がみにっき

しゃべるねこ

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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 10

「おはよう。」

 

彼からのメッセージが届いた。私はパソコンでネットサーフィンをしており、画面には私たちがこれまでにしたSkypeのやり取りが記録されている。

 

あの日から、私たちは定期的にチャットをするようになった。彼は、実家に帰省している間の何気ない出来事を逐一報告してくれた。パソコンのインカメラを使って、家の中を歩き回る様子がSkypeに映し出される。

 

彼は、私が無視していたことは気にしていないようだった。それどころか、以前よりも親密さを増して、私に気兼ねない愛情を振りまいてくれるようになった。敢えて黙っていたのかもしれない。それでも、あの5日間の出来事が話題に上がることはなかった。彼と私は、元どおりの曖昧な関係に戻ったということになる。

 

「これ、妹やねん。」

 

彼は嬉しそうにそう言うと、通話画面を自分の手元に近づけた。

 

「妹?あれ、末っ子じゃなかったっけ。」

「違う違う(笑)猫のことだよ。」

 

見ると、彼の手元には可愛らしい三毛猫が抱き抱えられていた。

 

「まじ可愛い、うちの妹。」

 

君の方がかわいいよ。なんて、言いたいけど言えない。彼はソファの上に寝そべっている。カメラ越しに見える家具はなかなかに豪勢で、広さも相当にある家だ。妹と呼ばれた飼猫も、満悦そうに脚を舐めている。

 

家族は裕福なのだろうか。広い庭付きの一軒家ではしゃぐ姿は、地味な家に住む私には新鮮に思えた。

 

一旦チャットが始まると、流れで4,5時間は話した。そのたびに以前寝泊りしていたときのような親密さが戻ってくる。

 

「がみきゅん。」

 

彼が私の名前にきゅんをつけて呼んだ。

 

「なに、その呼び方。」

「きゅんきゅん。」

 

私も、彼の名前にきゅんを付けて呼んだ。チャットを打つ速度が早まる。

 

「がみきゅんはチャットだとかわいいんだよなー。」

 

また、私をざわつかせることを言う。嬉しかったが、内心穏やかでいられない。

 

決定的な一言は未だに言えていないのだ。あの日の、あの時間は何だったのか。結局、私たちは友達でしかないのか。この関係に名前をつけたくて仕方ない。

 

板挟みだった。もう彼のことを無視はしたくない。しかし、直接本心を聞こうにも、この関係が壊れるのは避けたかった。

 

 

 

 

 

 

 

ちょうどこの頃から、私は経済的に切迫するようになっていた。入学後、すぐに奨学金を借りた。無利子で月5万。しかし、授業の制作費や飲み会の出費などでそれだけでは足りず、何度か母に援助を頼んでいた。

 

「早くバイト探してね。」

 

母に電話を掛けるたび、そう急かされた。

 

家計が苦しいのは承知だった。しかし、その時の私は既に授業料の減免を受けていた。国公立大学では、学生の経済状況によって授業料が半額になったり、全額免除になったりする制度があるのだ。

 

その制度を知った私は、すぐに大学の事務局にいった。そこで必要書類を書き、申請する。用紙には個人情報や、経済状況、備考などを書く欄があった。母に年収などを書いてもらう必要があったため、実家にそれらを郵送し、1週間ほど待つ。

 

備考欄には、生徒本人が内情を書くこともできる。私は単に、『経済的に苦しいので減免をお願いします。』くらいのことを書いた気がする。同じく減免申請をする同級生は共働き家庭で、両親に一定の収入はあるものの、仕送りを一切してくれないらしい。側から見て可哀想になるくらい、小さい字でびっしりと困窮している旨を書いていた。が、減免すら通らなかった。

 

私は、あっさりと全額免除になった。この時、書類に書かれていた母の年収は120万円だった。母子家庭は、こういう面では進学に有利なのかもしれない。

 

学費を稼ぐ必要がなくなった私は、それでもバイトをしろとしつこく言ってくる母に対して怒りを感じていた。同級生の中には学費だけでなく仕送りまで貰って、バイトをせずに生活している奴らもいる。家庭を比べるのは良くないが、あまりの経済的格差に腹が立っていた。

 

もちろん、純粋に忙しかったのもある。上半期の授業はカリキュラムが目一杯に詰め込まれ、制作の締め切りも短いものが多かった。その為、バイトをしている余裕がなかったのは事実だ。

