がみにっき

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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 20

「家族の話をしよう。」

 

雑多な室内。机上には薄紅、白、黄の花が描かれた小鉢が並び、茶びた牛肉、豆腐、枝豆を乗せてこじんまりと並んでいる。手元には透明なジョッキにたっぷりのビールが注がれており、その泡は時間が経っているせいか萎んでほとんど見えなくなっている。わずかに残滓が口縁から滴り、ぐったりとした様子で小金色の表面を白く覆っている。この泡の一つ一つに、口を薄く開いて目を四角く硬らせ、真っ黒な瞳を覗かせている無表情な私が映っている。真顔に見えるが、心の底には憎悪を隠しているような気味悪さがあり、暗く沈んだ瞳の奥には恐ろしい怪物が潜んでいて、私を丸ごと飲み込んでしまいそうな、そんな気迫に満ちていた。正面には男が座っており、その隣には母が、神妙な面持ちでこちらを見つめている。男はしばらく酒のグラスを見つめて言った。

 

「家族の話って?」

 

剥き出された神経に素手で触るような、無頓着な態度。内臓が透けて見えるようだ。男の声色は少し笑っており、この場この瞬間の地鳴りのような響きとせめぎ合うようにして私に苛立ちをもたらす。下衆な野郎だなと、掴み掛かりたくなる感情を抑えて言った。

 

「お前は、おれのお父さんになるの?」

 

私の声は低い天井に反響して、やがて雑音にかき消されて聞こえなくなった。部屋の外では居酒屋特有のお客さんの笑い声やTVの音、店主の掛け声などがざわめく中、私たちが座る空間は静かに歪んでいた。真空に顔を突っ込んだような異質感。音はしているのに、何も聞こえていない。心を遠巻きに煙るように鼓膜からするりと抜け去っていく。その音と一緒に、魂まで抜け落ちてしまったのではないかと思うくらいの静寂さに包まれて、こつんと、落花生が頭を小突いた。

 

「そうだなあ、そういうことになるなあ。」

 

男は斜め上を向きながら、自らが発した言葉に頷くようにしてそう答えた。あくまで責任の所在は自分にはないとでも言いたげな、偶然居合わせてしまったから仕方なく、成り行きに身を任せていますと言わんばかりの図々しさ。骨まで空洞なのだろうか。私には理解不能な図太さはある意味羨ましいが、今日という日を迎えた私たちにとってそれは試合開始のゴングであると同時に、戦争の火蓋が切って落とされたも同然だった。

 

「なに笑ってんだよ、"お父さん"。」

 

自分で言っておいて自分で、奇妙な言葉だと思う。『お父さん』、言い慣れてないからだろうか。それとも、この男にその言葉を使うことによほど抵抗があるのだろうか。言葉は朧げに私の虚をつき、儚く散った。

 

糸のような目をこちらに向けて、男は押し黙っている。口元には先程の笑みは消え、眉をぴくりとも動かさないで無言の圧力を加えてくる。獰猛な雄が、獲物を前に神経を尖らせているときの目つきだ。先程までの羞恥心の欠片も感じさせないあけすけな態度は、私を見くびっていたのだろうし、油断させてからしめしめと母を独り占めするつもりだったのだろう。どちらにしても不愉快だし、無礼極まりない。この男が母と結婚して、私のお父さんになると思うと虫唾が走る。ジョッキを持つ手に力を込めて、喉を鳴らして一口飲む。ほろ苦い青春の味は、体内を駆け巡る嵐のような感情に絆されて溝の底の味がした。

 

私は、この男を許せない。

 

