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『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』感想

※ネタバレ含みます。

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かのホモは、浅原ナオトさんが書かれた小説で、NHKでドラマ化もされました(タイトル、変わっちゃったみたい)。あらすじを抜粋。

 

--世間の「ふつう」と、自分の本当にほしいものの絶望的なギャップに対峙する若者たちの姿を描く、究極の青春小説--

 

以前から気になっていたので読みました。この本の主人公・安藤純の特徴は、ゲイの青年であること。母子家庭であること。恋愛対象に父性を求めてしまうこと。線の細い系の見た目であること(最後については明確な描写があったわけではない)などがあります。正直私とかなり似ている。なので、贔屓目に読んだということを前提に書きます。

 

純粋に面白い小説でした。読み心地はライトで、テーマが重めだけど退屈にならず一晩で読み終えられました。この手の性的少数者目線で書かれた作品というのは得てして独りよがりな描写になりがちで、この作品もそうだった。しかしそれには理由がある。大きな理由としては、ゲイというのはノンケよりも約20年ブランクを持っていることが挙げられます。それはどういうことか。

 

私は21歳の時、大学で自分の性的指向をカミングアウトしました。して思ったのは、する前とした後では別の人間になった感覚があるということ。よくカミングアウトしてないゲイの心中を表す言葉として、「クローゼットの中にいる」があります。クローズドと呼ばれたりもしてますが、私のようにオープン(カミングアウトしたゲイ)ばかりではなく、当然クローズド(カミングアウトしない生き方)を選択する方もいます。カミングアウトの方法も、全ての人に聞かれたら答える、仕事先だけ言わない、ごく親しい友人以外全て隠す、隠すという認識はないが明言はしない、など人により様々。

 

クローゼットに延々と閉じ込められたらどんな気分でしょうか。まず、狭いですよね。視界も悪い。ほとんど真っ暗で、光はわずかしか見えない。暑さや寒さで息も苦しい。ゲイをカミングアウトできない環境に長くいるというのは、強制的にクローゼットに閉じ込められるのとほぼ同じ感覚です。そんな大げさな、と思うかもしれませんが、ガチです。今の日本では義務教育の15年、高校の3年はほとんどの方が通過します。その環境で性的少数者をカミングアウトして生きてる人がどれくらいいるでしょうか。性的少数者の割合は、電通lgbt調査によると2018年時点で8.9% 2012年では5.2% データだけ見るなら年々増えていることになります。詳しくはこちらをご覧ください。

http://www.dentsu.co.jp/news/sp/release/2019/0110-009728.html

 

この数字を多いと思うか少ないと思うかは別としても、100人いたらおよそ9人が該当する。40人のクラス制なら3人いてもおかしくはない。皆さんのクラスに3人いましたか?ちなみに私は北陸で、高校までの18年間で1人とも遭遇できませんでした。

 

ゲイを表立って言えないということには様々な弊害があります。大きなものだと、学校生活という人生の基盤になり得る期間ずっと、どこか他人事のように過ごさなければならないことが挙げられる。同級生が好きな女優を聞いてきても心底どうでもいいし、教師の進路相談でも、結婚してしっかりとした家庭を持つことが前提としてあります。ましてやホモイジリとか平気で存在する。結構めな地獄じゃんね。そういう環境でずーっと過ごしていると、諦観してきます。嘘つきたくなくても、嘘つくの上手くなります。物事への考え方も受け身になりやすい。

 

学生は、ある時期から主体性を求められるようになります。多くは就活の時期だと思いますが、ピンぼけした学生生活を送っていると自分が何者で、これからどうしてゆきたいのかという人生の命題に答えられなくなります。ゲイの場合、カミングアウトしてない人にはほぼ全員に誤解されているので、具体的な助言をなにひとつ貰えずに大人になることもある。そこで初めて己の主体を探すのですが、これがなかなか苦しい。素直にレールに乗っても待っているのは異性愛者が前提の社会なので、定年や死ぬまでずっとアイデンティティから逃げられるかというとそうではない。

 

そのような共同体への帰属意識が曖昧な時期が、およそ20年前後続くと私は考えてます。なぜ20年かと言えば、それが日本において社会に強制的に出される年齢だから。

 

