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ちんぽとケツのエチュード

以前、シシヤマザキというアーティストが所属している制作会社に勤めていた。

 

彼女はビデオグラファーで、ロトスコープという映像手法を取り入れたアニメーションを作る作家だ。私はシシさんの作品を以前から知っていて、大ファンだった。どことなくおかしみのある表情を浮かべた女体が所狭しと動き回る様子は非常に大胆で、唖然とさせられる。滑稽なのに、なぜかそのとっ散らかった動きはある法則を持って一つの方向に向かっているように見えたし、理知的なポイズンをキャッチーに放っているように見えた。言わんとしてることしか存在しない世界観で、色も形も動きも全て大正解な、はち切れんばかりの魅力に包まれた作風だった。

 

私はなんやかんやの巡り合わせでそこに行き着き、シシさんの制作風景を間近で見ることができた。シシさんは、作品だけを知っていると結構ギャップのある女性なのだが、そこもやっぱり素敵で、なんていうかたまらなかった。見てるものとか考えてることが世の中の理から完全にずれていて、でもそれを持ち前の知性で全部カバーして、狂気と秩序が見事に共存しているような人だった。おもしろすぎて、でも笑うのは違うから必死に我慢してたけど、それでも思い出すたびにひっくり返りそうな言動をたくさんされていた。

 

「お尻は顔なんですよ。」

 

シシさんは思い出したかのようにそう言っていた。なんでわからないかなあ!って怒っていた。私はその一言が衝撃すぎて、ずっとそのことを考えていた。冷静に考えて顔なわけない。でもなんか妙に説得力がある。尻って、人間の部位の中でもかなり魅力的な部位だよなあ。みんな恥ずかしいから表に出さないけど、あんな脂肪の塊が二つ引っ付いてぶるぶる動いているのだと思うと魅了される気持ちはめちゃめちゃわかる。シシさんの作品にはお尻という部位が持つ『おバカ』で『丸出し』な魅力を隠すことなくあらわにしちゃってるような、そんな真実味があった。

 

人間は成熟したエロスを持つと、性器よりケツに興味を持つって話を聞いたことがある。最初はちんぽが好きでも、だんだんと、気付かないうちに、膨れ上がった欲望はケツをあらわにしたい気持ちに変わる。一番大胆で無防備で、底抜けな明るさを伴ったどっこいしょ観を、どっこいしょしたくなる。やいのやいのしたくなる。

 

かくいう私もケツが好きだ。つるんとした形や触れた時の心地よさは下腹部と近くて、安心する。ダイレクトに心に飛び込んでくるような、たまらない幸福さを感じる。私はあんまり性欲を表に出すことをよしとしてないのだが、もちろん性欲はあって、それなりにしたくなるし、している。ただちんぽを見つめる時のきらめきとお尻への愛は性欲で一括りにするにはまた違う良さであるよなとも思うのだ。

 

ゲイの人って、めちゃめちゃカジュアルにポジションの話をする。男役?女役?って、無邪気に聞いてくる。私もバーで働いてた時よくそういう質問をされたんだけど、その度になんか上手く答えらんなくて、苦笑いしてた記憶ある。タチウケがはっきりと自分の中で分かれてるとは思ってなくて、サドはマゾを兼ねるみたいに、相手によって合わせたいというか。それこそ性別みたいにグラデーションでしょうよと感じていた。たまにゲイの人がセックスの相性で付き合う人を選ぶみたいに言ってるの見て、まじかと思った。そんなことで好きな人とお付き合いできなくなるのなら、別にセックスが気持ち良くなくてもいいやくらいに思っていた。

 

私って、自分の心とか脳とか身体とかちんぽとかって全部別々に存在しているんだって感覚が昔からあって。それが見えない金継ぎされてなんとなく一体に見えてるだけで、ふとした拍子にばらばらになっちゃうものだって思う。脳はものすごく頑固で平気で気持ちに嘘つくし、心は剥き出しすぎて常にぶるぶる震えてるし、ちんぽはなんか、犬みたい。

 

一番厄介なのは身体で、私は私の身体ってデパートのゴーカートみたいなものだと思ってる。あのクソ運転しにくいやつ。こう動きたい!って思ってもハンドルゆるゆるで、全然操作している感がない。曲がろうと思っても直進するし、一度曲がり出すと止まらない。私にとって体育の授業ってそんな感じだった。みんなはオートマの車に乗ってるのに1人だけゴーカート、みたいなぎこちなさを常に感じていた。

 