「もう少し、マシな男見つけられなかったの。こんな不潔なだらしのない体つきで冴えない中年太りのおっさん連れてきて、はい今からあなたのお父さんですだなんて、受け入れられるわけないよね。もっと他にいなかったの、この哀れで見窄らしい生き物に愛を注いであげられるほど、おれ惨めじゃないよ。隣にいて悲しくならないの。それとも、そんな感覚ももう麻痺した?いい歳して独身で、生活苦から伴侶探すのもわかるけど、どうしてかなあ。なんでこんなのに付き纏われて平気なのかなあ。人格疑っちゃうよね。いい加減、自分の価値を自分でわかったらどうなの。もう若い頃の値打ちは無いんだよ、だからこんな男に捕まるの。失敗ばかりの人生でさぞ悔しいだろうね。毎回こんな見事に駄々滑りされていらっしゃるから、びっくりしちゃうよ。それで、こいつ以外のもっとマシな男いないの?」

 

そう言われた母の表情は怯み、私の視線から逃げるように目を伏せた。弱々しい。普段なら言い返してくる母が、男の隣に座っているというだけでこうもか弱く惨めなものに成り下がってしまうなんて。見ていて悲しくなった、それもこれも全て、この男のせいだ。

 

「何か言ったらどうなの、手塩にかけて育ててきた長男が、親に向かってこんなこと言ってるのに、言い返すこともできないの。できないよね、だってその通りだもの。おれは可哀想だよ、こんな家族を持って心底不幸だと思う。でもおれは強いから、孤独に耐えられるから、1人で涙を流せるから、影と友達になれるから、だから大丈夫だよ。こんな男がお父さんにならなくてもやっていける、その覚悟はあるよ。だから心配することなく、早く死ねよこのクソジジイ。」

 

私の手が男の手元にある皿に伸び、掴んだ。びりびりと皮膚を突き破って黒い狂気が顔を覗かせる。引き攣るような笑みを浮かべて精一杯、目の前の男に微笑みかける。男は何も言わず、目線も逸らさずただこちらを見ている。その表情は空虚で、今までの人生できっと何も積み上げることができなかったであろう男の侘しい人生が語られているかのような顔だった。

 

掴んだ皿がカタカタと音を立てる。

 

「そんな怖い顔するなよ、りゅうのすけ。」

 

男は言った。その口元を鋏で断つよりも、キスしてあげた方が効果的だろうけど、そんなことはしてあげない。私の魂は私だけのものだ、それを分からせてやりたい。言葉ではなく実感として、肌の部分で理解させてやりたい。私はできる限り穏やかな口調で、男に問いかけた。

 

「どうしても我慢できそうにない。ごめんけど、殴っていい?」

 

男は数秒考えてから言った。

 

「いいぞ。」

 

お前の気が済むなら……と男が言いかける前に、私の拳は男の頬に触れていた。鈍い音に骨が当たる感触。腕を思い切り伸ばして、思い切り殴ると男の左頬は抉られるように変形した。横で母が息を飲むのが見える。その場の空気が震え、振動は机に広がり小鉢がガタリと音を立てる。人生で初めて、誰かを殴った。

 

何秒たっただろう。しんと静まり返った室内、壁に飾ってある酒の瓶が不気味に、こちらに笑いかけてくるような、時間が何倍にも引き伸ばされていく錯覚。呼吸を止めて、人肌の温度を拳で感じる。そうして私の腕から力が抜けていくと、男は苦虫を噛み潰したような顔で言った。

 

「いてーよ。りゅうのすけぇ、本気で殴っただろ。」

 

そう吐き捨てるようにいうと、男は私の腕に手を重ねた。本気の力で殴ったが、予想以上にダメージを与えられていないようだ。少なくとも平気で話せるくらいの威力しかなかった。やはり、力ではこいつに敵わない。それはわかっていたが、人を殴るのにもコツがあるようだった。適当に殴ると骨が当たって込めた力の分だけ反動が、手に返ってくる。正直、かなり痛い。

 

「人殴ると痛いだろ。な?だからもう……。」

「うるせえよ。」

 

男が宥めようとしてきたが、無視して私は男との距離を詰めた。立ち上がった衝撃でジョッキが倒れ、机にビールが流れ床を濡らしていく。怯える母に一瞥もくれず、目の前の敵に集中する。男も立ち上がり、私を分からせようと何か口走っているようだが、どうでもよかった。なにもかも、どうでもいい。男の喉に両手を掛け、思い切り力を込めた。

