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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 17

大学3年の6月。梅雨に差し掛かり、校舎にも薄紫や青色の花が咲き始めた頃。私たちは『紫陽花』という名前の他専攻を交えた飲み会に参加していた。

 

『紫陽花』は、デザイン科3専攻だけではなく、工芸や彫刻といったファインアートの学生も参加できる。土曜の夜から始まり、グラウンドにブルーシートを敷き、氷で冷やした缶チューハイや缶ビールを手に取り、用意したつまみを肴に飲みふける。そこで交わされる会話は、誰々が付き合っただの、賞をとっただの、美大祭での出し物の話や就活のことなど、様々だ。

 

私は一年の時に参加したきり、他専攻飲みには顔を出さないようにしていた。なんとなく話しづらいし、自分のクラスメイトと仲が良すぎて、他に交流を持つ必要も感じなかったからだ。しかし、その時は何故か参加しようという気になった。寂しかったのだろうか、ほとんど部屋着の状態で18時頃グラウンドに向かう。そこには既に10数名の生徒が屯していた。

 

私は缶ビールを手に取り、ふらふらとグラウンドのベンチへと歩き出した。既に数名の生徒が話し込んでいる。私は手元のビールの蓋を開けながらそのベンチの端の方に座った。談笑が聞こえてくるが、途中から入ったので何の話かわからない。ただ、酒の場というのは話についていけてなくても雰囲気で楽しめるもので、私はとりあえずの笑みを浮かべながらその場でビールを飲んだ。氷水で冷やされた小金色の液体。青春の味というには苦すぎる、舌の上で転がせるような旨味もない飲み物。だが、こう言う飲み物がないと成立し得ない若さというものはあるよなと、ビールという飲み物の持つ不思議な魅力について考えていた。

 

すると、奥の方に座っていた男がひょろりとこちらを向いた。

 

「がみー笑 元気そうじゃん。」

 

私は薄暗くなった景色の中で、見覚えのある顔に思わずあっと言葉を漏らした。この顔は、Kだ。狐顔で肌が白く、細身だが骨格がしっかりしているため弱々しい印象は受けない。身長も高くモデルのような体型をしている。そして話す時にいつもヘラヘラと笑いながら話すので、常に両頬に笑くぼが出来ている。飄々とした男だ。

 

Kとは以前にも飲み会で一緒に話したこともあり、面識があった。彼は体育祭の実行委員を務めるなどどちらかというと陽の気を帯びた人間だったため、私も入学当初から顔は覚えていた。気さくな性格で私に話しかけてくる。何を話したのかはよく覚えてないが、彼は初対面で思ったことを言うタイプの人間であり、いきなり不躾なことを言われた気がする。しかし、私も私で初対面で気を遣われるよりは本音を出してくれる人の方が話しやすかったのでこういう性格は嫌いじゃなかった。互いに酒をよく飲むということで他専攻の人物の中では比較的話せる方だった。

 

Kは多浪生であり、見た目からは分からないが年齢は自分よりもかなり上だった。だがそれを感じさせない逆無礼講っぷりは、『紫陽花』でもしっかり発揮されているのであった。

 

「また痩せた?笑 ちゃんとご飯食べてる?」

 

傷つく一言だ。当時の私はゲイであること、母子家庭であることに加えて痩せていることがとにかくコンプレックスだった。ぱっと見でわかるほど腕は細いし頰は痩けているので、バーで働いている時もよく体型のことを指摘された。太っていることを直接的に伝えることはデリカシーがないと皆が思っているが、痩せていることは世間一般的には褒められるべきことという認識がある。だから、無邪気に痩せていることを伝えてくる。それが当人にとってネガティブで、本気で悩んでいることだとしてもお構い無しだ。

 

「食べてるよ。でも体重は少し減った。」

 

私は目の前で不敵な笑みを浮かべるKに本当のことを伝える。事実、課題と心労で体重は目減りしており、最も痩せていた時と比べると少しは体重があるが、それでも一般体型の人と比べるとかなり痩せていた。なぜ食べているのに太らないのか自分でも不思議で、ただそういうことをいうと嫌味に受け取られるのが嫌だった。

 