でも私はなぜか、アニメを描くという行為になると身体性を発揮できる人だった。こう動きたい!って意思を結構そのままに投影できるというか。みんなが気持ちいいリズムというのがわかるし、なぜか正解が見えてる。心の赴くままに気持ちいいを探ると、自分でも驚くほどに生命感のある立体的な動きが出来上がる。逆に、技術的に上手いアニメでもそこに作者の身体性が投影されていないものはすぐわかる。機械的っていうか、表層的っていうか。人間ってこういうふうには動かないんだけどな〜ってなるケレン味というか。きっとそういう人はアニメを見てアニメを描いてる。自分の中の答えを探らずに、ただ結果が欲しい人なのだろう。認めてもらいたそうな雰囲気を常に感じるから、そういう人はあんまり褒めたくないっていうか。出直しな!って言いたい。

 

シシさんのアニメにはそういう、運動神経の悪さがもろに出ている。実際シシさんは運動音痴だと自分で言っていた。私みたいな人が他にもいるんだ!って思えてちょっとだけ嬉しかった。私は運動ができないが、アニメという表現の場においては存分に踊れる人だった。なぞに挙動不審な人がいたらその人はきっと挙動不審なアニメを描くのだろうし、自分の作ったアニメに対して「がみーの動きとそっくり!」という感想をもらったこともある。しかし不思議と、平面世界に落とされた奇妙さというのは心地よさにかなり近いものとなる。

 

スポーツって、なんか100点取らなきゃいけないテストみたいで嫌だった。この場でこの動きをしたら誰でも勝てる、みたいな隙のなさというか。それを努力でコーティングしたら、みんなの理想のスポーツ超人が出来上がる。もちろんとても凄いことなのだけど、合理的すぎてあんまり共感できない。

 

私が好きなのは、ダンスとかフィギュアとか、そういう正解のないものだった。教科でいうと国語とか。著者の気持ちに正解はないし、30字以内で述べよはコピーライトみたい。遊び場だけが存在していて、ルールがあんまりない感じ。ルールで縛られると私の持つ魅力は存分に発揮できないのだなと、今こうして言葉にすることで腑に落ちていく。逆にルールにがんじがらめにされた方が燃える人もいるのだろう。IPPONとかボケてみたいなお題が全てのものとか、デザインみたいな清潔さとか。

 

合理的でないものの方がやはり自由なのだと思う。私は自由の中でしか生存できない、なんか変なやつなのだ。まっさらな白紙に色々表現することはできても、それ自体は別に金産まないし。あくまで投げ銭貰うの気持ちでいたいっていうか。勝手に湧き出てくるものを外に出しているのだからそれに見返りを求めるのは違うっていうか。いいねくれたらありがとうだし、貶されたら知らんがな。君が勝手に見にきてるんだから、それで気持ち良くなろうが不快になろうが知ったことではない。私は私の正解をやっているだけなので、結局他人がどう思うかでしかない。だから、お客様気分の人とか評論家とか、突発的な奔流に必ず付随してくるグロテスクさについては、なんか白い目で見ている。別にいても良いけど、君が偉いわけではないんじゃない?

 

ただし、そういうわがままさを押し通すにはかなり慎重に、場所や行動を選ばなければいけない。例えばTwitterは、リリース当初は陰気な人しかいない遊び場だったが、今は公道。規模がでかいものは往々にして、空気というものでその場を支配し出す。あいつ、空気読めなくね?とでも言いたげな同調圧力というか。狂人を指差して笑いたがる定型発達者の感覚というか。成熟したSNSは全部、かつての輝きを失い斜陽に落ちぶれている。たぶん、もっと面白い遊び場ができたら速攻で廃る。まるで今の日本のように。

 

結局支配したがる人が現れた時点で不毛なのだ。合理性で地方を駆逐していくイオンのような外来魚。そう言ったものから逃げるにはもう、家を建てるしかない。そこに閉じこもるしかない。できるだけ災害が来ても大丈夫な、かつとても文化が発展している多様性だらけの場所に。

 

私の場合、ブログがそれだった。私の気持ちは140字なんかに収まんないし。いろんな文化が入り乱れる街の、三叉路の先のうす暗い家。ぱっと見では誰も入りたがらないが、よく見ると小さな看板があり、そこに書いてある文字が美しい。そんで勇気を出して扉を開けてみると中は意外と暖かくて、橙の照明が効いてて。カレーの良い香りとちょっとした本棚なんかもあって。そこからくたびれた顔したじいさんが出てきて、無言でメニュー表を渡す。その飾り気のないミルクティーがまた美味しいんだ。

