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世の中にはカネコアヤノ及びそのファンを批判してはいけないという不文律がある

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最近できた法律って皆さんご存知ですか?ご存知ないですよね。読み上げます。

 

プライバシー保護法第2条「当該アーティスト、カネコアヤノ及び同氏のファンに対して差別・蔑視的な行為を行うことは、法的に妥当性を欠く違法行為であることを、厳に注意すること。」──人格権及びその保障に関する法律より抜粋

 

これは人格権及びその保障に関する法律に、暴行や脅迫、中傷などの人格権侵害行為を禁止する規定があることに基づき新たに制定されたもので、具体的には「カネコアヤノは、その人格を尊重され、生命、身体及び財産について、不法な侵害を受けない権利を有する」と規定されます。また彼女のファンを差別、蔑視する行為もそれに含まれます。

 

なので皆さんはくれぐれも、彼女やそのファンに対しての言動には注意しましょうね!

 

〜完〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冗談はほどほどにして。

 

みんな禁忌(タブー)に触れるのって怖いよね。鳥居に小便するとか、地蔵を壊すとか、人形の顔を壁に向けるとか、八幡の藪知らずに入るとか。怖くない人は想像力が極端に乏しいか、命知らずか、本人が祟りより怖いような輩か、そもそも人間にあらずかだよね。そう考えると心霊スポットや廃墟に軽い気持ちで行っちゃいけない理由がよくわかる。一番怖いのは人だからね。

 

今日は霊能力の話をしたいんじゃなくて、禁忌ってあらゆるところに存在するよなあという話をします。

 

私って他人を分析するの好きだから、その結果をよせば良いのに人に言っちゃって、周りからの顰蹙を買ったりひどい時には絶縁♪みたいな状況になることよくある。不本意だしええっ?!みたいな声出るけど、実際そうなんだから仕方ない。そんな私だから禁忌を見つけるの上手くて、あっこの発言はこの人にとって禁忌なんだ。ここから先はこの人にとっての禁足地なんだって思って身を引くことが多い。

 

頑固な私がわざわざ自分の発言を取り消して身を引けるのは、それが個人にとっての禁忌だからに他ならない。人間なんて個々で見たら下の下だから(鋭い爪も、牙もない)、個人に対しての攻撃がいかに残酷であるかを知っているし、軽はずみの言動が社会的制裁として返ってくることも知ってる。だからこそ私の攻撃対象はいつだって概念であったり、社会であったり、あるいは人類そのものといった巨大な主語に限定される。まあ、時には会った人の悪口とかも言うけどさ、届かないならそれくらいよくない?死人に口なしっしょ。

 

要するに反撃を喰らわなさそうだったり、攻撃した後自分が罪悪感を感じなさそうな対象を見つけてストレス解消してるわけなんだけど(こう書くと酷い)、それでも私がめらめらと心を燃やしてまで批判したい相手がいる。

 

それは『批判されてない人』だ。厳密には一切の批判を受けない人はいないから、『批判されなさそうなポジションにいる人』かな。どういうことか。

 

これ本当にあるあるなんだけど、人間ってプラスのこと言われたらマイナスを想起するらしい。逆にマイナスなことを言われるとプラスを見つけたくなる。みんなも心当たりあるよね。

 

ないって人も思い出してほしい。幸せな時って不幸に対して身構えちゃうよね。最高潮の時ってそのあとよくないこと起きるよね。逆に、堕ちるところまで落ちたら人は這い上がらざるを得なくなる。

 

以前、ダンゴムシの移動方法についての研究があった。ダンゴムシって、壁にぶつかるまでは直進し続けて、壁にぶつかると曲がる。そのあとまた直進し続けて次の壁にぶつかったら、今度はさっきとは反対方向に曲がる習性があるらしい。

 

つまりダンゴムシ同じ方向には連続で曲がらないってこと。なぜそうなるのかと言うと、この移動方法をする限り、どんなに複雑な構造の迷路でも必ず出口に辿り着くってことが分かってるから。

 

これってシンプルだけど腑に落ちる話で、よく言われている『洞窟で迷ったら片方の壁に手をつけて進み続けろ、そうすれば出口に辿り着く』ってやつと一緒。もしも出口がない迷路だったら、同じところをぐるぐると回り続けるだけだしね。出口が存在すると仮定するならば、ダンゴムシの移動方法はとても理にかなっている。

 

もちろん、人間の世界は平面とは限らないからダンゴムシみたいな移動方法が正解となるのはあくまで地面の上だけなのだけど、それでも人生が山あり谷ありなのは、人間がいつか出口に辿り着けるためにそうなっているように思えて他ならない。