 

「死、ね。」

 

ギリギリと指の骨が軋み、男を壁に押し付ける。男が抵抗して腕を掴むも、私の手はもう、意志とは無関係に動いている。だらしなく口を開けて悶える男の顔は膨らみ、紅潮して深海魚を陸に上げた時のように膨張していた。このまま握り潰したい、この男が息の根を止めるまで、ありったけの憎悪を込めて絞め落としたい。

 

1秒、2秒……どれくらいの時間そうしていたかは分からない。男は最初こそ抵抗するそぶりを見せていたが、そのうち全身から力が抜けていくのを感じた。殺せる、と思った。

 

束の間、男の腕に力が入ると、男は私の腕を持ち上げて重心を乗せた右足を私の足に絡ませ、柔道の小内刈りのように私の足を払って、強い力で押し倒した。倒れ込んだ拍子にテーブルが強く揺れ、上に乗った小鉢やジョッキが畳の上に転がる。天井に点いた明かりがジリジリと明滅する。男は私の上に馬乗りになるような姿勢で、私の腕と首を固定していた。

 

背の低い男だったが、喧嘩の心得でもあるのだろうか、いざ組み伏されると抵抗しても全く動けなかった。本気の力を込めても男の腕がびくともしないのだ。猛獣の前でなすすべがないヒトのか弱さと、近いものを感じる。ああ、成人男性が身の危険を感じるとこうも暴力じみた表情を見せるのだな。

 

「いい加減にしろ。」

 

男は私に忠告する。これ以上やるなら俺も本気を出す、お前なんか苦労もなく捻り潰せるとでも言いたげな、男の座った目線の奥に内なる自信を感じ、辟易した。お前はおれがなぜ怒っているかわかってるのか、おれがなぜお前とこうして話しているかわかっているのか、おれがなぜお前を殺したいか、本当にわかっているのか。

 

私は腕での抵抗は諦め、その代わりに私の首を押さえている手首を思い切り噛んだ。ギリギリと歯音が聞こえるほど、本気の力で噛み締めると、男は呻いた。私の顔に手が伸びてきて、噛むことをやめさせようと押し退けてきたが、私は肉が千切れるまで噛むのをやめるつもりは無かった。おれをこのまま押さえつけるなら、おれは噛むのをやめない。大人しく殺されてくれないなら、おれも手段を選ばない。これはおれとお前との戦争なんだよ。

 

男は痛みから逃れるように私から腕を離した。私を固定していた両腕がなくなり、男の重心がぶれたのを機に、私は男に全体重をかけひっくり返した。先程とは逆に、私が男に馬乗りになる姿勢。

 

私はテーブルに置いてある灰皿を手に取った。分厚いガラスに沢山の装飾が施されたそれは、眩い光を伴って私と男の姿を映し出す。冷たく、まだ吸い殻も入っていない美しい姿、もしも人類が滅んだ後もこうした装飾品がいくつも出土して、私たちが生きていた跡を遺すのだろうか。ヒトの次にこの地球を支配するであろう、かわいそうな文明は、私たちと同じことを繰り返すのだろうか。まだ私たちは、栄えてほんの少しの時間しか経っていないのに我が物顔で生きている。それこそが生物として正しい姿なのだとしたら私はなぜ、こんなにも生きることに罪悪感を持っているのだろうか。明日が来ることが怖いのだろうか。運命や神様などと言ったものが本当にあるのだとしたら、きっと今の私は酷く嫌われているのだろう。憎まれてすらいるかもしれない、いや、きっとそんな存在からは認識すらされておらず、ただ私は私の人生に翻弄されて一人で、勝手に、苦しんでいるだけだ。苦しむ自分に価値を見出そうとしている。愚かだな、だけどもう、溺れてしまったらもがく事しかできないように、私は私に囚われてしまっている。このことを終わらせるために、今この時がある。

 

影が男の顔を覆い尽くす。男はその重たい瞼をうっすら開けて、腫れぼったい顔の口角を少し下げながら、私を見つめていた。その瞳は真っ暗で、私からは意図を読み取ることはできないが、きっと考えているのだろう。この男も、自分の運命を、この男なりに真剣に、考えているのだ。そこだけは、今の私と似ている。

