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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 15

土曜日。私はボンちゃんとの約束通り、20時にお店に着くように向かった。大学近くの下宿から、徒歩30分で着く繁華街。途中坂道があるので帰りは少し辛いが、徒歩で向かわなければ行けないのは冬のシーズンだけだろう。雪が無くなれば自転車を使えるので、慣れれば15分掛からずに到着できる。初めてのバーでの勤務と言うこともあって緊張はそれなりにしていたが、それよりも楽しみが上回った。また仕事が見つかった。バイトさえしていれば母に文句を言われることもない。収入ができれば物も買えるだろうし、少しはマシな生活ができる。私は久々に始まるバイト生活をきっかけに、負のループからの脱却を図っていた。

 

遅刻魔だった私だが、時間に遅れることはなかった。エレベーターに乗り、白い大きな扉を開けると、聴き覚えのある鈴の音が鳴った。

 

「おはよう〜。」

 

店の奥からボンちゃんの声がした。夜だが、この店での挨拶はこれなのか。少し訛りがある、柔らかい話し方。私も合わせるようにして挨拶を返した。

 

ボンちゃんはカウンターに灰皿を置いて、1人でタバコを吸っていた。まだ営業時間前だからだろうか。店内には客は誰もいない。私は自分の着ているコートをしまうため、戸棚を開けた。ムッと鼻をつく、ヤニの匂い。

 

「そこに制服あるでしょ。それ着てこっちおいで。」

 

私はボンちゃんに言われるがまま戸棚の中を覗いた。横には黒いベストとパンツ、白いカッターシャツが準備されていた。手早くそれらに着替える。前回来た時にも思ったが、この戸棚に衣服を掛けると全部がヤニ臭くなるのだ。私はタバコの匂いが嫌いなわけではないが、自分は吸わないので服に匂いがつくのは少し嫌だった。だがここで働く以上、我慢するしかない。

 

着替えた私は、戸棚の左側に取り付けてある全身鏡で自身をチェックした。洋服のヨレがあれば直す。見た目はかなりマシになった。やはりカッターシャツにベストという組み合わせはホテルなどでも見かけるが、かしこまった雰囲気を醸し出すようだ。あとは表情。げっそりとした顔にならないように、口角を少し上げて微笑む。ピンと跳ねた寝癖を整える。

 

準備ができたらボンちゃんの近くに向かった。私はボンちゃんから手渡されたクロス拭きを使って、カウンターとテーブル席を拭く。椅子の位置を調節する。

 

カラオケの待機画面の甲高いナレーターの声が小さく響く。店内の照明が、ぼうっと私たちを包み込んでいる。

 

からん、と音が鳴った。

 

「いらっしゃいませー!」

 

私はボンちゃんより先に声を出した。ドアを開けて出てきたのは、グレーのコートを羽織った私と同い年くらいの青年だった。

 

「ボンちゃん、遅くなっちゃってごめん。すぐ準備するね。」

「フミヤ、おはよう〜。」

 

フミヤと呼ばれた青年は、慣れた手つきでコートを戸棚に掛けた。コートの下は、なんと私と全く同じ制服だった。それでわかった、今日はこのフミヤという青年と一緒に店に入るのだ。

 

聞いてない。同期がいるのかよ。私は狼狽えながらもフミヤに挨拶をした。

 

「初めまして、今日お試しでお店に入ることになったがみです。よろしくお願いします。」

「あ、こちらこそ。フミヤです。よろしくお願いしますー」

 

軽快な挨拶が帰ってきてホッとした。フミヤは顔立ちが幼く、背丈は私と同じくらい。見た目からは威圧感がそんなに感じられない好青年という様子だったが、中身も同様のようだった。

 

「フミヤは20歳だから、がみと一緒よ。少し先輩だけど、仲良くしてね。」

 

ボンちゃんがそう言った。同い年なら尚のこと、安心感がある。困った時にはフミヤに頼ろう、そう思った。

 

店内の時計が20時を指した頃、また入口の鈴がなった。入ってきたのは見覚えのある茶髪の顔、あれは確か……。

 

