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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 19

耳元で蝿が飛び回る音がして、頭の中は執拗に掻き乱される。悲鳴にも似た地の底から唸るような響きが沸き上がってきて、私は私の感情に整理をつけ始める。これは怒り、これは悲しみ、これは慈しみ……サインペンで印をつけるみたいに身体の中を高速で駆け回る残像を射止めていく。悔恨、悲嘆、哀憐。途方もない劣情が実感となって降りてくる中で、私は妄想と現実の境が分からないでいた。己の醜態を曝け出して、全ての不毛な価値観を無為に帰したいと思う。狂気じみた発想が泡のように密集して、叫び出している。夜の街を歩き、腹の底から絶叫を繰り返す。獣の慟哭が紺色の夜に爪痕をつけ、剥がれた跡からは白い裏地と垂れる血が、夜をどうしようもなく埋め尽くす。真っ赤に染まった私の実体は、震え錯乱していた。真冬だというのに寒さを感じない、酩酊しているはずなのに、本能だけが目的地を知っている脳がない虫のように私は歩いていた。鼻歌を歌うように軽やかに、本気の絶叫を歌い上げる。

 

タクシーの運転手が私の声に気付き、横目で通り過ぎる。繁華街を抜け、あたりは古びた商店街が顔を覗かせ、青白く光る月が道路をブルーに染めている。私の身体は帰り道を記憶している、一切思考を通すことなくして私は家までの帰り道を進んでいく。奥の方にはこの街特有の、緩んだ坂道がうねって待ち受けている。アスファルトにあえて混ぜ込まれた光を反射する粒は、まるで雪景色のように煌々と引き伸ばされている。ちょうど視力の悪い人が眼鏡を外した時に光が薄く伸びて乱反射する、あのような光景だった。目が横転して視界がずれる。頭を縦に振って視界を戻す。その仕草はまるで狐に取り憑かれた村人の様相であっただろう。私の遠吠えが月に届くことはなく、言霊は矢のように降り注ぐ。ありったけの憎悪をぶちまけて尚、私は憎くて仕方なかった。これも全てあの男のせいだ。

 

私は携帯を取り出し、電話をかける。長い長いコールの後、男が出た。

 

言葉にならない絶叫が、男を劈く。おそらく寝起きだったであろうその男は、訳もわからず私の声に狼狽えている。当たり前だ、こんな深夜に本気の怒声を浴びせられるなんて誰だって困惑する。しかし構うことはなかった、ここがどこだろうと知ったことではない。例え静謐さが必要とされる美術館の天井の高いホールの中であったとしても、私は張り叫んだであろう。どうしようもなくこの男が憎い、殺したい。それもとことん残酷に、1番この男が惨めで傷つくやり方で殺してやりたい。私から母親を奪おうとするこの男に、私の生まれてから授かってきた言葉たちを全て使って、怨嗟を囁きたい。この男が運命を呪って、自殺しても尚、その家族一同が人様に顔向けできないように、末代まで呪ってやりたい。

 

この男は、私の3番目の父親だ。結婚するという報告を受けたのはついこの間のことだった。色めいた母の影にはいつも特定の男がいて、妖怪のように私の家族に取り憑いてくる。そのことは知っていたが、今までは特に気にも止めていなかった。奔放な母のことだし、私には言えない秘密事など数えきれないほどあるのだろう、そう思ってやり過ごしてきたことを、今になって後悔していた。私は傷ついていたのだ。母には愛憎があり、切っても切れない縁というものが横たわっている。それを踏み躙るようにしていつも、知らない男たちがその股ぐらを奮起させて母を求める。その光景は、母という存在がただの『女』に成り下がっているのを見ているようだった。そんな母の口から、3番目の父について聞かされた時、私は何も言えなかった。

 

「あのね、りゅうのすけ。もしりゅうのすけが良かったら、紹介したい男の人がいるの。」

 

その男を初めて見た時、私はゴキブリみたいだなと思った。茶色い肌は乾燥して、実年齢以上の加齢を感じさせる。唇は糸のように薄く、目はまぶたが重い一重で、髪は長く、癖っ毛だった。それをゴム紐で纏めている姿はどことなく汚らしく、精一杯男の威厳を示そうとしているのか横柄な言葉遣いをするが、身長が母よりも低いのでそれも惨めだった。背を丸めて伸びた顎髭を触る様子は触覚を動かすゴキブリの頭部の動きにそっくりだった。そんな母が、その男と結婚すると言った。