Kは2人で話したいらしく、私たちは遠くにあるベンチの方に移動した。桜の樹の側に野球で使うバックネットがよく見える。美大ではスポーツは盛んではないが、一応形式だけの器具はある。ほとんど日が暮れたグラウンドには、西からまだ僅かに差す橙色と、覆うような夜空の紺色がグラデーションを作り、綺麗だった。青春の1ページを切り取ったかのようだ。

 

私はKとたわいもない話をした。課題のことや、就活のこと、誰々が付き合っただの、振られただの。

 

「がみーは好きな人とかおらんの?」

 

Kがそう言うと、私はいないよと即答する。ふーん、とKはビールに口をつける。私はこういう質問には慣れていた、とにかくいないことにするのだ。そうすれば相手はそれ以上追求してこなくなるし、私がゲイであることもバレる心配がない。つまらないが、これが一番確実で堅実な身を守る手段だった。

 

それから小一時間ほど話した。2人とも酒の席のノリというものはよく理解しており、酒が足りなくなっているのを見て、飲み足りないんじゃない?と追加の酒を持ってきたり、あらかじめ用意されたつまみを頬張りながらモテてえ〜。とぼやきを入れたりなどした。アルコールが回り、酩酊感が頭の先をじんわり痺れさせてくる。時々背伸びをしながら、私はKの顔を見た。彼も酔いが回ってきているようで、顔にこそ出ないものの、その目つきは先ほどより解けて、口調も朗らかになっている。

 

良い夜だ。こういう、人と人の境界が曖昧になる行事が私は好きだ。線引きや距離感の掴み方が苦手な私にとって、酒の場というのは良い意味で緊張感を取り払ってくれる。猥雑な話題も、震えるような怒りもここでは全て均等だ。差異がなくなる気がして、何事にも寛容になれる。おおらかさが支配する王国。6月の肌につく湿度とは裏腹に、私はKと話すことで久々の開放感を味わっていた。

 

ふと、Kが携帯を取り出した。両手で携帯を持ち、俯きながら笑っていたかと思うと、身体を左右に揺らしながら携帯を上の方に持ち上げる。首を持ち上げて口を開く。

 

「あーこれだこれ。ほら。」

 

Kはそう言って私にスマホの画面を見せてきた。それはゲイアプリの私のプロフィールだった。

 

「え、なんで。」

 

思わずうわずった声が出る。Kはケラケラと笑っている。

 

「なんでって、そりゃ俺もこのアプリ知ってるからだよ。」

 

察しが悪いなとでも言いたげに、Kは一呼吸おいてからそう言った。なんてことだ、完全にバレていた。顔出ししているからいつかはバレる日が来るとは思っていたが、こんなに早いとは。いや、そんなことより重要なのは、私がゲイであることがバレたことより、なぜKがこのアプリを知っているかだ。

 

「Kもゲイなの?」

 

私は恐る恐る聞いた。

 

「そうだよ。」

 

Kは今までで一番の笑顔で私にそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲイであることは、秘密であり、個性であり、ときには武器だ。カミングアウトという手段は使い方を間違えれば相手を傷つけるし、双方の関係性を壊してしまう。しかし、それは儀的なカミングアウトという手段をとった場合の話であり、あまりにもあっけなくバレてしまった場合、それは笑いの種になる。

 

今回の私のケースがまさにそれだ。お間抜けと言って差し支えないほど、尻が出ていた。私の小刻みに震える尻尾を、Kはむんずと掴んで穴倉から引っ張り出した。

 

小動物のように笑った。それまでの苦労はなんだったのだろうと思うくらいに唐突に、私のゲイであるという秘密兵器は白日の元に晒され、平和の象徴となった。私とKは同じアイデンティティを持つ仲間として、このグラウンドの片隅で密かに同盟を結んだのだ。

 

「もっと早く言ってよ。」

 

そうしたら、嘘をつかずに済んだじゃないか。そこまで言い切る間も無くKから返事が返ってくる。

 

「俺はずっと前から気づいてたけど、いつ言おうか迷ってたんだ。だってお前、手ホゲすごいもん。」

 