「おはよう〜皆さん〜。あ、ボンちゃんおはよう〜。」

「タク、おはよう。アンタはあっちの奥の方座って。」

 

ああそうだ、タクさんだ。あの独特の、しゃがれた声は印象に残る。タクさんは今日も派手なストールを巻いて豹柄の服を着ていた。地肌は浅黒く、日サロで焼いているのだろうか、冬だと季節感が曖昧になる。タクさんはカウンターの奥から一つ手前の席に座った。ボンちゃんがコースターと灰皿をその前に置く。私は遠くからその様子を見ていた。

 

「がみ、挨拶してきな。」

 

ボンちゃんは私にそう呟いた。慌ててタクさんのいるカウンターの奥に向かう。

 

「こんばんは。この前お会いしましたよね、がみといいます。今日は店員側で、お試しで入ることになりました。」

「あ〜、がみちゃん。がみちゃんね、うん。あたしタクって呼ばれてるから、気軽に呼んでくれていいよ。よろしく。」

「よろしくお願いします。あ、お酒何にします?」

 

私は彼にメニュー表を見せた。すると彼はニヤリと笑って、生ビールを指さした。生ビールですねと呟いて、ボンちゃんの方に駆け寄った。注文取ったはいいが、この後どうすればいいのか分からなかったからだ。

 

「まず小皿二つ用意する。こっちの青いのがこの棚に入ってて白いのはこっちね。そんで、冷蔵庫の中にタッパーがあるから青い皿の方に中身を盛り付ける。いい?そんで、柿ピーが下の棚に入ってるから、白い皿に盛って、出す。そこまで終わったら声かけて。」

 

ボンちゃんは小声で素早く私に指示を出す。私は、わかりましたといい言われた通りにお通しを作る。作り終わったら、ボンちゃんに報告する。

 

「そしたらおしぼりがここにあるから、お箸と一緒にこれも出す。出すときは、前から失礼しますって言うんだよ。あ、その前に、最初に来たときは灰皿とコースターも出すんだけど、それはあたしがやっちゃったから次お客さん来たらやろうね。とりあえずはい。出してきな。」

 

私はおしぼりとお箸を持って、タクさんに目配せをした。

 

「前から失礼します。」

 

そう言って、カウンター越しにお箸とおしぼりを渡す。タクさんはじっと携帯を見ながら、なにか文字を打っている。素早い指の動きが気になりながらも、小皿にもりつけたお通しをタクさんの前に差し出す。タクさんは首を少し振り、柿ピーを一口摘んだ。ボンちゃんがこちら側に寄ってくる。

 

「そしたらビールね。ここに伝票があるから、お客さんの名前書いて、ビールに正の字の一画目を書く。OK?そしたら作り方だけど、やったことは無い?」

「無いです。」

「そしたら手本見せるから見てて。こうやって手前に引くとビール、奥に倒すと泡が出てくるから。大体7:3になるようにまずビールから出して、最後に泡ね。……こんな感じ。」

 

ボンちゃんの手元には、見事に7:3に分かれたビールが出来上がっていた。長年使ってきたのだろう、手慣れており教え方も上手だ。

 

「あとビアグラスは出したら必ず冷蔵庫にしまう。その棚に入ってるから、同じようにやってみて。」

 

冷蔵庫の中を覗くと、逆さまになったビアグラスがいくつか入っていた。同じようにグラスを1つしまう。冷蔵庫を閉めると、ボンちゃんは既にタクさんにビールを出しながら言った。

 

「はいどうぞ〜。私も一杯飲もうかしら。」

「アンタ早速飲むわけ?いいけど、ベロベロになんないでよ。アンタが酔っ払うと大変なのはこっちなんだから。」

「分かってるわよ。ここは私の店よ?好きにさせて頂戴。」

「まったく……ねえ、ちょっとフミヤとがみ。アンタらも飲みなさいよ。私が奢るから。」

 

ボンちゃんが、あんたたち良かったわねという顔でこちらを見ている。フミヤが声を出した。

 