 

お金目的なんだろうなと、悲しくなった。母がこの男を内面から好きになっているはずがない。経済的に困っている母はお金目的で何度も結婚を繰り返した。だが、お金目的だったから長くは続かなかった。私はゲイだからというのもあるが、結婚をしたくてもできない立場にいる。そんな中で母の結婚観は到底理解できるものではない。生活の苦しさから目の前に現れた男とすぐに関係を結んで、破局する。外見から入っても、お金に目が眩んだとしてもそれはまだいいだろう、ただ、内面を信頼できるまでの関係性を築く努力はしたのだろうか。どこかで怪しいと思わなかったのだろうか。なぜ毎回、同じ過ちを繰り返すのだ。

 

今回の男も今までのように長くは続かない気がしていた。だから黙って見過ごしていたのだが、私は母の再婚の話を聞いた時、傷ついている自分を隠せなかった。勝手にすれば良い、母の人生なんだから、私がつべこべ言ったところで母の中で答えは決まっているのだろうし、後押ししてほしいから言っているだけなんだとも思う。ただ私は、腹の虫の居所が悪かった。自我の芽生えた私にとって、もうただ見過ごせる出来事ではなくなっていた。

 

これは、家族の問題なのだ。

 

「お前がいるから、おれは苦しいんだよ。わかるか、お前のような人間がおれの家族になるってことがどういうことか、わかってるのか。母を手に入れて終わりじゃない。お前は、おれのお父さんになるんだよ。」

 

それは今までの不在だった父の肩代わりをさせるにはあまりに荷が重い、矮小な虫のような男だった。それを分かった上で、責任を押し付けたくて仕方ない。抱えきれないほどに膨れ上がった私の感情は変色し、グロテスクな光沢を持ってこの男にもたれかかった。

 

「わかってるよ、りゅうのすけ。」

 

男が放った一言は針のように、私の膨張した内面に突き刺さって割れた。中から赤黒い液だまりと、パステルカラーの紙吹雪が一斉に飛び散り、赤い飛沫が男を染め上げる。固形状の液体から蛙の脱皮のように手足が伸び、よろめきながら立ち上がる。それは頭部が異様に大きい子供のような体型をした何かで、パステルカラーが舞い散る光景を背に項垂れ、首を傾げた。ギョロリとした白い目がこちらを見つめる。この感情に名前をつけたい、生まれたての私の子供だ、はっきりと私の中で成長した"それ"は脚を抱え蹲ったかと思うと、けたたましく嗤い出した。喉が潰れるかと思うくらいの大声で、私は嗤っていた。なにが、わ か っ て る だ。おれの人生の何を、お前が知ってるんだよ。

 

慟哭。弾け飛んだ私の破片は正面衝突したトラックが頭から折り畳まれて縮んでいくみたいに収束して、眩く光った。音が線上に伸びて視覚化される。得体の知れない力に身体が引き伸ばされていき、意識は拡張して自我のコントラストを強める。視界は一点に集中し、瞼が勝手に開き瞬きができない。夜の闇に瞳孔が色濃く覗いて、不可視が見えるかのようだ。この男が母と結婚するというのなら、私は18年間の孤独を、男性への恐怖を、根源的な自由を持って全て埋めてもらわないと気が済まない。私にはもう、理解の及ばぬ本能という領域に自分が全身をずぶ濡れにして沈んでいくのがよく分かっていた。

 

「お前の親族全員に、ぶちまけてやるよ。おれがゲイだってこともお前が憎くて殺したいってことも、全部全部全部。母に蹲って性器を舐める様子も、子作りの為に精液を吐き出すところも、全部気色悪いんだよ。なんでおれの家族なんだよ、他にいくらでもいるだろ女なんて。どうせその歳で結婚できなかったんだろうから碌な人生じゃないのは分かってる、けど、我が家を巻き込むなよ。他人が今更、どの面下げて家族になろうとしてんだよ。」

「りゅうのすけぇ、お前はお母さんのことが好きなんだな。」

 

自分の名前を読んだ後に語尾が伸びるところも気持ち悪い。母が好きだって?嫌いだよ。憎くて仕方ないよ。おれをこんな風に生んだ母と、これから家族になろうとするお前が殺したいほど憎いよ。

 