 

私は右手に持った白銀のそれを思い切り持ち上げて頭上にかざした。光が燦爛と煌めき、白い粒になって黒い影を強調する。静かな時間だと思った。宇宙が引き裂かれてどこでもない場所に辿り着いてしまったように、今私と男はきっと真っ白な空間にいて、互いに互いの運命を呪っているのだ。

 

それはまさに親子だな、と私は自嘲的に顔を歪めた。ここまで来たら後は、男の顔を灰皿で殴りつけるだけ。灰皿を持つ手に力を込める。その時、後方から声がした。

 

「やめて!りゅうを人殺しにしたくないの!!!」

 

甲高く、うわずった悲鳴にも似た音。それは狭い居酒屋のテーブル席で反響して、私はその声の主が母だと気づいた。右手に込めた力が弛む。今目の前にいる男は完全に無抵抗だ、殴れば殺せる。何発も何発も、本気の力で灰皿を振り降ろせばきっと私ほどの力でも簡単に人は死ぬ。この男の顔面は西瓜みたいに割れて真っ赤な血が飛び散るだろう。その返り血を浴びて、それで、私はどうなる。幸せか?復讐を果たして、それで満足か?その後はどうなる。逮捕されて刑務所で過ごして、それで?私の人生はどうなる。全部滅茶苦茶じゃないか、努力して受かった大学も、手に入れた青春も全て、ここで終わらせるのか。私は何のために足掻いてきたんだ。

 

鼓膜が静かに揺れる、映像にブラーが掛かったように私の思考は揺れて、一瞬を彷徨っていた。殺したい、でも殺すことが怖い。許せないという正義と道徳と倫理がぐちゃぐちゃに混ざり合って私の心を掻き乱す。本心はどこにある。私は何がしたいのだ。

 

灰皿を持つ手が震えて、呼吸は浅く、音は遠く鈍く聴こえている。誰かに殺意を向けたのも、人を殴ったのも今日が初めてだ、生まれて初めて制御できない殺意が芽生えた。初めてだから、これから先どうなるのかまるでわからない。真っ白な空間の中で、思考だけが捻転する。私は、本当にこの男を殺したいのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜の街を早足で歩く。一定のリズムで、呼吸を乱さず、二息吸って一息吐くことを繰り返す。白い息が分散して透明になる様子は、生そのものの煌めきのようだった。足裏から伝わる触感も、大気の冷たさも、全部生々しくて愛おしい。復讐も、自死も、生を肯定することも、艶やかに血を浴びることも、何もかも駄目だった。私は何も成し遂げられなかった。なのに、今笑っている。

 

私はあの後静かに灰皿を置いて、蹲る母を横目に無言で店を出た。二人は追いかけてくる気配もなく、そのことを寂しいとか悲しいとか、そんなことを考える余裕はどこにも無かった。ただ何も考えたくなくて、急ぎ足で脇目も振らず家まで歩いた。家に着くとベッドに横たわり、まだわずかに熱を持った頭で今日のことを考えた。

 

"私はなにも成し遂げられなかった。"

 

そのことを悔しいとすら思わなかった。ただ事実がそこにあって、私はそれを啓示だと思い込んでいた。私が殺せなかったということは、きっと殺すべきじゃ無かったということだ。だってもしあの瞬間が殺すべき時だったとしたら、私が殺せないはずがないからだ。失敗ではない。運命に従うしかなく、そこに私の意思なんてものは存在しなかった。ただそれだけのことだ。

 

嵐のような夜が過ぎ去った後、私に残ったのは疲れと、虚しさと、少しの希望だけだった。私には、まだやるべきことが残っているのだと、そう自分を奮い立たせた。

 