冒頭の独りよがりという部分は、その事が関係しています。まず、性的少数者の世界というのは軸となる客観性に乏しい。いわゆる"普通"の人生であれば、就職して結婚して子供を持つ持たない限らず家庭を持ち、老後は家族に見守られて安らかに死ぬことでしょうか。しかし私たちにはそういうロールモデル・指標がありません。一体どうすれば良いのか。インターネットにはたくさんゲイがいるけど、皆老後どうするつもりなんだろう。どこに行ったらそういう話が聞けるのか。二丁目?ならどの店に行けば良いのか。自分で行動を起こさないと強制的にクローズドのままです。今の性的少数者の著名人たちが言っていることも、全て私はこうだったという主観です。私たちは主観でもってしか我々を語れないのです。

 

浅原ナオトさんが書かれたこの本も、主観に満ちてます。学生生活を楽しめない根本の原因をゲイのせいにすることも、未成年のくせにおじさんと関係を持って犯罪を正当化することも、周囲の人々があたかも主人公たちに興味を持っているかのように描かれていることも、全部主観です。でも私はそれでいいと思っていて、私たちはどうせ主観でしか語れないのだから、それぞれが究極に主観を突き詰めていけば良いのです。それこそが、今の性的少数者が幸福を追求する唯一の方法かと思います。

 

究極の主観というのは芸術のことでもあります。この本は、本当に大したことは書かれていません。主人公は物語のラストで自身がブログを始めることを告白します。それがなんだか大層なことであるかのように書かれていますが、なんてことありません。ただ学校生活で色々あったゲイが内省してブログを始めるだけのことです。たったそれだけのことが、こんなにも感動を生みドラマ化もされ多くの読者の涙を誘うということが、私は悲しかった。それほどまでに、世の中の誤解は激しいのだと思わされたから。私たちはただ生きているだけで文芸になりえるのか。もしも芸術の神様がいるなら、私たちのことを何だと思っているんだろう。

 

思うに、なぜ主人公たちは正しく理解されたがっているのか。物語の中で、学校の卒業式のスピーチをジャックして、全校生徒に腐女子である「彼女」が自分語りするシーンがあります。なぜ、そうまでして正しく理解される必要があるのか。私自身は性的少数者はあくまで"誤解"をされているだけで、"理解"されていないわけではないと思っています。理解のされ方が気に入るか、気に入らないかでしかないのかなと。気に入らない理解のされ方だから、武力行為に出てまで叫んだ。とするなら少し横暴と思う。順当に考えるなら、そこに人の死が絡むからと思います。心無い誤解で、誰かが傷ついて死んだりすることが許せないのだろうと思う。それは、私も同感です。誰も等しく、個人の幸福を追求する権利があるから。

 

しかし、個人の幸福の追求のために全員から正しく理解される必要はない。不理解には対話を試みればいい。もし生存を脅かすような誤解をされたら、逃げればいい。逃げて逃げて、性的少数者が認められやすい場所に行けばいい。Twitterの漫画家もちぎさんのように、バイクで東京まで家出すればいい。美大に行けばいい。インターネットに居場所を作ればいい。自殺に追い込まれてるなら、坂口恭平のいのっちの電話に掛けてみればいい。君が死ぬくらいなら、親を捨ててでも生き延びたほうがいい。他の方法を全て試してみる前に、自殺という手段を取ってしまうのは悲しすぎるじゃないか。真の理解のために払うコストは余りに大きく、リターンが少ないと思う。それなら初めから、人はわかりあえないものと信じて、理解者探しをすればいい。

 

作者は、この本の中で"中二病"という言葉を使っていた。私はそれがしっくりきた。この物語はファンタジーだ。日本において、こんな風にクラスメイトは動かない。みんな私たちにそこまで興味無いからだ。しかし、中二病なら納得できる。そんな風に世界が自分たちに注目して、なにかが変わればいいという、ある意味受け身の思想。主人公の安藤純は、こじらせた一般的なゲイの青年だ。私はそれに共感できた。こんなに脚色されないこじらせゲイのジュブナイルが描かれた作品、他にあっただろうか。読んだ後、わかるわかる〜自分もこんな感じだった〜と言えちゃうリアルは確かにあった。

 

ゲイじゃなくてもそういうことあるよ。と言いたくなる人もいるかもしれない。その通りだと思う。別に性的少数者に限らず、学校という仕組みは多数派と少数派を浮き彫りにするからだ。私だって声をあげたい!と、誰かがこの本を読んで思ってくれるなら、それは作者にとって理想なんじゃないか。私がもしこの本を書いて、誰に向けて書いたのか問われれば、そういう返しをするだろう。この本には、あらゆるはみ出し者が経験していく普遍的な痛みが描かれていた。

 