「そしたら、同じの一杯頂きます。」

「あ、僕も同じの、頂きます。」

 

フミヤに合わせて声を出す。伝票に正の字を付け加えてから、私は自分のビアグラスを取り出した。ボンちゃんに言われた通りに真似してみる。黄色い液体が、グラスに注がれる。7分目くらいまできたら、今度はレバーを奥に傾ける。しゅわーっと良い音がしながら、白い泡が蛇口から垂れるように出てくる。溢れないように気をつけながら、グラスいっぱいまで注ぐ。

 

出来上がった生ビールはひんやりと冷たく、ビール越しに見る景色は横長に引き伸ばされて人の顔を歪めている。白い泡が、それを隠すように覆うと、今日今立っているこの場所がなんだか不思議な場所に思えてくる。ついこの間初めて来たばかりなのに、なぜか懐かしい感覚がしていた。

 

「それじゃあ、乾杯ー!」

 

私は持っているグラスをタクさんのグラスに近づけた。からんと、空中に響く音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええ、17歳なんですか?!」

 

私は素っ頓狂な声を上げた。タクさんは、シーっと言いながら人差し指を口の前に立てた。

 

「あんまり大きな声では言えないから、ここでは24歳ってことにしてるの。」

 

照れるようにそういうタクさんだったが、私は信じられなかった。タクさんの見た目はどう若く見繕っても20代後半のようにしか見えなかったからだ。まさか、私より一回り年下だなんて。ん、ということは、まだ高校生なのか。

 

茶髪にロングの髪。ワックスで整えられたその分け目からは透明に光るリングが見えた。ピアスも開いているのだ。これで高校生って、私の高校時代とは雲泥の差だ。ちゃんと学校には行ってるのだろうか。

 

怖くて聞けなかったが、タクさんの話す様子から、学校には行ってないことがわかった。タクさんは繁華街の近くに家を借りており、そこに1人で住んでいるのだと言う。別の市に住む両親とは疎遠なようで、話す時に苦虫を噛み潰したような顔をするので、わかりやすく親子の縁を絶っているのが伝わってきた。

 

「私の話なんていいから。アンタたち、なんか話しなさいよ。」

 

タクさんは照れ臭そうに私とフミヤを指さした。タクさんの手に持つタバコが燻って、煙を登らせる。すると、フミヤが口を開いた。

 

「はい!俺とがみくんは同い年で、どちらも大学生です。がみくんは美大に通ってて、すごいですよね。自分はほんと、名前だけ書いて受かった大学なんで、恥ずかしいです。」

 

フミヤは自分を下げて、私を持ち上げた。こう言う雰囲気は苦手なのだ。確かに私は努力して大学に入ったが、それは私にたまたま絵の適性があったからで、勉強は一切出来なかった。もし勉強の方で大学を受けてたら、私も彼と同じようになっていただろうし、なにより彼が私と比較して自分の人生を恥じる必要が全くない。

 

「いえ、僕はほんと、たまたま受かったっていうか、全然そんなのじゃないですよ。美大って入ってみるとほんと可笑しな人たちばっかりでそんな尊敬されるようなところじゃないし。」

 

精一杯の謙遜をした。私はこういうとき人の顔を見れなくなる。自分が注目されていたり、尊敬されていたりするとなんだか恥ずかしくなって、その敬意を踏みにじるような発言をしてしまうのだ。急に喉が渇き、ビールを口に運ぶ。一口飲んで落ち着くと、タクさんの顔を見た。タクさんはニヤリと笑ってこちらを見つめていた。

 

ふいに、入り口の鈴が鳴った。

 

「いらっしゃいませー!」

 

私とボンちゃんとフミヤは揃って入り口の方に移動した。見ると、ヒロポンが立っていた。

 

「ボンちゃん〜来たわよ〜。あら、若いお二人もどうも〜。がみちゃん、初めての入店はどう?緊張してる?」

 

ヒロポンは私の方を見て言った。

 