手ホゲとは、オネエ的な仕草のことである。手からオネエ臭がすると言った意味合いに近い。だがその時の私は手ホゲが何のことかわからずとりあえず笑って誤魔化した。意味はわからなかったが、恥ずかしいことであることは何となく伝わったからだ。

 

私はKとLINEを交換した。ゲイであることを共通の認識として持っている学校の知り合いは彼が初めてだった。彼は本心こそ読めないものの、悪意のない奴というのはよく分かっていたし、年上なのでゲイの世界のことも私よりずっと詳しかった。ゲイアプリは随分前に始めているようだったし、美大の中のゲイの情報もある程度持っていた。

 

「彫刻は俺だけ。工芸にも1人いるな。油絵にもいるらしいけど、確定ではないな。あくまで噂。デザインはどうなの?」

 

私が知らないと首を振ると、Kは白けた顔になった。どうやらゲイの学生同士は出会うとまず知っているゲイの情報を交換するものらしい。情報がない私はゲイの世界において弱兵だ。

 

しかしKは私のことが人間的に気に入ってるらしく、邪険にはしなかった。互いが互いをタイプではないと認識しているが故に結ばれた強固な絆、というふうに受け取っている。恋敵となると嫉妬の炎を燃やすが、利害関係が一致した途端仲間になる辺りは女性が持つ感覚と近い。

 

それから私はKと定期的に会うようになった。と言っても、Kの方から誘ってくれるのだ。深夜にいきなり、今から飲もうぜなんてメッセージが来たと思えば、工芸の知り合いの家で鍋を企画したり、アプリでの要注意人物を教えてくれたりした。挙句の果てに、私が働いているバーにまで顔を出すことがあった。自分からなかなか誘えない私にとってはKはゲイである寂しさを忘れさせてくれる良い友人という感じだった。

 

ある日、Kからの誘いがあった。

 

「行きつけのバーがあるんだけど飲みに行かない?」

 

私はいいよ、と返事をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Kの行きつけのバーは、私が働いているバーから歩いて10分ほどの距離にある。川のそばにあるビルの一室が店舗になっており、すぐ近くに観光地もあることから夜景が蛍の光のように幻想的な光景を映し出す。辺りにはせせらぎが聞こえ、小京都と呼ばれる街の色相を浮かび上がらせる。

 

私とKはあらかじめ繁華街で待ち合わせてから店に向かった。怪しい雰囲気のゲート街からは少し離れた場所にあるため、夜でも怖くない。店舗は2階にあり、階段を上がって通路をまっすぐに進んだ奥にある。カクテルグラスとお月様が描かれた看板は、電灯が切れかかっているのか時折点滅してジリリと音を立てている。

 

ダークブラウンの重たい木扉を開けると、カランと音がした。この音がすると反射的に、バイトをしている時を思い出す。夜の店の象徴的な音だと思う。お客さんが入ってきたことを告げる音の後、すぐにいらっしゃい。と声がした。

 

「あら、Kじゃない。元気?」

「こうじさん〜元気だよ。今日は知り合い連れてきた。」

 

こうじさんと呼ばれたマスターは、口調こそオネエだがヒロポンの声色とは違い、落ち着きがあるように感じられた。私は軽く会釈をする。

 

「がみっていいます。よろしくです。」

「がみちゃんね。とりあえず2人、そこ座んなさいな。お通し、お漬物でいいかしら。」

 

私は沢庵が苦手なことを告げると、こうじさんは私の前に柿ピーを、Kの前には胡瓜と茄子の浅漬けを出した。箸置きに割り箸が添えられる。

 

「この店は代々美大生が店子やってるんだよ。ちょうど今は工芸のあいつが働いてる。こうじさん、今日はあいつ休みなの?」

「あいにく今日は若い子はいないの。若い子目当てなら土曜日に来なさいな。お酒、いつものでいい?」

 

Kが頷くとこうじさんは私たちの前に鏡月を出した。Kのキープボトルらしい。私がビールを注文すると、Kは自分のボトルからこうじさんに一杯プレゼントする。私たちは三人で乾杯した。

 

「Kもついこの間までこの店で働いてたのよ。本当、美大には度々お世話になってるわ、いい子が多いし。」

 

