がみにっき

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就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 12

「お願いがあります。」

 

私は薄暗い部屋の中で、私はベッドに仰向けになりながら電話を掛けていた。相手は、バイト先の店長だ。

 

「お願いって?」

 

店長が聞き返す。私は勇気を振り絞って、言った。

 

「バイトのことなんですけど、辞めさせていただけないでしょうか。」

「話ってそのことか。なにも急に辞めなくても。おれは君のこと、全然大丈夫だと思ってるんだけどね。」

 

大丈夫という言葉を投げかけられ、私は不思議に思った。私は客にビールをぶっ掛けた張本人だ。半年以上も経って未だに全く仕事ができないのに。それなのになぜ、この人は私を庇ってくれるのだろう。

 

私が思わぬ肯定の言葉に動揺していると、続けて店長が言った。

 

「なんか嫌なことでもあった?」

 

嫌なこと。思い当たる節は、ある。あるに決まっている。私がシフトに入るたび、ビクビク怯えなければいけない原因が。

 

しかし、そのことを店長に直接伝えるのは憚られた。何故なら、私が自分の仕事のできなさを棚に上げて責任転嫁している風にしか思えなかったからだ。

 

「自分が悪いってのはわかってるんです。自分が仕事できないから、周りに迷惑かけるから、だから結果的に、その、怒らせてしまうのはあると思うんです。その、凄く言いづらいんですけど。」

「バイトリーダーかい?」

 

店長は、私が言いたかった答えを先に用意してくれた。

 

「あいつもなあ、俺も言ってはいるんだけどな、なかなか頑固というか、仕事熱心なのはいいんだけどな。あんまし余裕ないやつなんだよ。坂上くん、結構キツく言われてたろ?」

「はい。」

「そうなんだよなー。前にも新人の子辞めさせてるからなあいつ。俺からも遠回しに言っとくし、もうちょい頑張ってみない?せっかく半年続けたのがもったいないよ。」

 

返答に悩んだ。この人はいい人だ。男性が苦手な私でも分かる。本当に私のためを思って言ってくれている。ただ、その善意がつらい。

 

今ここで、バイトを続けることになった場合、また次の出勤日にバイトリーダーと顔を合わせることになる。そんなのは耐えられない。ただでさえ、前回の出勤日に祖父の死と振られたことが重なってパニックになり、怒られたときについ、言い返してしまったからだ。

 

「僕だって、色々抱えてるんですよ。今日くらいそっとしておいてください。」

 

その時のバイトリーダーも、さすがに私の様子を見て只事ではないと察したのか、それ以上の追及はして来なかった。今思えば、それくらい言い返しても良かったとは思うのだが、当時の私は仕事ができないくせに私情を職場に持ち込むなんて最低だな、と自分を蔑んでいた。

 

そんなことがあって、私はどうしてもバイトリーダーと顔を合わせたくなかった。

 

「ごめんなさい。やっぱり、どうしても無理です。バイト辞めます。」

「そうか、残念だね。」

 

店長は名残惜しそうに言った。残念、という言葉。きっと私を思っていってくれたのだと思うが、その時の私には重く響く一言だった。

 

昔からそうなのだ。第一印象がやたら真面目そうに見えるからか、よく期待されてしまうのだが、その期待に応えられずに失敗して恥をかくことが多かった。その度、周囲の"残念"という言葉が頭にこびりつく。

 

店長とはその後、次の出勤をどうするかや、最後の給料のことなどを一通り話した。私は店長に、今後職場に行かなくて済む方法と、職場に行かずに手続きができる方法がないかを尋ねた。聞けば、バイトはかなりあっさりと辞められるようだった。電話をした直後からもう行かなくてもいいし、最後に借りている制服を洗濯して返しにきてくれればそれでいいとのこと。

 

店長との話が済んだところで、私は電話を切った。とにかくこれで、もうバイトに行かなくていい。お金の心配はあるけど、今はいい。これ以上は耐えられない。辞めてホッとした。

 

奨学金の5万じゃ家賃と生活費には到底足りない。そんなのは分かってる。それでも、あの職場に居続けることだけは耐えられなった。

 

バイトを辞めたことはもちろん、誰にも言わなかった。友人たちは私のバイト先の話などにあまり興味がないし、母にはそもそも言いたくない。次のバイトをどうするか決めろと急かされるだけだからだ。今は、ひとときの休息が欲しい。

 

大学一年生の冬が終わる。この頃の課題は比較的楽で、締め切りが長いものや座学めいたものが多かった。学生たちも学校に慣れてきたのか、次に入ってくる後輩のことで話は持ちきりだった。皆2年に上がることが楽しみで仕方ないんだろう。