結局、その男は私の新しいお父さんにはならなかった。いや、正確には一度なったが、一年も立たずに居なくなった。母にそのことを聞いたら、どうやら男は酒癖が悪く、家に沢山の缶ビールを置いては晩酌を母に注がせ、その度暴力的な側面を見せて母を怯えさせたらしい。結婚してすぐに母に優しさを見せることもなく父親としての責任を放棄し、母と男は離婚した。苗字すらも、私に気を遣って母の苗字に合わせたにもかかわらず、だ。

 

そんなことだろうと思った。私の男を見る目は正しかった、あんな男が父親になれるわけがない。それは私があの日灰皿で男を殴り殺そうとしたからではない。元々決まっていたのだ、寂しさや生活苦から目の前に現れた男とすぐに関係を持ち、そこに明るい未来を想像する。理想に伴う現実には目もくれずに、二人で未来を囁き合う。そんなことを母は何度も繰り返していて、そのことを今更咎める気にもならず、火遊びくらいならと見守っていた。だが、あの時の私は男が母と結婚することを許せなかった。なぜだろうか、なぜか母が奪われると思った。あの男が私のお父さんになると考えただけで吐き気がした。受け入れていたつもりだった母の男癖の悪さを、実は全然許せていなくて私は悲しんでいた。

 

青年期の少年少女が自立するためには、それまで自らを保護していた存在からの決別を図る必要がある。父殺しや、母殺しと呼ばれる行為だ。それを私は必要としていて、どこかで自らの自立のために保護者を殺そうとしていたのだと思う。

 

私の父殺しは失敗だったのだろうか。実際に血を流すことはなく、ただ言葉で、態度で男を拒絶した。そのことだけでも成功だと言えるのだろうか。私は、この苦々しい経験から、何かを学べたのだろうか。成長できたのだろうか。

 

あの日から急に精神的に、肉体的に強くなれた実感はない。相変わらず私は母に経済的に依存しているし、作品を作ることに対して恐怖心を抱いている。何も変わらない現実がそこにあって、前進できていない自分を俯瞰しては爪を噛み、指先から血が流れると安心した。

 

このままじゃ何も上手くいかない。でも何が私に必要なのか、私は何をなさねばならないのだろうか。そんなことばかり考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母子家庭の子供は、役所に行けば実の父親の個人情報を開示することができる。そんな情報を目にしたのは、私が大学を休学して、5年目を間近に控えた冬だったと思う。

 

その頃の私は、統合失調を発症し心療内科に通ったが、薬が徹底的に合わず、拒薬して、自宅で毎日泣いていた頃だった。ご飯を食べても味が全くしないのだ。涙は止めようと思っても止めることはできず、私はついに自分が壊れてしまったと、もう大学を続けることはできないのだと絶望して死ぬことばかりを考えていた。

 

何がそんなに悲しかったのかというと、休学し卒業が一年遅れることで同級生が先に卒業してしまうことが悲しくて寂しくて、とにかく辛かった。私は大学生活で初めて心根から人と話すことができた。本心から人のことを好きになれた、制作のことを語り合うことも、将来に希望を抱くことも全てかけがえのない青春だった。

 

そんな青春はあっけなく、私が休学をすることを決めた途端に無くなってしまった。下の学年と仲良くできるかとか、学費が免除にならなくなってしまうことなど、不安はいくつもあったがそんなことよりもまず、私は私自身が今この瞬間にも融解して消えてしまうのではないか、私が生きた証はどこにもなくて、ただの過去として消失してしまうのではないかと、存在そのものへの杞憂で心がいっぱいだった。誰かに何かを言われて傷ついているのではなく、私は私を責める頭の中の声に苦しんでいた。もうどうしようもない。だって涙が止まらないのだ、泣きすぎて眠れないのだ、そんなことを同級生に相談もできず、彼らは輝かしい卒業という儀式に包まれて、祝福されていく、愛でられていく。そのことが淋しくて仕方ないのだ、私も、彼らと一緒に卒業したかった、東京に行きたかった。

 

喚いてもなにをしても、夜が来るたびに涙が止まらなくなる。夢を見ることが怖くて仕方ない。そんな時、私は実の父のことを考えた。

 

「実の父親に会いたい。」

 