 

しかし、今は夏休み期間に入ったため言い逃れはできない。私は候補となりそうなバイト先をネットで調べ、家から近い距離にあるカラオケのバイトを始めることにした。

 

私は彼にバイトを始めることを告げた。

 

「おめでとう。それじゃ、がみーがいる時狙って遊びに行くわ。」

 

正直、来て欲しくは無かった。私は高校の時のバイトのトラウマを、まだ引きずっていたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10月、私はストレスで頭を抱えていた。

 

バイトの雲行きが怪しくなって来たのだ。毎週末入ることにしたのだが、私は致命的に仕事ができない。店舗は学生街にあるせいか部屋がすぐに埋まり、とにかく忙しい。ちゃんとした教育もないまま現場に放り込まれた。

 

注文のオーダーを取り、厨房に行く。カラオケのメニューは殆どが出来合いのため、レンジでチンすればできる簡単なものだ。しかし、パフェなどの一部デザートについては自分で盛り付けなければならない。分厚いマニュアルも用意されているのだが、ひっきりなしに掛かるオーダーの前ではそんなものを見ている暇などない。あたふたして、厨房を歩き回る。見かねた同僚がやってきて、舌打ち混じりに言う。

 

「もういい。皿洗っといて!」

 

言われるがままに洗い場に向かうが、そこは既に皿やジョッキグラスで埋め尽くされている。身体をフル回転させ、それらを食洗機に放り込む。腕が痛い。美大生はペンより重いものが持てないのだ。

 

必死に仕事をこなしている時、バイトリーダーに声をかけられた。

 

「お前大丈夫か?!さっきからずっとおろおろしとるぞ。」

 

彼はこの店のシフトにほぼ毎日入っているベテランの30代だ。この人に仕事をレクチャーされたのだが、早口で喋るせいか内容が頭に入ってこない。

 

バイトリーダーは仕事をできない奴を見抜くのが上手い。早々に目を付けられ、行動を厳しくチェックされた私は、以前のバイトのトラウマを思い出していた。あの時も、常に監視されるプレッシャーに頭が真っ白になり、簡単な仕事すらこなせない状況に陥っていた。

 

「ええ?本当に美大生か!なんでそんな不器用なんや。おれの方がもうちょい器用にできるぞ。おい。もっとテキパキやれやー、ほんま頼むわー。しっかりしてくれや。もう入って2ヶ月近く経つねんで。なあ、返事は!?声ちっちゃいやろ。もっかい、へ・ん・じ!?」

 

うるさい。この甲高い声を聞いているだけで頭が痛くなる。一度怒られるとネチネチと小言を言われるようになり、その度に私は仕事を辞めたいと思うようになった。

 

出勤の日は1日中憂鬱になる。学校で、バイトどう?と聞かれる度に、胃が縮んだ。

 

「ぼちぼちかな。最近やっと慣れてきたって感じ。」

 

同級生には弱みを見せないようにしていた。仕事ができない人と思われたくないからだ。

 

悔しかった。たかが時給850円の仕事で、どうしてここまで怒られなくちゃいけないんだ。制作の方が本業なのに、なぜバイトでまでストレスを受けなくちゃいけない。彼にも、まだ本当のことは聞けていない。同級生が皆楽しそうにしている中、仕事に行くのは嫌で仕方ない。学校と仕事の二重生活に、私の精神は歪んでいった。

 

その日も、お客さんからビールのオーダーを受けたところだった。私はトレイにジョッキを乗せてビールを注ぎ、それらを担いでお客さんの待つ部屋に向かった。

 

片手でドアをノックする。

 

「おまたせしました。ご注文のビールになります。」

 

定型句を口にして、ビールジョッキをテーブルに置こうと姿勢を屈めた時、手が滑った。私は持っていたトレイをひっくり返して、お客さんに向かって盛大にビールをぶっ掛けてしまった。

 

「え、マジ?!最悪!」

 

男女のカップルだった。女の方が、ありえないんだけど。と呟きながら、溢れたビールから体を遠ざける。男の方は既に下半身がずぶ濡れになっており、ゾッとするような顔でこちらを睨んでいた。

 