 

私も、素直に楽しめれば良かった。しかし、私にはまだ彼への想いが払拭されておらず、それどころかあの日チャットで言われた"結構好き"という言葉を都合よく解釈して、まだ望みはあるのではないかと考えていた。彼に嫌われてはいない。それなら、私にもまだチャンスは残っているのでは無いだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春。学校の校門の前の桜並木が一斉に色付き、春休みを終えた学生たちで賑わい出す季節。私たち2年生は、去年自分たちがもてなされたように、新しく入ってきた一年生を連れ去り、あだ名をつけ、新歓を開いていた。

 

春は飲み会が盛んな時期だ。色々な出会いと別れが繰り返され、その度に飲み会が開かれる。私の飲み方は以前にも増して最悪だった。酔った勢いで思ったことを全て口走り、悪態をつき、好きでもない先輩後輩同級生とボディタッチで絡む。記憶を無くすことも何度かあった。理由はバイトのことや、彼に振られたからということもあるが、それ以上に、そのことを誰にも言えずに1人で抱え込んでいたことに原因があった。

 

むしゃくしゃする。誰かと一緒にいないとどうにかなってしまいそうだ。誰でもいいから構って欲しい。私に、この抱えている想いを忘れさせて欲しい。

 

お金の心配と、恋愛のこと。これらが当時の私にとっての大きなストレスの元だった。

 

ゴールデンウィークも過ぎ、彼に振られてから丁度半年以上経った頃。私の諦めはまだついていなかった。それよりも振られたことで勢いを増し、以前よりも積極的に彼にアプローチをするようになった。

 

以前空いた距離を埋めるように、近づく。挨拶も柔かに、彼の前で笑顔を絶やさなかった。きっと彼からしたら、今までずっと互いを無視し続けていたのに急に距離を詰めてくるものだから、不気味だったであろう。しかし、そんなことはおくびにも出さずに彼は私に対して優しかった。いや、あえて優しくすることで距離を保とうとしていたのかもしれない。それでも私にとって、彼の声や一挙一動は全て癒しに思えた。

 

ある日、思い切って聞いてみた。

 

「今日、君の家に行ってもいい?」

 

しばらくキョトンとした顔をした後、彼は言った。

 

「いいよ。」

 

私は舞い上がった。彼に許容してもらえた。以前は振られたが、そんなことは今はどうでもいい。今、彼に受け入れてもらえたことが嬉しい。彼のことを考えるだけで胸が溢れそうになる。自分の行動を制御できない。

 

その日、学校終わりに彼の家に遊びに行った。

 

飲み会で彼の家が使われたこともあって、内装や場所などは知っていた。10畳くらいある広めの1K。インテリアは洋風なものが多く、ドラマなどで見る男の子の子供部屋のような雰囲気を醸し出していた。トイレには虎と男の子のキャラクター。見たことない、名前はなんていうんだろう。

 

彼はベッドに寝転がり、私はソファに座った。以前、彼が家に来た時のことを思い出す。彼の家の匂いは、あの日洗剤と混じって包まれた彼の匂いと同じものだった。匂いというのは記憶に残りやすい。好きな人の香りに包まれて、気持ちが安らぐ。

 

2人でWiiスポーツという様々なスポーツを体験できるテレビゲームをした。彼はゲームや漫画も好きなようで、家には一通りのものが揃っている。2人で並んで、テレビ画面の前に座る。

 

正直、ゲームはさほど楽しくなかった。大学生になるまでは、娯楽といえばゲームで、毎日退屈な時間を紛らわすためにゲームに勤しんでいた。しかし、大学生になった今は同級生との会話や課題そのものが楽しくなり、ゲームに夢中になることも減ってきていたのだ。

 

なにより、彼の家に彼と2人っきりでいること。そのことが私のゲームへの集中力を削いでいた。

 

ゲームの画面の中で、私はパラグライダーに捕まって、青空を自由に飛んでいた。眼前には広大や山や海。大自然の中を自由気ままに滑空しながら、私は最近のゲームはよく出来てるね、などと当たり障りのない話題を振り、その場の空気をやり過ごそうとしていた。

 

彼は、チャットではよく話してくれていたが、直接会うと極端に口数を減らしていた。基本、無言。私は男性が無言でいると何を考えているのか分からないので、怒っているのではないかと心配になる。話しかけると返事は返ってくるので、安心する。彼がもし、あの時キスしようとしたことを怒っていたのだとしても、私に対して直接怒りを見せるようなことはしないのだろう。あくまでも優しく、話しかけられたら返事をする。自分からアクションは起こさない。そういう受け身の態度を取り続けることで、彼は自分自身を守っているのだろう。