 

そういうひっそり感というか、隠れ家感というか。道楽でやってそうな気が抜けた感じとか。私ってそういうものが好きだし、必然性しかない気がして、そういう小さなきらきらがたくさん詰まった家みたいなものを自分も建てたいって思ったんだよな。でも私のフィールドは平面にしかないし、どうしようって思ってたらなんかここに辿り着いた。

 

もちろん、そういうわがままな人を大衆は嫌うから、全然人は集まらない。クリックしないと辿り着けないものなんてわざわざ見ない。みんな口を開けて、餌を待ってる魚のようにタイムラインを見てる。もちろん私だって見るし、そういう便利さを享受してる張本人だ。だけど、なんていうか私の元々の出発点はそうじゃなかったんだよな。ネット黎明期特有の、遊び場だけがあって自分で全部決めなきゃいけなかったあの感じ。クリックを繰り返して個人サイトをワープしたあの感じ。ああいうアングラ感が私にとって居心地が良かったし、かつてのネットは確実に今よりも面白かった。みんなバズりたいとかいいね欲しいとか言わないし。顔を晒す人も全然いなかったし。もっと純粋な、探究心だけがそこにあった気がして、美しかった。

 

もちろん思い出を美化してるだけじゃんとか言われても仕方ないし、今のYouTubeにそういうものがないとは言わない。でもなんか、TikTokとかのデカめのきらめきを見ると、本当かなあって思う。ああいうものだけ見て洗練されちゃったら、どこにも気持ちなんて無くなっちゃうんじゃないだろうかって、おじさんみたいな気持ちが湧く。余計なお世話だよね、ごめん。

 

ほんと、手間ひまかけてわざわざ読みにきてくれる人はありがとうだし、そういう人が退屈しないようなことをしたい。だから私は見返りなんか求めずに書いてる。自分でもよくわかんないものを。自分の肌に伝わる確かな手応えだけを信じてやってる。今の時代からしたら非効率で面白くなくて、理解できないものかもしれないけど、そういう散らばった破片みたいなものしか自分を縁取らないんじゃないか。そもそも自分なんてものがなくても苦にならない人は、そのままAYUみたいに輝いていてください。どこまでいっても、なにをやっても付きまとう自分の正直さに素直に、物事をやっていきましょうや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何の話だっけ?ああそうだ、ちんぽとケツだった。

 

ちんぽっていいよね。佇まいが謙虚で、ちょこんとしてて。人間についたこんな小さな部位をみんなこぞって気にしてるのもなんかおかしな話で。初めて他人のそれを見た時は、私は焦ってたしとにかく必死で、ぜんぜん魅力的に見えなかったけど今は違う。もっと大らかなものになったっていうか、ある程度の関係性ができた人になら全然見せてもいいなくらいのカジュアルさになった。

 

私の今の興味は、やっぱりケツだ。いや別に性的な話とかじゃなくて、いや性的な話でもあるんだけど。つまり探究心の問題なんですよ。あんなに謎めいた密林感のある部位ほかにあるか?どこまで行っても掴みどころがなくて、そのくせ魅力だけはとんでもなくて。お尻みたいな人がいたら絶対好きだし、きっとシシさんはそういう意味で言ったのではないかな、お尻は顔なんですよって。

 

人が見て、触りたいって思えるものを作りたい。柔肌はいつまで経っても心地いい。抱く側抱かれる側なんてどっちでもいいよ。触れたという実感さえあれば、私たちはどんなに離れていても繋がれるのだから。

 

肌色の持つ伝達性。結局見てしまうものやことこそが君らしさだし、そこは素直でええんでない?美しいものだけ見ていたい時もあれば、醜悪さにゲラゲラ笑いたい時もある。そんな気まぐれな、天気みたいな心持ちで生きようよ。晴れしかないとか気持ち悪いし、雨しかないと不便だし。自分が見るものを自分で決めちゃうのは正解のようで不正解。そうじゃなくて、もっと開けた心でバンザイして、背筋のこりをほぐすような感じ。受け入れて物事を見れば私たちの世界はどこでだってたぶん、きらきらしてる。綺麗事かも知んないけど、気の持ちようってやっぱり大事。平気じゃないことに平気なふりするのはやめにして、楽しいハッピーをやりましょう。自分を救うのは自分だけなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、私がシシさんの作品で一番好きなのはこちらです。気になったら見てほしい。

 

『ああ/良い』