やってしまった。すぐに平謝りして、大急ぎで厨房に戻った。事態を察知したバイトリーダーが飛んできて、私の代わりに謝ってくれた。布巾で必死にテーブルを拭く。その間も、お客さんとは目を合わせないようにしていた。

 

私の失敗は、全店舗に放送されることとなった。いきさつや今後の対策などが入念に書かれた回覧板が回される。それらを店長が読み上げて、スタッフに呼びかける。失敗は誰にでもあることだから、とフォローを入れて貰えたが、呼吸がうまくできない。私は自分がしでかした事の重大さを理解し、憔悴しきっていた。

 

その後、バイトリーダーに呼び出され、説教を受ける。

 

「お前いい加減にせえよ?!マジでこんな失敗、おれは何年もここに勤めてるけどお前が初めてだよ。なあ、笑ってんのか?笑ってる場合じゃないぞ。本当に、パニック障害じゃないんか?病院で診てもらったらどうだ?お前、なんかおかしいぞ。おい、次ミスしたら、本当に許さないからな。次やらかしたら、全部お前の責任やからな。分かったか?!」

 

わかりましたすみませんでしたいごきをつけます。これらを呪文のように繰り返した。

 

自分でも不思議だが、首にはならずに済んだ。しかし、この事がバイトへの行きづらさに拍車をかけ、毎週入っていたシフトを隔週に減らすことになった。

 

この頃から、深刻に自分の居場所がないことを悩むようになった。私には、本心を晒せる人がいない。家庭も、学校も、職場も、インターネットですら、心内を晒せる場所ではなかった。

 

仕事がうまくいかない理由を探した。失敗の原因を追求する時、いつも打ち当たる壁は、自分がゲイであるということだった。

 

ゲイが生まれてくる理由は諸説ある。先天的か後天的か、はたまたそれらが複合的に掛け合わさって、偶然で生まれてくるか。明確な答えはないものの、もし後天的な理由があるとすれば、思い当たる節がある。

 

それは母子家庭出身だということだ。父親がいたとしても、その存在が希薄であったり、会話をほとんどしない家庭の子がなりやすい。インターネットで悩みを検索すると、そういう情報に行き当たる事が多かった。私自身もノンケ男性の気持ちがわからないという問題を抱えている。

 

社会には『オヂサン』や、『オトーサン』と呼ばれる人種が大勢いる。私にはその誰とも、うまくコミュニケーションを取ることができない。彼らが何を考えて、どういう理屈で動いているのか。全然分からないし、分かりたくもない。しかし、そういう不在の父性に対して、性欲を抱いてしまうのも事実だ。

 

自分が気持ち悪い。どうしたら、男性への苦手意識を拭い去る事ができるのか。

 

それができない限り、自尊感情など持てる気がしなかった。人は誰かに愛される経験を得ないと、自分自身を愛する事ができない。私の場合は、それが男からのものである必要があった。

 

私がやるべきことは、一つしかない。

 

それが失敗した時、どういう状況になるかは予想が付く。だが、自分の存在を受け入れるためにはもう、その事に踏み切る以外選択肢がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

私は意を決して、彼にSkypeでメッセージを送った。

 

「やっほ。」

 

彼からの返事はすぐにきた。

 

「おっす。どした?」

「あのさ、ちょっと話がしたくて。」

「なんの?」

「いや、大事な話。」

 

いつもと異なる空気を察したのか、彼からの返事が止まった。数十秒ほど経って、既読がついた。

 

「それは、ここで言いにくいこと?」

「うん、できれば直接話したい。」

「そうか。今から会うのは無理だけど、電話ならできる。」

「わかった、それでもいいよ。」

 

私は彼に電話を掛けた。コールが数回鳴って、ガチャリと音がした。

 

「おっす。」

 

彼の声だ。普段から低い声が、電話越しだと余計に重く響く。

 

「夜遅くにごめんね。」

「いや、いいよ。全然、起きてたし。」

「それなら良かった。」

 

私は部屋の電気を消して、デスクライトだけをつけた状態でベッドに横になっていた。橙色に照らされる壁。私の影が小さく動く。

 

「それで、今日電話したのは––––––」

 

言葉が詰まる。彼を前にすると緊張して、上手く声が出てこない。

 

「えっと、その。……言いにくくて、ちょっと待って。」

 

私は咳をした。喉に絡まった痰を飲み込みながら、もう一度咳をする。

 