怖いのは、はみ出し者への共感値が高い作品の影響力が増していることだ。社会全体で、ロールモデルが失われつつあると思う。終身雇用とか家族とか年金とか、そういう共同体を信じて死んでいける確信を持ってる人はどれくらいいるのだろうか。私は持てない。それはゲイだからでもあるし、日本の今の若者だからでもある。社会の基盤自体がギシギシと音を立てている気がしてならない。そして私自身が、そんなことはおくびにも出さず毎日楽しいよ〜って顔で生きてる若者の1人であることが怖くて仕方ない。みんなこれからどうしていくのだろうか、本当に。

 

 

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ここまでは、この本を読んだ人ならなんとなく共感して頂けそうな大まかな感想です。ここからは、私が個人的に引っかかったポイントを考察します。

 

"主人公の安藤純はなぜ、作中で自身の陰茎のことを「ちんぽこ」と言ったのか。"

 

ちんぽこ。作中で何遍も繰り返し呼称された、この"ちんぽこ"という表現。なぜ、ちんぽやちんこではダメだったのか。ちんぽこって、ちょっと間抜けすぎやしないか。お前のペニスだろ!

 

ちんぽこという響きにはどこか自嘲的で、諦めのようなものを感じます。はいはい、どうせ僕のはちんぽこですよ。とでも言いたげな、主人公のニヒルな顔が浮かぶ。しかし、それなら別にちんぽでもよくないか?私だったらちんぽという。そっちの方が可愛いからだ。端的に、下品じゃないか?主人公の安藤純は、かなり潔癖ぎみに描かれた繊細な人物なのに、ちんぽこだけが浮いて見える。ちんぽこ。理由をいくつか考えてみよう。

 

・安藤純の陰茎は、短小だったから。

 

わかる。短小のちんちんの持ち主なら、ちんぽこという表現は似合う。竿より玉の方が大きいくらいの、赤ん坊のようなちんちん。ふにふにしているのなら、ぽこを付けたくもなる。ちんぽだとぶってぇ感じするし、ちんこはノンケっぽい。ちんぽこは、あらゆる陰茎表現の中で最も幼児性に溢れている。うん、でもなんか納得いかない。安藤純が短小であることは、物語になんの因果もないからだ。なのに、メタファー的にオラオラとちんぽこが散りばめられていた。そこまで拘るなら、他の意味も考えられそう。

 

・ちんぽとちんこのいいとこ取りをしたかったから。

 

なるほど。"ぽ"と"こ"の合わせ技というわけね。わからんでもない。ちんぽとちんこは表現としてありふれていて、フックにならないからだ。男性器には遊び甲斐がある。言葉としても様々な呼称があり、隠匿的でもおおっぴらげでもドンと来いだ。受け皿が広い。キャッチーだしチャーミング。女性器はなんていうか、色々と怒られそうで怖い。形はちんちんより複雑だし、民間伝承には男性器を食べるヴァギナ・デンタータという怪物もいる。食べられ役のペニスの方がなんというか、護ってやりたくなる。そういう存在性の強調という意味ではちんぽこで成功していたのかもしれない。私も現に引っかかったわけだし。フェミの方は本当に怒らないでください。

 

・ギャグだったから。

 

ああ。まあ、ギャグなら、ホントもうそれ以上踏み込むことないって感じですよね。ずっとシリアスが続くと疲れるし。小休止がてら、ちんぽこって茶目っ気だしてバランス取りたかったとかなら、まあ…。いやでも、ギャグにしてはいささか品がない。これではコロコロコミックではないか。もし下品さを出したいのなら雄魔羅とかでもいいじゃん。むしろそっちの方が振り切ってて面白いじゃん。なぜちょっと照れたのだ。もう恥ずかしがることないだろ、踏み切れよ!あと、冷静に作者は全方位に理論武装してる感じのガチガチの中二病と思うので、そういう人が大した意図なくふんだんにギャグを盛り込むだろうか。余計な引っ掛かりを生むし、狙いではないと思う。却下。

 

・安藤純には去勢願望があるから。

 

これは作中では一切触れられてないし、憶測でしかないです。去勢というのはそのままの意味で、自分のちんちんを取り去ってしまいたいということ。いやいや、性自認がゲイなのに、ちんこを取りたいと思っているわけないじゃないか。それだとニューハーフ(トランスジェンダー)ではないか、と思うかもしれない。待ってほしい。なぜ私がそう思ったか。

 