こうじさんは鏡月の水割りをくるくると手で回しながらそう言った。そうなんですか!と私は驚きの声をあげた。まさか、同じ大学で出会った友人が店こそ違えど同じ店子だとは。私は偶然なのか奇跡なのかよくわからない体験に感動しつつも、狭い世界だなと少し戸惑いを覚えた。

 

「それで、がみちゃんだっけ。あなたはゲイなの?」

 

またこの質問だ。私はゲイバーに来るとほとんど必ずと言っていいほどこの質問をされる。そんなにゲイに見えないのか、Kにはすぐ見破られていたというのに。

 

「ゲイですよ。」

「100?それとも50?」

 

%のことを聞いているのか。100ですと答えるとこうじさんはそう。と水割りを口にした。

 

「女の子にモテそうな顔してるのにね。」

 

こうじさんは私の方を見てそう言った。それは、自分でもよくわかる。男性性よりも女性性を感じる見た目をしているので、ノンケに産まれていた方が色々楽だったろうなと思うことは今までに何度もあった。もしも私がノンケだったら、あの時ゆう先輩と付き合い続けて、卒業して結婚して地元で家を建てて、子育てでもしていたのだろうか。周りの人達に愛され、結婚式の写真を寝室に飾ったりしていたのだろうか。

 

たとえそれがわかりやすい幸福の形だとしても、今の私には手に入れる術はないし、そもそも羨ましくもない。女性を性的に魅力的だと思う気持ちはわからないし、反対に男性の魅力は痛いほどわかる。どうしようもなく男性が好きで、それを表に出せないしんどさを表現に変えてきた。私はもうゲイという生き方しかできないし、自分が生きやすくあるための勇気は出すつもりなのだ。

 

でもたまに、こうやって自分の外見が持つ正しさを人から指摘される時、私は黙って口をつぐんでしまう。

 

「それで、Kが連れてくるってことはがみちゃんも美大生?」

「そう。がみーは視デ。いいなー就職で勝ち組で。」

 

Kは頬杖をつきながらそう言った。私の専攻は学校内では視デと略される。正式名称が長いからだ。そして、うちの学校ではデザイン専攻は就職に強いことはファインの生徒にも、教授にはもちろん、こうした飲み屋の人達にまで明々白々だった。

 

「まぁ、就職するためにこの大学来たんで。」

 

私がそう答えると、こうじさんは尋ねた。

 

「将来何になりたいの?」

 

私はゲーム業界や、映像業界への就職を希望していることを伝えた。こういう話になると、大体の人の反応はすごいね、頑張ってねだ。だから、あまり私の将来がどうとか専攻の話とか、そういう真面目な話はお酒の席ではやめてもらいたかった。

 

だがこうじさんは美大の就職については比較的知識があるようで、映像業界は激務だとか、広告代理店はお金がすごいけど、睡眠時間が3時間になるとか、そう言った話を嬉しそうに語ってくれた。Kはこう言った真面目な話はあまり興味がないようで、ふらふらしながら携帯をいじっている。

 

30分ほど自己紹介も兼ねて話した。早めの時間に来たからだろうか、その間他の客は来ず、店内はこうじさんと私とKの3人だけの空間になっている。酒の瓶に私たちの顔が映る。私が動くにつれて瓶の中の私も変形し、異相を映し出す。少し開けられた窓にはこの街の灯りがキラキラと反射して、夜風が私たちを撫でるように通り抜ける。

 

お酒も三杯目くらいになり、体温も少し上がってきた頃、こうじさんが言った。

 

「それで、がみちゃんは恋人はいないの?」

 

反射的にいません。と答えた。事実だし、肯定のしようもないのだがこの手の質問に対して面白い回答というものができなくて歯痒い気持ちになることはある。

 

「好きな人もいない?」

 

こうじさんは本心を探るように私に畳み掛けてくる。私はゲイだが、嘘をつくのは苦手だ。誰だって本音で話したいに決まっているし、できれば嘘を減らして生きていきたいと思っている。私は自分が嘘をつくたびに心が傷つくのがわかっていたから、少しずつ周りの人にカミングアウトしてきたのだ。そして今日も、相変わらず私は嘘をつくのが下手だった。