「いえ、緊張はそんなに。ボンちゃんが優しく教えてくれてるので大丈夫です。」

「そう、それなら良かった。」

 

私はヒロポン上着を預かり戸棚に掛けた。ヒロポンはタクさんに目配せをして一礼し、いつものカウンターの一番右端に腰掛けた。

 

「後でヒロトも来るって言ってたから。たぶん30分くらい。」

 

また知らない人の名前だ。ゲイの世界では皆があだ名で呼び合うので、似たり寄ったりな名前になることが多い。ゲイアプリでも、時々誰が誰だかわからなくなる。私は人の名前を覚えるのが苦手なのだ。

 

私はボンちゃんに教えてもらった通り、灰皿とコースターをヒロポンの前に差し出した。ヒロポンはタバコをポケットから取り出し、吸い始める。

 

「お通しは?」

 

ボンちゃんがそう聞くと、ヒロポンは手を顔の前で振った。

 

「さっきいっぱい食べてきたの。要らないわ。」

 

なるほど、常連さんにはお通しを出さないこともあるのか。私はボンちゃんが戸棚からヒロポン鏡月を出すのを黙って見ていた。常連さんのボトルはあの棚から取り出すのだ。

 

ボンちゃんが、ヒロポン鏡月を手元に置くと、目配せをした。どうやら作ってみろと言うらしい。私はグラスを探した。これですか?とボンちゃんに尋ね、ボンちゃんが頷くと私は冷凍庫の中から手頃な大きさの氷を取り出し、グラスの中に入れた。1つ、2つ、3つ……。グラスが満杯になると、ボンちゃんはヒロポンに尋ねた。

 

「飲み方は?」

 

ヒロポンは、いつもので。と呟く。するとボンちゃんは冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出した。

 

ヒロポンは薄めが好きなの。作ってあげて。」

 

薄めってどれくらいだ。分からなかったが、先週ボンちゃんが作ってくれた水割りを思い出しながら鏡月をグラスに注ぐ。パキパキと氷が水に浸かる音がする。少し注いで、その後水を入れる。するとボンちゃんがマドラーの場所を指差した。私はそれを取ると、グラスに入れてかき混ぜた。

 

これでいいのだろうか。恐る恐るヒロポンに水割りを渡すと、ヒロポンはありがと。といいグラスに口をつけた。何も言わない。

 

ひとまず、濃くなかったのであれば良しとしよう。ボンちゃんが言うに、ボトルはキープする時にその一本分の値段を会計するので、キープボトルからお酒を出したときは伝票にはなにも付けなくていいそうだ。覚えたことをメモしようかとも思ったが、メモ書きになるようなものを持ってきていなかったので、心の中で復唱する。

 

ふいに、ヒロポンが言った。

 

「それで、がみちゃんは結局ゲイなの?」

 

フミヤとタクさんもこちらを見た。今更何を言っているんだろう。私とヒロポンはゲイアプリで出会っている、ゲイじゃないわけないじゃないか。そう思ったが口には出さずに、答えた。

 

「ゲイですよ。」

「え、いつから?」

 

タクさんが口を挟んだ。

 

「いつからだろう。初めて男の子を好きになったのは中学の時でした。同じ部活の子を好きになって、告白とかはしなかったんですけどね。そこから、高校生まで特に何もなくて、アプリを始めたのもほんと最近です。」

「へぇー、じゃあまだデビューしたばっかってことなんだ。」

「そうですね。まだこっちの世界のこと全然詳しくないです。」

「ふーん。がみちゃん、ホゲてないからぱっと見どっちかわかんないんだよね。」

 

ホゲってなんだ。そう思ったが、会話の流れでそのことがオネエの人の仕草を表すことはなんとなくわかった。ヒロポンは身を乗り出して言った。

 

「ノンケっぽいってやつ?」

「やだー超かわいい。」

 

タクさんが口に両手を当てながら返す。ノンケっぽいと呼ばれることは不思議と悪い気持ちはしなかった。ゲイの世界に染まっていない、初々しい子が人気なのは何となく知ってたからだ。