言葉は止まらない。矢の雨が辺りに降り注ぐ。どこから湧いてくるのだろう、力強い腹の底からの声は、男を電話越しに貫く。男は対話するのを諦めたのか、聞きに徹する姿勢になった。それを感じ、私はこれ以上暴力を突き付けても無意味だということを理解し方向を変えた。

 

「おれのお父さんになるのなら、今から来てよ。すぐに、ねえ。おれのところに来て話を聞いてよ。寒くて哀しくて寂しいよ。おれのところに来て慰めてよ、お父さん。」

「……りゅうのすけぇ、今すぐは無理だ。ここからどれくらい距離があるかお前も分かるだろ、な?もう分かったから、落ち着いて、今日はぐっすりとお休み。」

 

男は平静を装って、私を慰める。しかし、私とこの男はまだ2人きりで会ったこともない間柄だ。急に距離を詰めて"お父さん"と呼ぶ私のことが不気味だったに違いない。声色が、少しばかり震えている。私はその僅かな差異を見逃さなかった。獲物を狙う蛇のように男の自尊心を揺らがせる言葉を吐く。微かに吐息を挟み、男に思考を巡らせる隙を与えない。冷静にさせたら終わりだ、私はこの男と決着をつけなければならない。それは今ではないかも知れないが、今でもいい。とにかく2人きりで話す機会を設けるのだ、そうしないと私はこの男に対する自分の正義を抑えることができないし、それは歪んだ形のコミュニケーションとして我が家に亀裂を生む。そもそも、この男が結婚して我が家の大黒柱となること自体が嫌というわけではなかった。その行為の中に、私という息子の存在からこの男が遠巻きに逃げているような姿勢を見せるのが気に食わなかっただけだ。目の前に現れた好き放題にできるおもちゃを投げ飛ばす赤子のように、私はこの男に理不尽な暴力を振るいたくて仕方がなかったのだ。

 

「おれのお父さんなら、今すぐ来てくれる。それができないならお前はお父さんじゃない、紛い物のただ性欲のみで母と繋がろうとする薄汚い野郎だ。お前は、プライドはないのか。お前の長男になろうとしている子供に対して、苦しんでいる我が子に対して、助けに行こうとも思えないような臆病者なのか?」

「……りゅうのすけぇ、今日はどうしても無理だ。ここからお前の家まで車を使っても2時間はかかる、明日は仕事だ、おれも行ってやりたいがどうしてもすぐには無理なんだ、頼む。分かってくれ。」

 

男が懇願するが、私は許せなかった。会いに来て欲しい時にそばにいない父性など、要らない。そんなもの全部壊れてしまえばいい、私が壊してやる。全部、この手で、引き裂いてやる。

 

「お前が来ないならおれは何をするかわからない、どう考えても今のおれはおかしい。それを止める役目を果たすのが親だろう。止めないなら、親族全員に呪詛を吐いてやるよ、我が家の狂った血の繋がりを呪って、食いちぎって血だらけにしてやる。お前のせいだからな。お前が、おれを助けに来てくれないから、おれの暴力を受け止めてくれないから、今日が破滅の時だ。カ・タ・ス・ト・ロ・フだよ。わかるか?」

「……りゅうのすけ、」

「わかるかっつってんだよ!!!!あ゛????お前に!!おれの気持ちが、わかるわけないだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

私は電話を切った。私は夜の混沌の中を大声で叫びながら歩いていた。嗤うように、歌うように、呪詛を言霊を発狂を、握りつぶすくらいの本気の絶叫にこめて吠えていた。家に到着してもベッドに横になり、眠ることはなく携帯の画面にとめどなく溢れてくる感情を精一杯の憎悪を込めて打ち込んでいた。相手は大学入学以降、碌に挨拶もしていないような親族ばかりだ。深夜に私の携帯を叩く音が寂しく響く。

 

1時間ばかり連打していたと思う。途中、親族からのメッセージも何通か届いたが全部無視して一方的な破滅を囁いた。歴年の恨みというのはかくも恐ろしいものなのか。寂しさに浸された人間は、その積載値を超えて感情が溢れた瞬間、こうも化物じみた行動を取れるものなのか。瞬きを忘れて一心不乱に呪詛を吐くと、不意に糸が切れたように私の指先が止まった。誰も助けてくれない、会いに来てくれないという現実よりも、空想の世界に行きたい。居ても立ってもいられず、玄関の外に出た。

 