 

ふと、彼が言った。

 

「なんか食べる?」

 

私はさほどお腹は空いていなかったが、彼の発言に思わず頷いた。

 

彼は料理がうまい。実家にいる時から家族に教えてもらい、一通りの料理は作れるようだった。入学当初、私が自炊をするのが初めてだということを彼に伝えた時、彼は私にカレーの作り方を一から丁寧に教えてくれた。

 

玉ねぎは飴色になるまで焦がさずじっくり炒めること。落とし蓋の代わりに皺を付けたアルミホイルを使ってアクを取る方法。包丁の手入れの仕方など、料理をしている時の彼の表情はまるで一端の料理人かのようにキラキラとしていた。

 

そして彼はよく食べる。身長が高いからと言うのもあるが、四六時中菓子パンやおにぎりなどを口にしている。それでいて特に運動している素振りも無いので、よく太らないな、と感心したものだ。

 

そんな彼が、私にご飯を作ってくれると言うのだ。彼の料理を食べるのはいつぶりだろう。懐かしい気持ちが蘇ってきて、私は彼に振られたあの時の悲しい気持ちを一時的に忘れることができていた。

 

キッチンに立つ彼を、部屋から眺める。大きな背中を少し丸めて、フライパンを上から見下ろす。ゆっくりと冷蔵庫に手を伸ばしたと思ったら、取り出したのは卵のよう。一体、なにを作ってくれるのか。

 

しばらくして、彼は部屋へと戻ってきた。手には黒いお皿に乗っかった、黄色いふわふわしたもの。はい、とぶっきらぼうにその皿を私に手渡した。オムレツだ。

 

冷めないうちに食べた。しっかり塩みがついていて美味しい。油に使ったであろうオリーブの良い香りがついていて、空腹ではなかったが問題なく食べられた。半分食べて残り半分を彼に手渡すと、彼もおう、といいながらぺろりと完食した。あのキャラで作ってくるのがオムレツって、彼は狙っているのだろうか。大きな体に見合わぬギャップに、かわいい。と言葉が口をついて出そうになる。

 

彼は人に優しくするのが心底好きな人なのだろう。でなければ振った相手を家に招き入れて、手料理を振る舞うなんてことするはずがない。少なくとも、彼に嫌われているわけでは無い。そのことに安堵するも、彼の態度次第で私の気持ちがプラスにもマイナスにも働く今の状態を、私は決して良いとは思えない。しかし私が行動しなければ、彼から私にアプローチをしてくることは決して無いことも分かっていた。これは、彼と私の我慢比べなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時刻は、何時頃だったろう。日付が変わるか変わらないかの間。大学生ともあればまだ起きていても何も不自然ではない、真夜中の時間帯。私は、彼に聞いた。

 

「横で寝てもいい?」

 

ソファから彼の方を見てそういうと、彼は目線だけをこちらに向けて言い返した。

 

「お前がいいならいいんじゃない。」

 

なにそれ、と思った。許可しているのかいないのか。全て他人に委ね、責任は一切取りませんよというスタンス。まぁいい、そっちがその気なら私も好きなようにさせてもらう。そう思って、私は彼の布団に潜り込んだ。

 

リモコンで電気が消される。豆電球がオレンジ色に室内を照らして、私たちの息遣いは薄暗い室内にこだまする。遠くの方で車が走っている音も聞こえる。窓から一筋の光が部屋をまたぐ。

 

私は、手を彼のお腹のほうに回した。体は呼吸で上下し、体温で手が温まる。彼の寝息は静かだった。いや、寝たふりをしているのだろうか。私が体を触っても、何も反応はない。いや、これでいい。これは私たちの我慢比べなのだ、と私は自分に言い聞かせる。

 

しばらくそうしていた。どれくらいの時間が経ったのだろう。私は眠れるはずもなく、ただ彼の背中に身を預けるようにして目を閉じていた。静寂さに包まれる。このまま朝になってしまうのが嫌だった。ずっとこうしていたい。彼のそばで、彼が嫌がらないのであれば永遠に、彼の温もりだけを感じて物言わぬ花のように生きていきたい。

 

そんな願いが叶うわけはない。彼にとって私は、ただの友人。好意はあれど、愛情に発展することはない、それだけの関係だ。しかし、いくら言葉や態度でそのことを示されたとしても、同じ教室で毎日顔を合わせる中で白々しくしていろだなんてそんなこと無理に決まっている。