彼は押し黙っていた。普段なら相槌くらい打ってくれるのだが、これから先に私が何をいうか薄々感づいているのだろう。なにも話さない。

 

薄明かりの元で、私はたどたどしく話し始めた。

 

「––––––実は、入学した時から、気にはなってたんだ。君のこと。うん、かっこいいなって思ってて、ただそのことを上手く言えなかった。ほら、あの日、君泊まりに来たじゃん。その時もさ、ほんとはすごく嬉しくて、伝わってたかな。ヘラヘラしてたと思うんだけど、あれ喜んでたんだ。ずっと誰かとこういう風に、一緒の時間を過ごしたかったから。」

 

息がだんだん荒くなる。鼓動が大きくなり、声も震えだす。

 

「あの後、君が家に来なくなってからもさ、気になって気になってしかたなかったの。ほんとに、学校で会う度に、顔見れないし、君がおれよりも色々長けてるからさ、なんか眩しくて。それで、しんどくなっちゃって。もう1人で抱え切れないから、今日はそれを伝えようと思って連絡したの。」

 

大きく息を吸う。

 

「おれ、君のことが好きなんです。likeじゃなくて、loveの意味で。……それで、今後ちゃんと恋人として、付き合っていきたいって思ってるんです。こんなこといって、戸惑うかもだけど、真剣なんです。だから、君がおれのことをどう思ってるのか知りたい。……ごめん、こんなこと言って、キモいかもだけど。」

「キモくないよ。」

 

彼が口を開いた。

 

「キモくない。……ただちょっと、考える時間が欲しい。返事、明日になってもいいかな。」

「わかった。明日、連絡待ってる。」

 

彼は今、どういう顔をしているのだろう。急にこんなことを言われて困惑しているのだろうか。いや、ある程度は察していたに違いない。私があの日、そういう気持ちを抱いていたことは、彼もわかっていたはずだ。私の家に来なくなった理由も、気持ちを受け止めきれないと察して、距離を空けたからだ。彼の反応を聞いて、以前からの疑問が確信に変わった。

 

ただ、納得いかない部分もある。彼は少なくとも、私に好意を抱いている。それはあの日、私たちが下半身を勃起させ、互いに触り合っていたことや、チャットで私のことを"かわいい"と表現することからもわかる。友達以上の関係ではあったはずだ。私だって、全くの勝算もなくこんなこと言わない。可能性はあるはずだ。今から、恋人の枠に入れてもらえないだろうか。

 

返事は明日。それを了承した今、私には待つことしか出来ない。

 

「それじゃあ……。」

 

どちらからともなく電話を切った。ベッドの上で、ため息が漏れる。

 

言ってしまった。もうこれで、後には戻れない。枕に顔を押し当て、グッと拳に力を込める。

 

私は、誠実だ!これでダメなら、どうしようもない。彼のことが好きだ。好きで好きで好きでたまらないのだ。真剣に、付き合いたいのだ。その愛らしい瞼に指を当て、目尻までなぞりたい。前歯を見せて笑う君の唇に、私の唇を重ねたい。呼吸する度に浮きだす手首に耳を当て、君の動脈に流れる血の音を聞きたい。君を後ろから抱きしめて、鎖骨まで首をもたげて吐息を漏らしたい。君、君、君の温度。湿度、逸脱する感情を、余すことなく舐め取りたい。私にしか溢させたくない。私という器に、黄卵のようにつるりとした、君という魂を掬い取りたい。君じゃなきゃダメなんだ。君と出会えるまでの、薄鈍の日々たるや、そんなもの、全てあの日、あの5日間、あのベッドの上での瞬間に比べたら、なんと褪せた事だろう。ああ、尊さとは、なんと不気味で支配的で、完璧なのだろう。空 が 割 れ る く ら い だ !