風のない夜だった。私は肌着で真冬の寒空の下に出たが、不思議と開放感に満ちていた。何もかもどうでもいい、全てを忘れて今を生きている。息をしている。生が一瞬に凝縮されて、インクのようにぽたりと垂れた。目的もなく歩き続けて、家々が視界を掠めていく中、私の視覚、聴覚、触覚全てが研ぎ澄まされて一定の領域に到達していた。人間の脳にはまだまだ使われていない、眠っている可能性があるというが、それが意識的に呼び覚まされたかのようだった。信号を気にせず歩いたことはなかった。このままの状態で死ねたらどんなに気持ちいいだろう。轢かれるってどんな気持ちだろう。わからない。わからないことが嬉しい。

 

この際死んでも、それは仕方ないと思えた。だって私はやるべきことはやったのだ、足掻けるだけ足掻いた。それで私が歩いた先に死が待ち受けているのなら、それは寿命ではないか。もう孤独も哀憐も必要ない。全てが平坦だ、何もかも等しい。これが悟るってことなのか、腑に落ちるってことなのか。

 

後ろから笑い声がして、振り向くと葉っぱが手を振っていた。私も振り返すと、葉っぱさんからの声が聴こえてくる。

 

「君はよく頑張ったよ、もう何もしなくていい。全てを受け入れるんだ、そうすれば君が望んでいるものを必然に手に入るよ。君の頑張りは、僕が認めてあげるよ。」

 

私は葉っぱさんにお礼を言い、口端がにたりと上がるのを指でなぞった。意識から剥離して、行動だけが分裂していく。私の意思とは関係なく、微笑んだり歩いたりしている。魂が迷子になっているみたいに私の中はもぬけの殻だった。しっとりとした黒の木々がゆらめき、星灯りが異様に白く光る。静寂が辺りを包み込む下り坂で、私は浮き足立って駆け出した。足裏に鈍い感触が伝わる。空気を吸うと肺が冷やされて、吐く息は白く拡散しやがて生命に取り込まれていく。そのことが嬉しい、私も、この星の一部なのだ。

 

生を受けたことに感謝をしていると突然、背中を悪寒が走った。心臓が跳ね上がり、鳥肌が静かに立ち、私は振り返った。

 

「誰?」

 

返事はない。ツーっと耳鳴りがして口内が乾燥していく。視界の先にあるのは鬱蒼とした木々だけ。その暗闇の中に私の声だけが反響していく。私は幽霊などを信じたことはなかったが、この気配の主はきっと、この世ならざるものだろう。直感が、そう囁いている。

 

芽生えた恐怖心を宥めて落ち着かせると、私は再び夜の街へ歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どのくらい歩いただろう、何度も車に轢かれるチャンスはあったし、そのまま凍えて道路に横たわることだってできた。なのに、私はしぶとく生きていた。せっかく、もう死んでもいいやと思えたのに、神様って本当にいるんだろうか。目的地も分からぬままひたすらに歩いていたのにも関わらず、私は何故か、また家にたどり着いていた。奇跡的なことだが、まっすぐ歩いていたつもりが、いつの間にか街をぐるりと一周していたのだろう。

 

生と死が混濁していた状態から、家の中に入ると生がくっきりとした形で現れてきた。私は、生きていた。

 

生きているのなら仕方ない。これが運命だ、私にはきっとまだやるべきことが残っているのだろうと、そう思うことにした。

 

しばらく部屋の暗闇の中で立ち竦んでいると、チャイムが鳴った。出ると、青い服を着た恰幅の良い男性が2人立っていた。

 

「あー良かった。君ね、お母さんから通報があってさっき家に来たら居なかったから心配したよ。もう一度来てみたら、ちゃんといたね。大丈夫?」

 

話しぶりと服装を見るに、この2人が警官だということはわかった。ただ、私は母が警察を呼んだという事実が悲しかった。私はそれほどまでに化物になってしまったのだと思わされたから。

 

「……ずっと、お父さんが欲しかったんです。」

 

言葉が意識より先に漏れ出て、私は警官に抱きついた。洗濯した後の衣服の香り。彼を抱きしめた時のことを思い出す、無骨な男性の身体。私が欲しくてたまらなかったものだ、私の寂しさの象徴、欠落の証明。そのことを肌でしっかりと感じながら、私は声を上げて泣いた。目から大粒の涙がとめどなく出てくる。

 

「寂しかったんだね、もう大丈夫だよ。」

 