 

感情は相対的なもので、数値化できないからこそ振れ幅がある。もしも数学の定理のように100%の再現ができるものであれば人間はいちいちこんなものに振り回されていない。絶対の真理を発見したら人間はそれを嬉々として応用するし、いつしか作った本人もそのことを忘れて便利に使えることが当たり前になる。火の発見、言葉の発明、電気の普及、インターネット。文明はいつだって人の手によって積み上がっていく河原の石であり、それがどれだけ不安定な形だろうと上に登ってさえしまえばそんなこと忘れて気持ち良くなれてしまう。

 

本質的に一面性のものはないってことでもある。物事には常に裏があり、真逆の性質を孕むようにできている。だからこそ人は完璧なものを求めて足掻く。宇宙の始まりですら裏宇宙という概念があり、そこでは私たちの世界の物理法則とは真逆の出来事が常に起こっていて、私たちが"こっち側"なのは偶然、量子が正の方法を向いていただけなんて話もある。反物質も実際にあるらしいしね。我々一般市民にとっては眉唾物の話だしもはや信仰の領域だけど、私たちが信じきってる"科学"なんてものも本当の意味で理解している人がどのくらいいるのかを考えると、人間って都合よく出来てるよなあと思うのだ。

 

私って嘘くさいものが嫌いで、"きな臭い"とでも言うのだろうか。軽薄なものはもちろん好きじゃないけど、もっと嫌なのは"裏面を自覚しているくせに表面しか見せない人"だ。特に表現においてはそう。どの曲をA面B面にするかはその人のセンスだけど、全部A面です!と言われるとはて?と思う。さらには曲なんてないけど音楽家です!と言われるともっと???となる。

 

自認するのは勝手だし、曲作ってるだけ偉いじゃん!って応援する人がいるのも自由。そんなことわかってるよ。でもさ、なんていうかさ、美しさには必ず棘があるっていうかさ。きれいはきたないってシェイクスピアが書いたけども。今私たちが立ってるここは生物の死骸の上なんだよってことをなんとなく理解してないんじゃないか、する気もないんじゃないかって人が私は嫌いで。

 

理解した上で、どう見せるかを考えてターゲッティングしてるから隙が見えてこないというのもわかる。あえて隙を見せると言う狡猾さが存在していて、怜悧な頭脳でそれをやってのける人がいるのもわかる。もっと踏み込んで、無自覚にそう言うことができてしまう天才がいると言うのもわかる。

 

人は多様で、だからこそ批判してはいけないと言う意見もよくわかる。でも逆に、多様であるからこそ批判する気持ちが湧くんじゃないの?とも思う。

 

ルールは破るためにあると言うけれど、それってみんながルールを守る人ならそもそもルールなんて必要ないって言う哲学から来ていて、禁忌っていうのもそこに人間の欲望が詰まっているから、あえてそうせざるを得なかったんじゃないかなんて邪推してみる。実際のところは知らないけど、でもみんなが目指す多様性っていうのは個人の欲望の開放でもあるから、そういう意味では今までの禁忌とされていたものを破る必要って必ず出てくる。

 

私がもっぱらむかつくのは、富も名誉も地位も全て手に入れてかつ才能に溢れているくせに、巧みに自らにとってメリットとなることだけを追求できる、生物として余りにも真っ直ぐで純粋で正しすぎる、そんな眩しい人なんだよね。

 

間違いを犯さない人なんていないし、暗部ってみんな持ってて、それを表現するしないはその人の品性なのだけど、私はもっぱら暗部が大好き。暗部どんとこい。暗部一丁。お待たせしやした暗部でござい!……多分虫に生まれてたら石の裏とかに住んでると思う。あれ、ダンゴムシ

 

そう言う部分を見せてなかったり、まあ私がそこまで見てなかったり、そもそもない人(そんなやついるか?)がとても苦手だ。なんか見ていると自分が悪い気がしてくるし、実際自分が悪いのだと思う。

 

でも私も人間だから都合良く生きたいわけで、悪者には悪者なりの正義や哲学があるわけで、負の一面を思い切り見せて共感を呼びたいわけで、なんならちょっとお金とかもほしいわけで。どんな感情だってそこに貴賎はないわけで、そういうことこそが人間らしさであり尊さであって、かけがえのない眩しさだと信じてるわけで。

 

彼らが物質なら、私は反物質なのだと思う。きっと私が嫉妬したり攻撃したくなる人種というのは私が目指すべきところでもあり、そう言うものと向き合うことでいつか私自身もそれを取り入れて自由になれると、どこかでそう思っているに違いない。みんなも、似たような経験あるでしょう?