 

「そうそう、フミヤはノンケよ。この子なんかは見た目少年っぽいからゲイに受けそうなのに、勿体無いわよね。アンタ、さっさとこっちの世界に入りなさいよ。」

「えー、ボンちゃん!それは無理だよ〜。」

「アンタ、一回くらい男とやってみ?案外、出来ちゃうから。」

「まじかー俺は女の子がいいのに……。」

 

フミヤはそう言って苦笑いをした。私は彼のことを勝手にゲイなのだと思い込んでいた。同時に、ノンケなのにゲイバーで働けることを尊敬していた。自分が女の子の店で働くようなものか。セクシュアリティが混ざり合う非日常の空間に、私の気分は昂っていた。こんな風に自分を偽ることなく話せる空間は珍しい。いつも学校では自分のことを紹介するときに嘘を織り交ぜていた。好きでもない女優の名前を出したり、彼女がいたことを免罪符にしたり、本当は処女を喪失しているのに、童貞のことだと言い換えたり。そうやって、少しずつバレないように嘘を盛り込んでいた。

 

嘘は麻酔のように私の罪悪感を麻痺させる。少量の毒を飲み、耐性をつけるように私は嘘が上手くなった。しかし、毒は毒だ。使い方に気をつけないと自分が辛い思いをする。私は嘘をつくたびに、ちくりと自分の胸が痛むのをずっと無視し続けていた。本心を隠して、偽りの自分を演じてきた。それが耐えきれなくなって爆発して、美術部で喧嘩をしたり、彼に告白したり、母にカミングアウトしたりしてきた。体がもう限界だと言っているのだ。嘘をつかなくて済む空間を、ずっと私は求めていたのかもしれない。私は何の気兼ねもなくゲイだと言える今この居場所が、とても貴重なものだと言うことをよく理解していた。

 

「ノンケなのに、どうしてゲイバーで働こうと思ったんですか?」

 

私はフミヤに質問をした。彼は、笑って答えた。

 

「ボンちゃんに声かけられて、今までずっとバーで働いてたしちょうどいいかなと思って。」

 

そんな、軽い気持ちで働けるんだ。私はフミヤのように明るく働けない。仕事が怖くて仕方なくて、自分みたいな奴が働いても迷惑かけない場所をずっと探し求めていた。消極的に立ち回って、居場所を欲しがるくせに消去法で、できないを積み重ねてきた。フミヤは、勉強はあまり出来ないのだろうが、働くことに関しては少なくとも私よりも優れた何かを持っているように思えた。ボンちゃんは、照れ臭そうに笑うフミヤを見て言った。

 

「そうよーあたしが見初めてあげたの。感謝しなさいよ。あとねがみちゃん。ここはゲイバーでもあるけど、ミックスバーだからね。普通にノンケのお客さんも来るわよ。」

 

そうなのか、初めて知った。聞けば、ゲイしか入れない女性入店禁止の店もあれば、セクシュアリティ問わず誰でも入れる店もありで分かれていて、この店は後者になるらしい。客の半数近くはノンケなのだそうだ。

 

「それよりがみくん、タメなんだから敬語は無しでいいよ。」

 

フミヤはそう言って、私の肩を叩いた。私も笑って、そうだねと返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局その日は、ヒロトさんと言う小太りのゲイのおじさんと、オオイエさんという眼鏡のゲイの男性、それからノンケのお客さんが数組入った。私は不慣れながらもお客さんに挨拶して周り、席についてお酒をもらい話をした。なにげない会話の中に逐一下ネタが挟まってはきたものの、私はまだ新人ということでそこまでのイジリもなく穏便に扱われた。時刻は朝の5時くらいを迎え、客も常連さんしかいなくなった頃、ようやくその日の勤務が終わった。私は少し酔っていたが、問題なく帰宅できそうだったのでそのまま徒歩で家まで帰った。その後ボンちゃんからLINEが来た。

 

「来週もよろしくね。」

 

私は嬉しくなってすぐに返事をした。

 

