながらフクロウくんに対して虚ろな目を向けた。

 

「許さないよ。絶対に許さない。もしこれからおれと君の関係がどうなったとしても、今日ここであった事実が変わることはない。それを美化するように記憶が作り替えられていったとしても、事実だけは普遍なんだよ。だから君に対しての今のおれの気持ちがどう変わるかとか、そういった契約めいたことは言わない。ただ許せなかったという事実がここにあるということだけは、永遠に変わらないから。」

 

その時のフクロウくんの表情はとても悲しそうで、3Hの鉛筆くらいに主張がなくて。小さく「別人みたい。」と呟かれたのが私の耳にも届いたが、私の身体はなにかを守ろうとするかの如く、その人を睨む目つきを変えることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後に何を話したかはよく覚えていない。フクロウくんはいつの間にか居なかったし、私たちは連絡を取らない日を五日間ほど続けた。あの夜に私が言ったこと、感じたことは鮮明に覚えていて、フクロウくんから連絡が来ないという事実はすべてあの出来事のせいだということを知らしめてくるように、空白が生活全体の質感を奪っていった。

 

そのまま連絡を取らなくてもよかったのかもしれない。ただ、どれだけフクロウくんのことを無視しようとしても私の気持ちが落ち着くことはなく、悔しいような情けないような感情が波のように襲ってきて、耐えきれずに私はフクロウくんにメッセージを送った。

 

「いま何してる?」

 

少し待ってから既読がついた。返事を待つまでの間は滑車で四肢を引っ張られているかのような痛みを感じた。

 

「久しぶり。今日は前約束してた性病検査に行ってこようと思うよ。」

 

返事が返ってきたことに酷く安心した。そういえば少し前に二人で約束していたのだ。

 

「りゅうのすけも来る?」

 

続けてメッセージが届いた。私はフクロウくんにあの日のことを無かったかのように振舞われているのが、嬉しいのか悲しいのかよくわからなかった。

 

「行かない。」

 

反射的に返事をした。すぐにそっか。とメッセージが届いて、私はフクロウくんともう、終わりなのかもしれないなと感じた。そうなったとしても全部自分のせいだし、率先して嫌われるようなことをしているのだから当然の報いだと思った。むしろここで素直に行きたいとか言える方がどうかしている。

 

そうやって自分の気持ちに整理をし続けたが、思考に句読点を打つたびにフクロウくんとの思い出が蘇ってきて、私はこんなことを言いながらも君と別れたくないのだなあという気持ちが薄ら寒くて仕方がなかった。

 

「やっぱり行きたい。」

 

自分がメッセージ欄にそう書いたことに気が付いて、送信ボタンを押そうとしたが押せなかった。何度か白紙に戻して携帯を置いたが、すぐに居ても立ってもいられずに携帯を握り直し、その度にメッセージを書き直した。ため息と共にいよいよどうしようもないと察して、私は目を瞑りながら送信ボタンを押す。

 

永遠にも感じるような間の後、携帯が震えたのを感じて私は目を開けた。

 

「それじゃあ、うちに来て。」

 

そこには誰かからのメッセージがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私とフクロウくんは家の前で合流し、バスに乗って保健所へと向かった。道中、身体が揺さぶられながらフクロウくんと体が触れたが、お互いにそれに何か言うでもなく、ただ無言の時間が二人の間に流れていた。

 

バスから降りて地図アプリを見ながら保健所に向かう最中、色々なことを考えた。今日君と仲直りするのか、それともこのまま何も喋らずににさよならして、それで二人の関係は終わりなのか。どちらのパターンも想像できうる限り予想した。会話のパターンや場面展開、互いの挙動に至るまで隅々までシュミレーションした。しかし、合理的に何かを選択しようとする脳の働きとは別に、私の中で明確に動き続けているなにかがあり、それはまるで答えを知っているかのように私に訴えかけていた。

 

「あのさ、」

 

私は前を歩くフクロウくんに向かって口を開いた。君は黙って後ろを振り返る。

 

「この間はごめん。仲直りしたい。」

 

その言葉を認識した瞬間、氷が溶けていくような安らぎがあった。フクロウくんの表情がきっと和らいだからだろう。君は私に向かって笑いながらなにかを言っていたように思う。それを私は聞き取れなくて、それでも不安にはならなかった。ただお互いにもう一度繋がれたのだという確信がそこにあって、空気に持たれかかるようにして身を委ねた。