 

カネコアヤノはまさに、そういう禁忌を持った人だ。いや、彼女自身は聖域と呼ぶべきなのかもしれない。文化において突出する人とは2種類あり、美しいか面白いかだ。そのどちらかが突き抜けていれば賞賛されるし、両方できてるなら完璧だ。

 

彼女は美しいをやりたい人なのだと思う。美しいを信じ切っていて、彼女の瞳に映るすべては芽生え、咲き誇り、透明感を増して清流のせせらぎのような光を放っているに違いなくて、私はその光がずっと羨ましかった。手に入れたいと思った。でも私が美しいをやってもそうはならない。なにか真剣味のある、影を纏ったような重々しさが出てしまって、ようするに病的になる。それはそれで美しいのかもしれないが、私はどうしても性善説を信じてる人間になりたくて仕方ないのだと思う。生まれ変われるならなりたい。だって私の苦労は、足掻きは、彼女たちからしたらどこ吹く風なんだろうから。あぜ道に転がる石なんだろうから。

 

みんなそれぞれの方法で生存戦略しているだけでそれに良いも悪いもない。それなのに、胸の奥がざわつくのはなぜだろう。どうして正しいものを嫌いになったりするのだろう。

 

かつての糸井重里が、村上春樹が、川島小鳥がそうだったように。やくしまるえつこが、大森靖子が、カネコアヤノがそうであるように。光を放つ人には闇があって、その混ざり合った模様がチューリング・パターンを描くように、私たちの遺伝子には刻まれているのだと思う。弱さを見せた強さには勝てないという本能が。過ちを認めた正しさがあるという美学が。圧倒的な才能を前に人は跪くしかできないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かと言って、肯定的な意見しか許されない場所ってやっぱり気持ち悪いし、そういう小綺麗さを多様性とかSDGsとかフェミニズムとか都合の良い言葉でコーティングする人たちは本当に嫌いで。人間ってまだらだから。おれも、お前も、そうだから。勝手に正しくするなよな。ほんとお前っていっつも自分の言いたいこと言うよな。って、心の中の太賀くんも呟いてる。

 

何が言いたいかと言うと、私は本当にカネコアヤノになりたい。小松菜奈になりたい。モトーラ世理奈になりたい。最果タヒになりたい。ろるらりに、なりたい。佇まいだけで全部許されてるような圧倒的な雰囲気を醸し出したい。わかるか?この苦しみ。わかるか?ゲイって文字だけで性欲を想像されるこの疲弊感。好奇心に餌にされる感じ。わかるか?見た目が男ってだけで男に肩触られるこの感じ。同じゲイからゲイなの?!って驚かれる感じ。なあ、お前らみたいな大事にされそうな女によお、おれの気持ちがわかんのかって聞いてんだよ。

 

カネコアヤノの持つ雰囲気は、ほとんど木村和平の写真によるものなのかもしれないし、実際の彼女がどうとかなんて、私には知る由もない。もしかしたらお箸の持ち方変かもしれないし、麺を豪快に啜る派かもしれないし、歯磨きせず眠ることだってあるかもしれない。でも、なんていうか本当に綺麗だよなあ。魅力的だよなあ。壊れそうだから良いんだよな。月のように、危うさのある女は私は好きだ。

 

カネコアヤノ及びそのファンにはどうしようもなく批判しづらい何かがあって、それはまだ世間に認知され切っていない才能だからなのだと思う。これから彼女らの規模が広がって、YouTubeの再生回数がぐんと伸びたら誰かが悪口を言うのだろう。それを見た誰かが、私も思ってた〜となどと同調して、それでアンチなんて集団が出来上がって。"批判しても大丈夫"な雰囲気に全部責任転嫁して、どんどん消費されていくんだろうね。その裏でどんな心がどんな形でどんな表情をしているかなんて知りもしないで、勝手にさ。

 

人間の描く模様は限りなく多様で、それを私は美しいと思ってしまうから。だから何も言えない雰囲気があったら率先して壊す。その為に私が悪者になっても構わない。面白くないからだ、そんなの。誰も傷つかないなんてあるわけないし、あったとしてもつまらない。表現を志すものにとって多様性は毒にだってなり得る。そうじゃなくて、目指すべきはとがることだ。とがってとがってとがりきって、細すぎて見えなくなるくらい、触るだけで血が出るくらい、とがっていくことだけだ。全身で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みんなも聴いてみてね。

 

カネコアヤノ『とがる』