 

私が返事に窮しているのを見て、Kは不敵な笑みを浮かべた。

 

「こいつ今いるって顔してますよ、こうじさん。」

「えー、誰?大学の子?」

 

私はもう、隠すことをやめて素直に話した。彼のこと、告白のこと、振られたこと、好きで好きでたまらないこと。2人は今までにない食いつきっぷりで私の話を聞いていた。

 

「確かに、あいつ身長高いしガタイ良いし、顔もまあまあだし、モテるよな。てか、あいつもそうなん?」

「顔も最高だよ。」

 

私はKの言ったことを即座に訂正した。Kは面食らったような顔をして私を見ていた。私は咄嗟にごめんと言いつつ、彼へのゲイ疑惑について話した。こうじさんは身を乗り出しながら私の話を聞いている。

 

「そんなに気になるなら、直接聞いてみなさいよ。連絡先、知ってるんでしょ?」

 

こうじさんがそう言うと、Kも一緒になって囃し立てた。確かに、私が最後に彼と話したのはもう1年以上前になる。とても会いたいし、今でも好きって気持ちを伝えたい。今すぐ声を聞きたいし、学校で無視してごめんって謝りたい。仲直りしたい。私のことどう思ってますかって、残酷なまでに問いただしたい。

 

私は、酔っていたのももちろんあるだろうし、Kとこうじさんという味方ができたのも大きかったと思う。その場で、彼への迷惑を考える余地は到底なかった。そもそも私は、自分の感情を抑えることができなくなっていた。

 

その場で彼に電話をかけた。しばらくコール音がなって、彼が出た。

 

「……もしもし。」

「あ、ごめん。久しぶり。ごめん騒がしくて。今Kと会ってるんだけどさ。」

「……Kと?あいつとそんな仲よかったっけ。」

「うん、最近仲よくて、度々遊んでる。本当、久しぶり。声聞けてよかった。」

 

私がそう言って黙りこくると、見ていられないと言った様子でKが電話をとった。

 

「あー、もしもし?あのさ、Kだけど。今飲んでるんだ、うん。んで、がみーがお前に会いたいって言ってるからさ、今からお前ん家行ってもいい?」

 

なんて不躾な言い方なんだろう。もっとこう、順序とか礼儀とか、色々あるだろう!私はそう思ったが、酒に酔ったKは無敵だ。グイグイ話しかけていくKを見て慌てて私はKから電話を奪い取り、謝った。

 

「ごめん、ほんとごめん急に。いやなんか2人で遊びに行きたいねとか話してて、ほんとノリで。」

「……家、そんな綺麗じゃないけど、来ていいよ。」

 

彼から予想外の返事が返ってきた。

 

「……行っていいの?」

「うん、片付けとくから。何時くらいになるかわかったら教えて。」

 

彼は電話を切った。私はしばし呆然としつつも、だんだんと嬉しさが込み上げてきた。彼の家にもう一度行けるのだ。そして、彼に会えるのだ。想像するだけで、眩暈がしそうだ。洗濯物の匂いやキッチンの上の調味料の数、外国の虎のキャラクターのポスターなど、彼の家のディティールが鮮明に甦ってきて私は高揚感に満たされる。

 

私とKはこうじさんに挨拶をし、会計を済ませ彼の家へ向かった。時刻は、22時頃。

 

彼の家に着く前に、私とKはコンビニに寄り、彼の分の酒とつまみを買った。今夜はもう彼の家で寝るつもりで、歯ブラシも買った。

 

彼の家は相変わらずカラフルな壁をしていた。自転車や車が止められる簡易駐車場があり、その奥に彼の部屋がある。私たちはチャイムを鳴らす。

 

ガチャリとドアが開いた。

 

「おっす。……どうぞ、汚いけど。」

 

彼はそう言って部屋の奥へ入っていった。私とKはお邪魔しますと言って靴を揃えた。彼の部屋は多少物は増えていたが、汚くなかった。むしろ健全な男子の部屋にしては小綺麗と言っていいくらいだった。部屋の奥へ入ると、彼はベッドの上に寝そべっていた。上にはシティポップな文字が書かれたトレーナー、下にはスポーツブランドのスウェット。いかにもラフな部屋着といった服装だ。机には先ほどまで食事をしていたのだろう、お茶が半分ほど入ったコップ。テレビはバラエティ番組が点いていて、ゲストの大げさな笑い声が部屋に小さく響いている。