 

私はベッド脇の壁にもたれかかって目を閉じた。明日、明日が怖い。受験の時とは違う。不安の方が大きい。私は彼にふさわしいのだろうか。その事に自信がない。でも、でも。

 

その日、何時間眠ったのだろう。よく覚えていない。気が付けば太陽が一周していた。私は、皆が夕食を食べ、和かに笑うであろうその時間。聞かされた真実の前で、耳を塞ぎ、全ての愛くるしい存在を、齧り尽くしてボロボロになった爪で、引き裂いてやりたいと願っていたところだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一晩考えて、思ったんだけど。いや、まぁ、なんというか。がみーの気持ちは嬉しいよ。ただ、おれたち、そういう関係にはなれない。がみーの望んでることにも、答えてやれない。だから、がみーが俺のせいで苦しんだり、辛い思いをしてるならやっぱりはっきりと言ってやるべきだったなって、自分でも反省してる。ごめんな。」

「……付き合ってはくれないってこと?」

「そういうことだ。まぁ、なんというかおれたちまだ若いというか……。」

「わかったよ。わかった、ごめん。ゲイなんて、やっぱキモくてごめん。はっきり言ってくれてありがとう。もう大丈夫、もういいよ。ほんと、気持ち悪い生き物でごめんね。」

 

私は電話を切った。彼は今、なんと言っていたのだろう。よく聞き取れなかった。私とは、付き合ってくれないって、どういうことだろう。よく分からない、解りたくない。聞きたくない。私じゃダメなのかあ、どうしてだろう。どこかで失敗したかな。私はそんなに、似つかわしくない存在だろうか。

 

ベッドの上に倒れ込んだ。携帯が宙を浮いて、床に叩きつけられる音がする。しまった、画面割れたかも。でももういいや。どうでもいい。全部、消えてしまえ。私なんて、全部全部全部全部。

 

哀しかった。存在を否定された、わけではない。彼は優しく伝えてくれたはずだ。その優しさが痛い。胸をドリルでえぐられたように、私の中は空洞だった。なにもない。私の存在なんて、露ほどの価値も無かったのだなあ。

 

どれくらい泣いたのか、もう分からない。聲が、溢れて止まらない。私の顔は、いまどうなっているのだろう。枕だったはずの何かはぐっしょりと濡れて、冷たく沈んでいる。全てが嫌だ。なにもかもが嫌いだ。私は今、世界で一番好きな男性の前で、世界で一番惨めな存在になったところだ。

 

あた まを掻 きむし る。髪の毛が指に絡まって、その根本には白く濁った皮脂が、穢らわしく貼り付いている。ダメだ、このままではもう、息ができない。誰か、誰か。

 

 

 

誰か。

 

 

 

私はベッドに転がった携帯を拾って電話を掛けた。ガチャリと、音がした。

 

「もしもし。」

 

この声は、同級生のあの子だろうか。

 

「あ、もしもし。えっと、あの、その。ごめん。ごめんね。あの、上手く、上手く言えないんだけど。いや、ごめん、急に電話掛けて。どうしても、どうしても耐えられなくて、悲しいことがあって、なんか、ごめん。ほんと、どうしても誰かと話したくて、それで……。」

 

咽び泣きながら、必死に声を絞り出す。

 

「ごめん、ほんとに、ごめん。今日はもう、無理だ。どうしても、どうしても辛い。ごめんね。ごめん、ほんと、ごめん。」

「おお、ほんまか。ほんまか。それはな、がみ、大変じゃったな。おお。」

 

電話越しの相手は、優しく応えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は一晩中泣いた。涙ももう、よく分からない液体に変わった頃。私は同級生の家で肩を貸してもらい、その日に起きた出来事の経緯を話した。

 

純粋すぎた。余りにも、磨かれ尖った感情は、その矛先を見失い持ち主に突き刺さった。まだ在るかもしれない可能性に阻まれて苦しい。もしかしたら彼は、照れているだけかもしれない。私に直接、本心を言えないだけで、まだなにか隠していることが……。

 

そんなわけない。彼も誠実だった。私は、ただこの運命を受け入れたくないだけだ。彼が言った言葉を、言葉の裏に潜む本心を分かっていながら、その事実に目を背けたいだけだ。

 

「大丈夫じゃ、がみ。大丈夫。」

 

飢えた獣が夜に吠える。月は朧げに、正体を隠しては薄い雲を食い破り、私の小さい背中を照らす。影のみが輪郭を映し出す。怪訝に、真っ暗な顔を上下させ、苦しみ、悶える姿は明日まで続いた。時刻は0時を過ぎて、人の温かみをようやく実感した頃。私は、慰めてくれた同級生にお礼を言い、帰路に付いた。

 

家に着いてから、人前で流せなかった分の涙をひとしきり流すと、つかれてその日は眠った。