そう母に告げた時、母は何も言わずに私を役所に連れて行ってくれた。私は受付の女性に、父親の住所を教えてほしいと言うと、いくつかの簡単な質問の後、あっさり私は父親の家を特定できた。

 

そこは実家から車で1時間もかからない、古びた安アパートだった。母の車で家の近くまで行くと、母は「私は会わないからね。」と言い、話が終わったらまた戻ってくるように伝えて車に残った。

 

アパートの壁はぼろぼろで、カラスが屋根に止まりカアと鳴いている。階段の手すりはざらざらとして、錆びた金属が粉状になって私の指に付いた。私はそのことを嫌だとも、見下したりなども思わずただ、この建物の奥に私の父親がいるのだという事実に、胸の奥がすくむ様な気持ちだった。

 

父親の顔はよく知っている。私に瓜二つだからだ。母がまだ父と生活していた頃の写真を見せてくれた。父が寝ている姿は私の写真と見間違えるくらいにはよく似ていて、不思議な縁のようなものを感じた。嘘偽りなく私の実父で、私を若くして捨てたお父さん。

 

実際に会えたら何を聞こうか。

 

「やあ。初めまして、覚えてるかな。りゅうのすけだよ。」

 

「元気?仕事は何をしてるの?母のことは覚えてる?」

 

「どうして母と別れたの?養育費はなぜ払わなかったの?こうして会いに来たこと、迷惑だって思ってる?」

 

「寂しかったよ、お父さん。」

 

そういって私は父のそばに駆け寄って、抱き締めるのだろうか。首を絞めて殺したいと思うのだろうか。それとも、いい年してこんなボロアパートに住んでいる父を哀れに思って、ポケットから財布を取り出してなけなしの金を渡すのだろうか。その金で父は酒でも買って二人で飲もうとでも言うのだろうか。

 

夕暮れ、車の往来する音が遠くで響き、西日は私の顔を黄色く照らす。建物の影は遠く伸びていき、ゆらゆらと階段を登る私を遮っては、陽の光にまた照らされる。外気はかなり冷たかったが、私は寒さを感じなかった。これから会うかもしれない父の顔を想像して、自分がどんな気持ちになるか考えていた。私は今日という日を運命的だと感じていた。

 

それが悲劇だとしても、喜劇だとしても、私の人生は間違いなく前進するだろう。今日という一日を持って、私は父を殺すのかもしれない。その儀式を行うことで私はやっと、自分の人生を歩み出せるのかもしれない。そう思うと、少なからず高揚感があった。

 

しかし、ドアの前に着いた時、私は手に汗を握っていた。このドアの向こうにいるかもしれない人間の、その姿が例えどんなものであったとしても受け入れる覚悟はできていた。できていたが、いざドアの前に立つと呼吸が乱れ、頭に血が昇っていく感覚があった。

 

ずっと欲しかったお父さんという存在。それに私は期待してしまっている。もうお父さんではないただの他人の男に、甘えたがっている、依存したがっている、許して貰いたがっている。

 

こんな呪いのような人生を終わらせるために、前進するために来たはずなのに、私は何処かで、まだ子供でいたいのだと思う。欠けてしまった18年間の半分を、背負わせたがっているのだと思う。

 

私はドアの横にあるチャイムに手をかけた。呼吸を少し止め、両足を体を垂直に支えられるように整えて、軽く肩を回す。

 

指先に少しずつ力をこめて、私は父親が住むアパートの部屋のチャイムを鳴らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度目かのチャイムが鳴ったが、部屋の中からは物音ひとつしなかった。私は呆気に取られ、何度か部屋の号室を確かめる。間違いない、この部屋だ。

 

カラスが飛び立つ。私は無駄足を踏んだ自分自身に対して、嘲るように笑みをこぼした。なんだ、私は実父に顔すら合わすことすらできないのか。勇み足で向かったのが馬鹿みたいだ。なぜ、実父が留守であることが頭のどこかでよぎらなかったのだろうと、考えれば考えるほど面白くて堪らなかった。