 

私はきっと、ずっと永遠に、彼のことが好きなのだから。

 

お腹に当てている手をそっと、下の方に動かす。彼が履いているスウェットに手が当たる。そのまま手を中に忍ばせる。手はじんわりと湿度を増し、彼のパンツに手が触れる。ボクサーパンツのよく伸びる素材を肌で確かめつつ、その奥に指を伸ばす。硬いものに触れる。吐息が漏れ、心臓がどくどくと脈を打つ。緊張感と温もりの中で、私は過去に会った大学生との出来事を思い出していた。あの時は誰でもよかった。大切にしたいものなんてなかった。目の前の全てに苛立っていた。愛情に飢えていた。ただの獣だった私に、目の前にいる彼はときめきをくれた。未来を指し示してくれた。私が心底向き合って、大事にしたいと思えた関係だ。だから勇気を出して告白したのだ。その結果がどうであれ、今この時間を2人きりで過ごしている。そのことに意味がある。私は、私の思いをただぶつけ、わがままに彼を振り回しているだけかもしれない。でも仕方ない。これは恋なのだ。肉欲だけではない、彼の仕草や声に、私は恋をしたのだ。そのことを誰にも邪魔されたくない。私は、私のこの先の行動がまた彼を傷つけることになってしまうことも十二分に分かっている。しかし、止められないのだ。5月は一枚の掛け布団を2人で被るには少し暑く、素肌を露出して寝るにはまだ寒い。そんなちぐはぐな季節が愛おしく、繊細に思えるのは彼のおかげだ。永遠にこうしていられたら、どれだけ幸せだろう。終わらないで欲しい。終わらせたくない。この時間を私の人生に刻みつけたい。これは、魂の烙印なのだ。

 

私は布団の中に潜り込み、太ももの間に挟まれるような体勢になった。彼が起きるかもしれないと思ったが、もう遅い。膨らみに頬を密着させ、息を吐く。彼に流れる血の音を耳で聞くと、ゾワゾワとした感覚が下腹部から迫り上がってくるのを感じる。布団の中で、大きく息を吸い込み、私は、彼の履いているパンツに手を掛け、引き下ろした。

 

硬い。触ると弾力があってすべすべしている。暗くてよく見えないので、私は布団を剥いだ。露になる、彼の愛おしさ。

 

もう全部忘れたい。生まれてから今までに起きたこと、それまでの友達や受験のこと、全て忘れてしまってもいいから、この光景を目に焼き付けたい。それくらい、鮮烈だった。私は死ぬ時、きっとこの光景を走馬灯のように繰り返し思い出すのであろう。繰り返し、何度も夢で見るのであろう。その度に傷つき、悔やんだとしても構わない。この弾け飛びそうな瞬間を掴めたのなら、もうそれ以上何を望むものか。

 

火傷しそうなほどの温度に、怯むことなく見据えた。そして、その張りのある部分に顔を埋める。ボディソープの匂いが鼻腔をつく。彼の存在を、五感全てで抱きしめたい。

 

舌を出して、舐めた。それでも足りず、口に頬張った。ああ、神様。私はまたいけないことをしてしまいました。しかし、愚かであることを許容するこの男もまた、受容という名の罪人なのではないでしょうか。私はこの行為が罪であるならば、謹んで磔刑に処されます。しかし、私の存在そのものが罪なら、人はなぜ愛したり愛されたりする必要があるのですか。愛などなく、獣のように貪って、子孫を作り、それで事足りるではないですか。なぜ愛などという仕組みをお作りになったのですか。私はわからないことを言う神様なんかより、自分の欲求に素直でいたい。何もない私だからこそせめて、自分に対してだけは誠実でいたい。

 

性欲と愛情と、センチメンタルな片思いが混ざり合い膨れ上がる。化け物が顔を覗かせる。美味しそうなものを頬張る時と同じだ。人の欲望は際限がない。目の前に欲しいものを出されたら、躊躇なく欲しがるのが人なのだ。なぜ私は、男というだけで男を愛してはいけないのだ。

 

顔を上下させる。唾液が糸をひき、ほのかに光の筋を作る。こうすることが幸せだったのか。この先どうするのが正解なのか。よく分からない。それでも、一心不乱に目の前の出来事に向き合う。私が作り出した状況なのだから、責任は私が取る。そうしなければこの先、彼と顔を合わせることはできないだろうし、自分自身も報われない気がしたのだ。

 