 

Kは初めて彼の家にきた様子で辺りを見回しながらうろうろしている。彼の家は海外のドラマで見る子供部屋のような幼さがあるので、Kにはそれが珍しかったのだろう。本棚などをじっと見つめていた。私は机の近くにあるソファに腰掛けて座り、コンビニで買った袋の中身を取り出して机に広げる。おつまみと酒が無造作に置かれた。

 

その後、3人で乾杯をした。何を祝うわけでもないが、酒があればひとまず乾杯をするものだ。私とKはこうじさんの店でそこそこ飲んできていたが、彼の家に来るまでには酔いは粗方冷めていた。なので、また酒を喉に通す。

 

どんな話をしたのだろう。あまり覚えていないが、彼はもっぱら他専攻であるKが私と仲がいいことが不思議な様子であれこれ質問をしてきたように思う。Kはそれに対していつもの飄々とした調子で核心には触れず、返していた。相変わらず隠すのが上手な男だ。宙をつかむような素振りで、彼は私たちを見た。彼の純粋な瞳、屈託なく素直に育ったことがありありと見てとれる。羨ましい、その瞳が私だけのものになったらどんなに良いことか。その瞳に映す世界の中心に私がいたならば、どんなに幸せなことだろうか。

 

占有したい、愛したい、呪いたい、屈折した感情を思い切りぶつけて、甘えたい。

 

彼が一言発するたび、私の心臓はどくりと跳ねる。緊張からではない。本能で、彼を求めている。私には理性があるが、きっとKが居なかったら私は暴走して彼に理不尽な感情をぶつけていたに違いない。Kがいてよかった。Kが誘ってくれなかったら、今日この場は成り立っていないし、本当に感謝している。Kは面白半分で私の恋路を見届けたがっているのだろうが、私は真剣だ。振られて、傷つけて、それでもまだ好きな気持ちはどうしようもない。どうひっくり返っても、止めようがない真実だ。逆らえない波だ。机の上のお茶がそよめき立てる。彼が、おつまみを噛む音がする。笑い声、どこかよそよそしく感じる。秒針の音がやけに細かく聴こえてくる。

 

心臓の音がして、世界が止まってしまったかのように感じる。時刻は、深夜2時を過ぎた頃。

 

私は泣き出していた。どうしようもなく涙が溢れて止まらない。酒のせいだろうか、嗚咽と鼻水とよくわからない液体が顔をぐしゃぐしゃに濡らす。視界は滲んで微かに、彼が部屋の入り口に立っているのが見える。Kは……ベッドの上だ。寝そべって、死んだように俯いている。寝ているのだろうか、私はなぜ泣いているんだ、彼はなぜ、私をそんな可哀想な目で見るんだ。なぜ。

 

テレビはいつの間にか消えていて、部屋は静寂に包まれている。その中で、私が咽び泣く声だけが反響する。どうして、なんで涙止まらないんだ、せっかく彼に会えたのに、彼と話ができるのに、どうしてこんなにみっともない姿を晒しているんだ。

 

彼はおもむろに私の肩を掴む。私はよろめきながら喚く。君のことが好きだ、好きで好きでたまらない。付き合って欲しいなんて言わない、私のものになってほしいなんて顎がましい。ただ、せめて側にいて愛を伝えたい。この尖鋭な感情の矛先を、君と言う柔らかい心に突き刺して、傷付けたい。忘れ去られたくない。身勝手な感情だろう、全て、絶え間なく続いている血脈によって決まっているのだろう。私は愛している、君のことを。だから私の言葉で、行動で傷ついて1人で考え込んで欲しい。私の望みを叶えてあげられないことを悔やんで、憎んで欲しい。淡い春の風が吹いて、積乱雲が頭上はるか上までを貫くようにして聳えている。透き通るような川のぞっとするような温度に我に返って、流れる枯れ葉に目線を奪われて、絶景の冬を謳歌したい。爛々と時は過ぎて自然と、彼のことも頭の中を随分と支配することも無くなり、思い出が霞んだ笑いに変えられるようになっても、呪いたい。今が駄目なら、今が駄目でも、今こそ駄目なのなら、きっと20年後には、あなたのところに届くでしょう。きっと20年後なら、私たち分かり合えるのでしょう。今が駄目だとしても。