 

保健所に着いた私たちは、何事もなかったかのように話した。検査の間も私には不安がなかったが、フクロウくんはかなり怯えていて、二人でロビーにある椅子の上で結果を待つ間もずっと震えていた。私は大丈夫だよと伝えたが、フクロウくんは私よりも経験が豊富だったようで、きっと病気が判明してもおかしくないような心当たりがあったのだと思う。

 


結局二人ともが陰性だったことがわかり、フクロウくんは本当に怖かった~と口を開いた。心の底から嬉しそうな君の声を聴いたのはいつぶりだろう。「そんなわけないじゃん。」と私が返すと、なんだかこちらまで嬉しくなってきて二人で一緒に笑った。

 


あの時、もしかしたら二人の運命は決まってしまったのかもしれない。そうでなかったとしても私たちには知る由もないし、事実それからの二人の行動は大きく変わった。まずフクロウくんはとても忙しそうに実家に帰る準備を始めた。大学院に行くかどうか悩んでたみたいだったけれど、私と過ごしたことで決心が固まったようだった。私もそれを見守るようにして自分のことを始めた。大学を卒業しても人生は続くのだから、これからどうするのかを決めていかねばならない。

 

私は後輩の紹介で、とある漫画家のアシスタントをすることになった。既に東京で有名な方で、私はその人の作品も好きだったがなによりも自分が東京に行くことに理由をつけたかったのだと思う。

 

母にもそのことを伝えてから、引っ越しの段取りをした。本当は大学院に行きたかったけど、私にはお金がない。できる限りのことはしてみたが、どう考えても東京での2年間のお金を捻出できる気がしなかった。とにかく私は東京に行くということ、ただそれだけを決めて無謀にも人生を歩もうとしていた。

 

ある日、ボンちゃんの店に向かった。私がいつぞやか壁に穴を開けたあの店だ。まともだった時も全然普通に働けていなかったけれど、私はマスターにお世話になった自覚があったし、お店のことも好きだった。

 

聞きなれた音が鳴ってから、私は木製のドアを押した。いらっしゃいませと奥の方からは全く知らない男の子が顔を出した。私は会釈をしながら奥の方に向かうと、そこにはボンちゃんとお客さんが談笑していた。

 

ボンちゃんは私の存在に気が付くと、固まっていた。私は何も言えず、ただ自分が身勝手な行動をしていることだけはよくわかった。

 

「ごめん。」

 

どこに着地するわけでもない独り言のような言葉が出た。ボンちゃんは何かを喋ったような気もするが、その顔が幽霊を見るかのように無表情だったのを見て恥ずかしく思った。羞恥心から逃げるようにお店を出てから、一切振り返ることなく繁華街まで走った。ひたすらに、わけもわからずに夜の空が私に覆い被さってくるような圧迫感に疲弊しながら、道の真ん中で立ち尽くした。

 

どうしたら普通になれるんだろう。

 

なれるわけないのにって、誰かが呟いた気がする。私はそんな声をかき消すようにして自分の足元を見た。融雪で濡れたコンクリートには私の表情が映りこんでおり、それは街の明かりと滲んで赤黒く変色していた。空とビルには境目がなくて、私は水面に飛び込んでそのまま落下してしまうような錯覚さえもあって、背筋に悪寒が走ると何もなかったかのように家へと帰った。私の人生は、私のこれからは、きっと大丈夫なのだと自分を言い聞かせながら、悪い予感を振り払うようにしてひたすらに身体を動かし続けた。

 

私がやってきたことがそれでなくなるわけではない。むしろ逃げれば逃げるほど色濃く残るものなのに。そんな予言的な事実にもその時の私は気づいてないふりをしていた。

 

あの日、人生が終わっても何もおかしくなかった。それなのに、どうして私は生きているのだろう。そのようなことを考えないでいると楽だが、それでも日々の隙間には数々の疑問が詰まっている。それらを『運命』と一括りにするのは簡単だが、そこに行き着くまでには途方もないくらいの苦しみや焦りがあるのだということはよく理解しているつもりだった。今までもこれからも、そうして綱渡りの日々が続いていくのだ。決して安寧などないのだと、縋るようにして私はそれからの毎日を過ごした。