口が痺れる。舌先を動かして、歯を立てないように気をつける。自分が見てきたもの感じてきたものを総動員して彼を促す。これで良かったのだろうか、これがしたかったのだろうか。彼の言ってた、"お前がいいならいいんじゃない"という言葉がリフレインする。感動も嘆きもない、時間だけが薄く引き伸ばされた一瞬。私の頭を彼の手が掴んだ。

 

焦って、口を離す。顔を上げると、彼が薄暗闇の中でこちらを見ていた。目線が私の瞳孔を捉える。心臓が跳ね上がった。彼の冷たく、鉛のような視線。あの時、ドアチェーンを跳ね除け私を拒絶した彼の目と同じだ。

 

「ごめん。」

 

咄嗟にそう言った。彼は何も言わず、私の後頭部を掴んでいる。

 

「ごめん、ごめん。」

 

目線を合わせられない。寒気にも似た罪悪感が私を覆う。彼は怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか。なぜなにも言わないのだ。寝ている時に勝手に体を弄られて、普通なら怒るはずだ。私の頭を掴んで剥がそうとしたのも、怒りからではないのか。なぜ黙っている。なぜなにも言わずに私を見ている。こうなることを分かっていて家に招いた、彼の気持ちがわからない。ぐるぐると思考だけが旋回して、冷や汗が流れる。

 

言葉が体の内側から溢れるように漏れてくる。彼のそばで蹲り、顔を伏せる。しばらくそうしていると、私の頭にもう片方の手が添えられた。優しい感触。彼はなにも言わずに、黙って私の頭を撫でた。

 

受容の奥に潜む、いたいけな感情。私はその時の彼の姿に、自分と似た小さな温もりを感じた。それは外見や態度からはわからない、彼の芯にある優しさだ。それを私は私への愛情だと勘違いした。都合よく解釈して、甘えた。そんな私の愚かさすら、彼は包み込んでくれた。

 

夜が明け、窓から指す光が私たちを薄く照らす。少し肌寒いくらいの室内で、私たちはどれくらいそうしていたのだろうか。涙が出たわけではなかった。ただ、申し訳なさと後悔と、彼の優しさが身に染みて、私は顔を上げることができなかった。恋した罪人。しかし、これが私の求めていた父からの愛情に似たものであることも、その時の私はうっすらと感じていた。

 

もし私にお父さんがいたなら、彼のような人であって欲しいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝になり、小鳥の囀りが聴こえる頃。私はまた、彼の背中を見つめるようにしてベッドに寝そべっていた。彼の息遣いは静かで、こちらからは起きているのかどうかよくわからない。

 

「もしおれが女の子だったら、普通に付き合えてたのかなあ。」

 

独り言のようにそっと、彼の後ろで問いかける。彼はなにも言わなかった。ただ私の言葉だけが虚しく、彼の部屋に余韻をもたらす。

 

それからしばらくして、アラームが鳴り響き私たちは目覚めた。ついさっき起きたことをなにもなかったかのように振る舞い、身支度をして学校へと向かった。教室に着くと、いつものように皆がおはようと声をかけてくれて、私の意識はやっと日常へと戻ったような気がした。

 

彼とはその後、普通の態度で接した。やけに愛想良く振る舞うのではなく、逆に互いを遠ざけるのでもなく、普通に。そつなく日々は過ぎ、私はあの日の出来事を何度か夢に見た。その度に思う。彼にとって、私とはどういう存在なのか。あの日のことをどう思っているのか。答えがあるなら教えて欲しい。

 

5月も終わり、梅雨の気配が近づく頃。私の人生にとっての重大な、それでいて最も悲劇的な出来事がもうすぐ起ころうとしている。さんざめく日常と、私の孤独な芯の部分が対比する。光だろうか。嫌に生ぬるい情感が、のしかかるようにして私の足を引っ張る。上っ面の憧憬。簡素な、悲鳴にも似たけたたましさ。それらはさらなる足音として、私を追いかける。大学2年の夏がもうすぐ始まろうとしている。そんな矢先にどうして、あんなことが起こらなくてはならなかったのか。宿命が、囁きかける。

 

「君のやったことはレイプだよ。それ以上でも以下でもない。君には罰を与えなくてはいけない。欲望のままに走った人間の愚かさに、吸い寄せられて息絶える。そうして耐え難き苦悶の果てにようやく、一筋の光が見えてくる。琥珀色の雀が鳴いて、ぐるりとこちらを覗き込む。先は憂い、しばしの陥落。崩壊の足跡を縫って祝えよ。神に甘んずることなかれ、静粛に、清らかに、慎ましくあれ罪人よ。」