 

私は母が待つ車の元へ戻って、会えなかった旨を伝えた。

 

「そうだよね。だってあの人、今入院してるから。」

 

なんでそんなこと知ってるのと私が返すと、だって戸籍に精神病院の名前書いてあったから。と母はあっけなく答えた。私はまた面白くなって一人で笑った。

 

帰りの車の後部座席から小さくなっていく父のアパートを見つめた。私を捨てた実のお父さん。あなたに会いたかったのはなぜだろう。業を背負わせたかったからかな、悔いてほしかったからかな。いや、どちらも正解で不正解だ。たぶん、恐らく私は、私のことを殺してくれる大きな存在が欲しかった。それをしてくれるなら私は何だって"お父さん"と呼ぶのだろうと、いつの間にか青く染まった夜空を見ながら思っていた。

 

3番目の父親を殺したいのか自分に問いただした時のことを思い出した。今なら言える、私があの時本当に殺したかったのは、自分自身だ。

 

そのことが腑に落ちた今、もう父に会いに来ることはないだろうなと、私の中の空白に透明で温かい液体が注がれていくような生々しさに、肩をすくめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄らと、脈拍が肌に伝わるのを愛おしく思うように、身を千切るような感覚を美しいと思う。利き手でない方の手で線を引くように辿々しく、生の淵をなぞって輪郭をあらわにする。

 

かけがえない感情がどこかにあって、どこに仕舞い込んだかわからなくなってタンスの端から端までを衣服で散乱させる。そんな素振りで私は人間関係を見ているのだろうな。

 

あどけなく振るう金槌は、頭蓋にめり込み血飛沫を上げて辺りを真っ赤に染める。笑いながら、微笑みながら、退廃という名の予兆に魂を燻らせる。今を生きるということ、哀しみに沈むこと、それは太陽と月の運動に似ている。だとしたら東はどちらなのか、西は。何回これを繰り返せば私は私であることに終止符を打てるのだろうか。きっと砂を噛むように不快で脳に刻まれる質感は、あの日私が殺せなかった男や会えなかった父を誘うようにして地獄の蓋を開けているのだ。業火に焼かれてしまえばいい。

 

そんな血に染まった祈りも全て、孤独であるためにあって、私は孤独でいられることの幸福を実感しながら、欲望のままに他者との関係性を望んでいる。それは二羽の兎が逃げるように、病弱な娘のために宝石を持ち帰る青い鳥のように、愛おしいものだ、切ないものだ。

 

青春がパステルカラーでできているなら、きっと私の人生は明度の低い濃色で、浜辺の貝なのかもしれない。手に入れられると思ったのは間違いで、錯覚で、全て幻想の元に簡単に散ってしまえる桜のような一過性だったのかもしれない。そのことがたえず苦しいと思うそぶりを見せて、情けを人に求めて尚、しぶとく生きたいと願うのは本当、ほとほと、何故なのだろうか。私は私の本能に疲れている。諦められたらどれだけ楽だろうかと嘆いている。

 

それこそが人の営みなんだろう。苦しみ、もがき、喘ぐことこそが美徳であり、人が人たらしめる縁取りなのだろう。そんな道徳が、倫理が、常識が憎らしくて仕方がない。魂という名の柔らかさこそが温もりであってほしいと、そのように思う。

 

誰かを強く殺したいと思ったことはありますか。

 

その時見えた色は何色でしたか。

 

悲しいとどんな味がしますか。

 

美しいとは過去でしょうか。未来でしょうか。

 

センチメンタルな食傷を、滲んで浮かべる文字を、あなたに読み取れますか。油紙のように光沢を持ってもたれ掛かる私の心はあなたにとって迷惑でしょうか。

 

ならばせめて一瞬を、木漏れ日のような生の瞬きを、その掌に掴んでみたい。鬱々とした孤独の青さは、今もどこかで開花するのを待っている。

 

"私は何も成し遂げられなかった。"

 

その言葉が、頭と心を往復するように反芻して、その度に私は可笑しくなってにへらと笑った。