まず、安藤純はM気質であること。これは安藤純の恋人であるマコトさんとの会話でも伺える。マコトさんがお父さんモードに入ったときに言う「おいで、純。」や、「父さんの言うことが聞けないのか。」というセリフ。これに対して安藤純は股間のセンサーがビンビンに反応しており、さらに「それは、ずるい。」とすら述べている。これは、安藤純がマコトさんに対して性的に支配されたいと思っていることの証。マコトさんは既婚ゲイという、この作品内ではかなり保守的思想の濃いキャラとして描かれている。そして、安藤純のメール相手であるミスター・ファーレンハイトは、マコトさんと対比するようにリベラルだ。ポリコレ的発言も多く、作中では安藤純の生セックスに対して不快感を表すシーンもある。安藤純はどうかというと、一貫してニュートラル(中立的思想)である。これは、主人公という立場のため共感性を持たせたいという理由と、物語を展開しやすくするためなどもあるだろう。物語終盤まで、マコトさんと安藤純はセックスを通じて、支配する側とされる側でわかりやすく対比して物語は進行する。その合間に傍観者として揺さぶりをかけるミスター・ファーレンハイトの言葉。安藤純は、誰の色にも染まってしまいそうなほど危うい。しかし、終盤で安藤純はマコトさんと別れることを決意する。

 

青年は自立した大人になる過程で、親殺しを経験する必要がある。殺すとは物騒だが、要は心理的な反抗期のことだ。親の支配下にあっては子供はいつまでも自立できないため、支配側への決別をする必要がある。その形は人によるが、安藤純の場合はマコトさんに別れを切り出すことがそれだった。裏付けに、物語中盤まで安藤純がしきりに言っていたちんぽこという表現は終盤では出てこない。安藤純のちんぽこ表現はマコトさんへの隷属性を示していて、それはちんぽこという幼児的な言葉と同期している。物語終盤でちんぽこ言わなくなるのは、安藤純が自身のちんぽこを心理的に去勢させたからではないだろうか。

 

--"ちんぽこは、安藤純の父性への執着心。その未練を断ち切る行為を、彼は望んでいた。それを実行できない屈辱ゆえに、男性の象徴ことペニスを自嘲的にちんぽこちんぽこ連呼していたのだ。"--

 

上記が私のちんぽこへの見解です。ここからは余談。

 

私は、最近になって自分のことを"ほぼ"女子だと思っている。99%女性で、じゃあ残り1%の男性はどこなんだと聞かれたら、自分のちんぽを指差す。私を構成する男性要素はもはやちんぽのみになったと言ってもいい。それは私が社会的男性であろうと頑張った末に諦め、男性性を降りてしまったことが理由として大きい。男、や〜めた!したのだ。なぜかと言えばその方が楽だったから。同じゲイの友達ができて、OLみたいな悩みを共有して、アゲアゲ言ってる方が気が楽だから。私は魂の容れ物が男性なだけの、魂は女性なのかもしれない。もしこの容器が女性の体であったなら、私は女性ですと言っていたかもしれない。私にとってゲイとは些細な要素でもあるのだ。ちんぽ取りたくなくても、女性に近いゲイはいる。

 

ホゲというのは、ゲイの人が良くする仕草のことです。口に手を当てて話したり、脇を締めたり、腰で歩いたりすること。ゲイは男性的にみられた方がモテるから、ホゲを嫌う人もいるけど私はあんまり気にしてません。気にしない人と一緒にいる方が楽しいから。ホゲはゲイの生存戦略としてかなり有効だと思う。だってめちゃくちゃストレス解消になるもん。

 

あと私、よくゲイの方に「ゲイに見えなーい!」と言われます。なんでかは知らないけど、言ってくる人の中には「普通、ゲイはこうだ!」という画期的イメージがあるのだと思う。私にはそんなものない。なぜゲイを自認してるんだと言われれば、それ以外しっくりくる呼び方がないからです。ゲイの世界にも馴染みきってるわけじゃないけど、今までで一番しっくり来てるし。別にゲイらしくしようなどのこだわりもないから、自分がしていて心地いいことをしていたい。ほんと言えば、がみにゃんって生き物なんだと覚えてもらえる方が嬉しいけど、皆に強要はできないし。ゲイのがみにゃん君でも、がみにゃん君はゲイでも、なんでもいいよ。みんなに覚えてもらいたいからこういうこと書いてるんだよ。

 

さいご。

 

--"かのホモは予備知識なしでも読みやすいです。ゲイにまつわる知識も、私のブログなんかより遥かに丁寧に書いてあります。読んだ人いたら感想言い合いたいって思う。わからない人に気持ちを向けるより、わかる誰かを見つけてスイスイと生きていけるようにしたい。人生って一緒に踊れる仲間を見つけて、そこで楽しく踊るだけなんじゃないか。マジで。"--

 

私はこれ本屋に在庫なかったのでAmazonで買いました。ご参考までに。