「はい、よろしくお願いします。」

 

その後は毎週お店に入った。店員とは言っても覚えることは少なく、お酒の種類こそあるが、カクテルを頼むようなお客さんはほとんどいなかった。そのため、お通しの準備をしたらボトルからお酒を作るか、ウイスキーをロックグラスに注ぐか、生ビールをビアグラスに注ぐくらいで後は席について話すのがメインだった。私はどうやら知らない人と話すのが苦ではない方で、大学のことや地元のこと、セクシュアリティのことなどを話してその場を盛り上げた。途中、おしぼりを変えたりお酒が減ってきたら作るのを忘れずに。

 

働いている中でこれといって怒られることはなかった。むしろ、真面目に働いていることを評価された。中には美大生というだけで手を握ってくるお客さんもいた。この地域では美大は一流の大学として扱われているようだった。もちろん謙遜はするが、それをされて悪い気はしない。美大生という肩書きは、自己紹介するのにちょうど良いブランドだった。

 

その日も、いつものように朝5時近くになって最後の皿洗いとゴミ袋をまとめているところだった。ボンちゃんが言った。

 

「この後タクの家に行くけど、がみちゃんも来る?」

 

私は二つ返事でOKした。どうせ明日は日曜でやることがない。ボンちゃんやタクさんにも苦手意識は持っていないし、なによりバイトを始めてから生活が充実しているのを感じて嬉しく思っていたところだったからだ。

 

タクさんの家は、バーから歩いて20分くらいのところにある小さなアパートだった。部屋に入ると、衣服やショッピング袋で散らかっていて、足の踏み場に困る状態だった。面食らいながらも、部屋の奥に進む。

 

タクさんはずいぶん酔っ払っていて、時折喉を鳴らしながら、倒れ込むようにしてベッドの上に寝っ転がった。

 

「あ〜ん。男ってなんですぐ逃げていくのかしら。」

 

タクさんは酒焼けした声で言った。振られでもしたのだろうか。わかる、わかるよ。私も振られたとき、物凄く悲しかったから。おんなじ気持ちだよ。そう思って、私はベッドに腰掛けた。ボンちゃんは床に毛布を敷いて、その上に寝るようだった。

 

部屋の明かりが落とされる。もう朝に近い時間だったので、小鳥の囀りが窓の外から聴こえる。薄明かりがカーテンの隙間から漏れて、部屋は淡いブルーに染まっていた。

 

「アタシなんて、どうせロクでもないオカマですよ。もう、嫌になる。全部、あーあ。」

 

横でぶつぶつと、こちらに背を向けながら呟いている。タクさんは情緒不安定な様子で、ときおりLINEのタイムラインにリストカットオーバードーズを仄めかす文章を投稿していた。それに多くの励ましのリプライがついて、長いログが立っていくのだ。

 

タクさんのことはよく知らないけど、まだ17歳で親とも疎遠で、夜の仕事やってたらそりゃあ不安にもなるよなあ。私はそう思って、隣に寝ているタクさんに励ましの一言を送った。

 

「大丈夫、そんな日もあるよ。」

 

なんてことのない、生肌を摩るような言葉。彼にとってそれが励ましになるかは分からなかったが、なにも言葉をかけないよりはマシだろうと、そんな気持ちで言った言葉だった。

 

するとタクさんは、くるりとこちらを向いて私の首元を舐めた。

 

「あーん。がみちゃんは優しいね。ありがとう、好き。好き。好き。好き。」

 

首に温かい塊が触れる。鎖骨の方から、耳元までを登るように、舌が這いずり回る。私は驚きと恐怖で身動きが取れなかった。この人は、なにをやっているんだろう。私のことが好き?本当なのか。

 

ボンちゃんはすぐそばにいるが、なにも反応はない。寝ているのか、聞いているが無視しているのか、どっちなんだ。

 

タクさんはそのまま、私の衣服の中に手を入れてきた。私は反射的に、その手を振り払った。タクさんの手は行き場を失い、そろそろと彼の背中の方へと戻っていった。

 