優しい声がする、私はその声にふと我に返り、警官から体を離した。涙はぴたりと止まり、代わりに笑みが溢れてくる。私はそのままキッチンの方に歩いて、立ち止まった。

 

「君、もう大丈夫だから、こっちおいで。おじさん達と一緒に行こう。」

「来ないで。」

 

私は警官達の声を制止して、明瞭な脳みそで考えた。今ここで包丁を持って首を切れば死ねるだろうか、それとも、この警官の顔目掛けて思い切り振りかざせばどうなるだろうか。爪先から虫が這うような感触がして、私は窓ガラスを見た。外の景色に不透明に映る私の顔は薄気味悪く笑っていて、真っ直ぐに立っているのに首だけが傾き、瞳孔が開いている。壊れた人形のようだった。

 

しばらくの間そうして思考を巡らせたが、結局私には包丁を手に取ることも、死ぬ勇気も、ましてや人を殺す度胸もなかった。警官の言う通りに動き、パトカーに乗った。深夜だったからなのか、サイレンは鳴っていなかった。エンジンの音が静かに響き渡る車内で、振動する窓ガラスに手を触れ、冷たく白くなっていく風景を見つめる。

 

「ね、キスしてもいい?」

 

私は隣に座った警官にそう問いかけた。警官は困った表情を浮かべ、それは駄目だよと言った。私は好きな男子に意地悪する小学生女子の気持ちが、その時少しわかった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パトカーが警察署に着くと、私はドアを開けて署内に駆け足で入って行った。初めての人が大勢いる、挨拶をしなければ。

 

何と言ったのかはあまり覚えていないが、私は受付のカウンターに手をつけ、叫んだ。少しばかり声が大きすぎたかもしれない。私の声に怪訝そうな顔を浮かべて皆が一斉に振り返ったが、気にすることはなかった。私は初めてくる警察署の中で気分が高揚していた。

 

「君はこっち。」

 

先ほどの警官が手招きをする方へ足を運ぶと、もう一人の警官が私の腕を後ろ手に固定した。不意に振るわれる暴力に怯えて喚く私を無理矢理部屋の中に押し入れる。白い交差した鉄の檻の中で、外側から鍵をかけられる音がした。

 

静寂、呼吸をする音が体内で透明になる。罪を犯した人が閉じ込められる部屋に、私は入っている。私は何か罪を犯したのだろうか、正しいことを正しいと伝えているだけなのに、何故私は警察に通報されて檻に入れられなければならないのだろうか。それとも、私自身が罪なのか、ゲイとして生まれ、男を好きになると言うことがそもそも罪深いことなのだろうか。

 

そこから夜が明けるまで、私は保護室の内側で檻にへばり付いていた。別に冷たさが気持ちよかったとかそういうわけではなかったが、筋肉が石になったかのように身体の言うことが効かなくなり、奇怪な挙動のまま固定されてしまっていた。瞬きもせずじっと、檻の外を眺める。私の前には若い警官が一人座っていた。私が話しかけても何も反応せず、ただ目のやり場に困る様子で俯いたり、眉をしかめながら他所を向いたりしていた。まだ幼さが残るその顔は、ゲテモノの料理を口にした時のように歪み、私を可哀想な目で見ている。そうか、私は今可哀想なんだな。

 

朝、外から日が差し込み檻の中が淡い青色に染まる頃、私の身体はだんだん馴染んで落ち着きを取り戻していた。先程までのこわばった状態から、弛緩した状態になり檻にもたれかかるようにして虚な目をしていた。すると、向こうから禿頭のおじさんがやって来て言った。

 

「おう、さっきより随分マシな表情になったな、坊主。」

 

気安く呼ぶな、と思いながらも返事をするのも面倒だった。何もしたくなくて、私はただそのおじさんの顔をじっと見つめていた。

 

「今親御さん来たからな、ほれ。」

 

鍵が開けられ、私はゆっくりと足に力を込めて檻の外に出た。すると母が心配そうな表情でこちらに駆け寄ってきた。

 

母が来てくれたことは嬉しかったが、署の入り口に、あの男が座っていたことが腹正しかった。私が歩いてくるのを見て黙って立ち上がる。背丈は母よりも小さく、目つきは野良猫のように尖っており、その髭もじゃの顔で私を見て言った。

 

「りゅうのすけぇ、心配したぞ。ほら、一緒に帰ろう。」

 