 

私は玄関で彼に向かって喚いていた。伝えようとすればするほど、言葉ではなく涙が自然と溢れてくる。こんなにも愛しいのに、彼の目は私を捉えていない。私をどうして良いのか分からない目だ。巨大な感情に支配されて、運命に翻弄されて、喚き散らしている子供を、他人を、どう扱えば良いかなんて誰にもわかるはずがない。私は空白の時間を彼に埋めてもらった。距離を、単位を、彼に定めてもらった。そのことが未だに理解できない。たかが人間にどうしてそんなことができるんだろう。学生が、20歳そこそこの年齢が、どうしてこんな化物を生み出せるのだろう。

 

アチェーンが掛けられる、私と彼との断絶の証。私は叫んだ。

 

「きっと20年後に、再会できるよ!その時はその時で、永遠に、分かり合えないとしても、20年後なら!」

 

彼の目はもう、私のことを蔑んですらいない。虚だ。無邪気だったはずの瞳には光がなく、ドアを閉めるときにそっと下唇を噛む彼は、とても寂しそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後Kから、あの後の話を聞いた。

 

彼は、ベッドで寝ているKに覆いかぶさったらしい。何も言わず、何も答えず、ただ蹲るようにして彼はKを抱きしめたのだと言う。

 

私はなんとなくその行為の意味がわかった。だがそれは言葉にすると解けてしまいそうなほど弱々しい何かで、口にするのは躊躇われた。

 

3年生の夏の終わり。蝉声がジリジリと鼓膜を突く。盛況に、学生たちの声がこだまする。煙を立ててトラックが走る。向こう側で手を繋いだ親子が横断歩道を渡っている。どうして私は彼にそこまで執着するのか。それは彼の存在が、不在の父に似ているからだと思う。私の空白の18年間を埋めてくれるほどの愛を、彼はあの5日間で私に与えてくれた、育ててくれた。

 

それはもはや神と言って良いのではないか、施しを受けた人間は、崇める、奉る、奉公する。それと似たような現象で私は恋に落ち、悩み苦しんだ挙句彼に告白した。彼を手に入れたいと思った。それは罪深い行為で、私ごときの人間がそんなこと許されるはずがないのだ。だから天罰が降ったのだと思う。

 

私はどうしても、彼との時間を穏やかに終わらせたくはないらしい。そのことはわかったが、こんなことを繰り返しても消耗するだけで、無意味だ。だが、彼に近づけば私は暴走してしまう。ならば、彼とはもう二度と同じ空間にいないことだ。徹底的に距離を置き、離反することだ。この恋はいつか時間が忘れさせてくれるのかもしれない、卒業が、就職が、孤独が終わらせるのかもしれない、けれどその時には自分が生きているかも分からない、自信がない。

 

虚に見据えた彼の瞳は、あの日、最後に何を映していたんだろう。何を思って彼はKを抱きしめたんだろう。その全ての答えを彼が教えてくれるとしても、私は聞きたくないと思ってしまうだろうし、彼の行為にそもそも意味なんてないのかもしれない。気の向くまま、動いているだけなのかもしれない。

 

人には自由意志があり、自然が定めた因果に争って選択し進む力があるとする考え方がある。私は、彼には意志が無いのではないかと思う瞬間がある。全て最善に、自明に生命の意図するままに意識なく動いているのではないか。そうでなければ私は彼の行動の原理が一生わからないままであろう。彼が選択し進んでいく道に私がいないのであれば、それは彼自身の選択ではなく自然が定めているものなのではないか。彼は自身にとって最大の幸福となるように、運命を汲み取っているのでは無いか。

 

だとしたら彼になりたいと思う。私のような存在を、突き離すのではなく受容する優しさ、人を愛することの学びを持っている。それは私には無いもので、途方もなく尊いものだから。