私の首を舐める舌が、頬を伝って唇の方に伸びてくる。私は、耐えきれなくなってベッドから降りた。

 

タクさんは、泣いていた。目を真っ赤に腫らしながら、こちらを潤んだ瞳で覗いていた。黒い瞳孔に映る、私の顔。引き攣るように口角が下がっている。怒っているのだろうか、いや、動揺しているだけだ。この人はただ、酔った勢いで誰でもいいから温もりが欲しかっただけだ。

 

私はそのまま洗面所に行き、舐められた首元を洗い流した。冷水が垂れて胸元を濡らす。その冷たさに正気に戻る。私は今、嫌悪を感じている。好きでもない人に舐められて、ショックを受けている。

 

そのまま無言で部屋を出た。タクさんは最後までベッドの上で呻いていたが、なにも聞こえないふりをして玄関を出る。繁華街まで必死に歩く。日曜の朝、辺りは白く照らされている。電柱にはカラスが何匹か、鳴き声を上げてゴミ袋に狙いを定めている。カラスの瞳がこちらを覗く。さっきのタクさんの目と同じ、真っ黒い動物のような瞳。背中に猛烈な悪寒が走る。私はたった今、レイプされた。同意の無い性行為、理由のない暴力と同じだ。突然現れて、なす術もなく蹂躙される。自分の首元を触る。まだ、あのざらりとした舌の感触が残っている。私は、なんてことをしてしまったのだろう。

 

彼もあの時、同じ気持ちだったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後は帰宅して、あの時の記憶をなかったかのようにして振る舞った。タクさんはその後も何にも変わらずにお店に出てきていた。私も普通に話すが、お互いにあの夜のことは触れないでおいた。

 

2年の冬が終わり、3年に上がる頃。就活の足音が聞こえてくる中、私は苦しんでいた。課題が本格的に就活を捉えたものに変わる。課題をこなすたびに、私は行き場の無い途方もない気持ちに苛まれた。真っ黒い闇に心が覆われる。ゲイバーという居場所を見つけても尚、私は叫びたがっていた。使命感を持って生きることと、折り合いのつかない自分自身との狭間で揺れ動く。魂を削りながら生きている感覚がある。それは、私の心身を蝕み、苦しめている焦燥感の正体なのだろう。私は一体何者なのだ。どこからきて、何を成さねばならないのか。

 

彼との思いにもまだ決着はついていない。切迫した思いが連なり、枷となる。母との関係、父の不在。そして、クラスメイトに本当のことを打ち明ける日がやってくることを、私はどこかで予見していたのかもしれない。

 

魂が剥離する。羽虫が飛ぶように思考が捻転する。うるさい、うるさい。近寄るな、私を放っておいてくれ。

 

ざわめきの中で呻く。居場所を求めて吠える獣。破壊的な衝動が私の喉元から肉を食いちぎって、寂しさとなって膨張する。その欠落が、私は何より愛おしいと思うのだ。完璧であると思えるのだ。私から剥がれ落ちた、魂の片割れ。それを探して飢える、慟哭する、衝突する、抱擁する。慰み者の唄。

 

薄明かりの元で、宿る寂しさを片手に、徘徊する化物。それが私だった。悲劇は、まだ終わらない。数多の蝙蝠が大きな波を作るように、私は運命という名の巨大な掌から逃れられないのだ。

 

咽び泣くようにして、作品を作る。その日々の中で私は、段々と自分の身体が思うように動かなくなっていくのを感じた。頭で命令しても、身体が言うことを聞かないのだ。気ばかりが焦って、前が見えなくなっていく。不穏な空気に支配される。私を取り巻く環境は一変していく。

 

私は、次の課題で一度死ぬことになる。もっとも、それまでの私の生活は遠回しに自殺していたようなものだった。だが、今回は違う。一度、完全に自分の魂を殺してみたいのだ。そうしなければ、前に進めない気がしたから。

 

明日が真っ黒く塗り潰されるような、そんな夢を見る。私は、私は。