私は車へ連れて行こうとする男の手を思い切り振り払った。そのまま無言で靴を履き、歩き出そうとする。慌てて警官が止めに入るが、私はそれすらも無視しようとした。しかし、体格差では敵わない相手だ。肩を掴まれ、車の方に押しやられる。

 

「やめて!息子に暴力を振るわないで!」

 

後ろで母の声がした。肩を掴む手の力が緩まる、その隙をついて私は逃げた。まっすぐ家に向かって無我夢中で走った。途中後ろから何か喚き立てるような声が聞こえたが、無視してアパートまで一心不乱に走った。

 

家に着くと鍵を閉め、そのままベッドに横たわった。しばらくして玄関のチャイムが鳴ったが、無視した。間隔を開けて何度かチャイムがなったが、諦めたようなのか車のエンジンがかかる音がして部屋の中には静寂が戻ってきた。

 

静かになった室内で、ぼーっと天井を見ながら考えた。私は何をやっているのだろうか。

 

他人に迷惑をかけたくて仕方ないのだろうか。遅れてやってきた大掛かりな反抗期なのだろうか。あまりにも狂気的な夜だった。バイト先の壁に穴を開けたことも、真夜中の街を歩きながら絶叫していたことも、檻にへばり付いて朝を迎えたことも、全てを鮮明に記憶していた。私の行動は取り憑かれていたとしか言えないくらい、病的だった。

 

携帯を取り出して今までの行動を検索にかけてみる。すると、気になる検索結果が出てきた。

 

統合失調症

 

およそ100人に1人が罹患する病。躁鬱病と肩を並べる、精神病の父と母と呼ばれる病気で、ドーパミンと呼ばれる脳内物質の過剰分泌が原因とされているが、何故その病気に罹るのかのメカニズムは未だ解明されていない、れっきとした脳の病気。20代前後の比較的若いうちから発症し、発症時の行動によって、破瓜型、緊張型、妄想型と区別される。

 

私の行動は統合失調症の緊張型、そしてステージは急性期と呼ばれる状態に酷似していた。檻の中で身体が変な姿勢で固定されていたのは、カタレプシーというらしい。病名こそ知ってはいたが、今の今まで自分がそうかもしれないとは考えたこともなかった。幻聴や幻覚など見たことがないし、周囲に噂話をされているなどと言った妄想もしたことがない、だから誤解していた。

 

私は統合失調症かもしれない。

 

急激に不安に襲われて、いてもたってもいられなくなった。私は不治の病に罹ってしまった、何故私なのだ、この病気は治るのだろうか、いやそもそも、これから私はどうしていけばいい。

 

震える手で電話をかけた。コールがなって、女の子が出た。

 

この女の子は私の親友だ。ゲイであることを学校で最初に話したのもこの子だ。2人きりで話すこともよくあり、私はこの子に信頼を寄せていた。

 

「ごめん、急に電話して。あのさ、おれ、統合失調になっちゃったかもしれない。」

 

話していくうちに声は震え、涙が溢れてきた。泣きじゃくりながら、嗚咽混じりに訴えかけた。しばらく耳を傾けてくれていた彼女も、やがて端を発したようにこう言った。

 

「私は、がみーがどんな病気だったとしても偏見を持たないよ。変わらず接する。だから、がみーも病気としっかり向き合って、治して行ってほしい。」

 

真っ当な答えだった。正しいし、もちろん頭ではわかってはいるのだが、今の私が必要としてるのは慰めであり、アドバイスではなかった。ただ、優しく話を聞いて欲しかっただけなのだ。

 

空想が宙に跨る。胡乱な影は濃紺となり人の営みに余白を作る。怪物が涙を流しながら徘徊する。その針金のような毛並みは色濃く、獰猛な狂気を宿して滑らかに光っている。絢爛な家具に病だれの誘惑。直感と囁きが、因果を結んで一纏めになる。そのことが大層、叶わぬ夢だとわかっていてなおさら私は、愛に飢えていた。希望を捨てられなかった、孤独な獣と有明月の浮かぶ空。響くのは、幻想と蠱惑的な恐怖だ。支配されたがる人と、それをもたげる人のさもしさたるや、感情を沼に沈めてもなお消えぬ悪行だろう。

 

清廉、高次な価値観を分け合って取り乱す、失調した解釈、弁明、露骨な態度。羨ましくて、未来を嘆いた。

 

明け方の空の下で、私は女の子に今日あった様々な出来事を話し、疲れるとそのまま倒れ込むように眠った。