がみにっき

しゃべるねこ

MENU

就活失敗したゲイだけど死なずに生きてる 1

動け。動け、動け、動け、動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動けう ご  け   よ私、頼むから、お願いだから、やってくれ。動いてくれよ。今日を逃したら人生が台無しになるんだ。今日頑張れば、明日も頑張れるから。頼む、死にたくないんだ。なんのために大学来たんだ、この為にだろ!お願いだから、未来の私のために、頼む。動いてくれ、私の体、おねがい、おねがいだから、がんばってく れ   よ

 

 

 

 

 

 

 

ベッドの上で、私は呻いていた。体が重い。まったく動けない。昨日ちゃんと睡眠を取れなかったせいだ。時間は、朝の8時。ポートフォリオの締め切りは明日だが、地方に住んでいる私にとっては速達で郵送しなければ大阪本社に届かないため、実質デッドラインは今日の午前中。製本は、半分ほど終わっている。死ぬ気でやれば、まだ間に合う。一次試験は簡単に通ったんだから、二次のポートフォリオ審査もいけるはずだ。私が本気を出して、通らないわけがない。受けたら受かるんだ。受験の時もそうだったじゃないか。本気で臨めば結果はついてくると、お前なら分かっているはずだ。そのために準備してきたんじゃないか。この日を逃したら全てがダメになるぞ。なんのためにここまで来たんだ。全部、就職するためだろ。

 

頭の中でぐわんぐわんと声が鳴る。さっきの声は、自分の思考だ。煩い。黙って寝かせろ、私は眠いんだ。この声は、きっと私の体からの本音だろう。

 

昨日もそうだった。早く寝なければ、製本に間に合わない。印刷も、全部はできていない。逆算して、いつも成果を出せるように取り組んできた。なのに私の体は言うことを聞かず、延々とスマホで検索をかける。

 

"就活 つらい"

"生きる意味"

"死にたい" 

"鬱"

"過眠"

"休日 なにもできない"

"人生 詰む"

"ゲイ 老後"

"若者 希望"

"社会 おかしい"

"家族との和解"

"日本の未来"

"できるはずのことができない"

"どうすればいい"

"助けて"

"誰か助けて"

"死にたくない"

 

検索結果のトップに、0570-064-556の番号が表示される。こころの健康相談統一ダイヤルだ。つまり、いのちの電話。私はそんな一斉送信の助け舟を一笑する。私って、そこまで追い詰められてるんだ。ぜんぜん平気なのにな。こんなのいつものことだし。と他人事のように検索結果を眺めていた。しかし、内心は焦る。確かに、いつもの私なら追い詰められたら尻に火を付けてやるのだ。教授にも何度も希死念慮を仄めかしたことはある。その度、

 

「偉いよ。坂上君はそういってちゃんと毎回結果を出してくるから。」

 

そういって、褒められてきたじゃないか。私はやればできる子なんだ。今回も、イメージは全部掴めてるんだ。後は受けるだけなんだ。イメージ通りやればいい。今日死ぬ気で製本して送って、返事を待つ間に次の作品を作ればいい。アイデアは沢山ある。実行するだけだ、それだけのことだ。

 

頭では分かっていた。なのに、どうしてか私の体はテコでも動かなかった。就活真っ只中という、人生で一番肝心なときに、まったくいうことを聞いてくれなかった。

 

瞬きも忘れてスマホを凝視していると、時間があっという間に立つ。脳がガンガン酷使されるが、不思議と疲れを感じない。そうして24時間くらい経った後は、そのまま20時間くらい寝る。何回にも分けて、浅い眠りを繰り返す。その度なぜかエッチな夢を見た。夢から覚めて、なにも出来上がっていない現実に後悔するが、スマホは手放せない。そうした生活サイクルを繰り返していた私は、人生で一番大事な時間を無意味に消費していた。

 

私はその日、第一志望の会社の二次試験をバックれた。

 

 

 

 

 

人は後悔をする生き物だと聞いている。しかし、私はそんな状況になってまで、不思議と後悔はしてなかった。というか、しないようにしていた。

 

「人生で後悔したことない!後悔したら、不幸な結果まで引き寄せちゃうし。」

 

そんなことを同級生に吹聴してきたのだから、今更後に引けなかったのだろう。しかし、結果どうだった?と聞かれるのが嫌で、教室には顔を出さないようにしていた。それが、大学3年生の冬。

 

あまり言ってはいけないことになっているが、特定の大企業には就職解禁時期より早めに選考を始めているところがある。私の大学は企業とのコネクションが強く、OB訪問を引き受けてくれる卒業生が多い。学生が個人単位で連絡を取り、密かに作品を見てもらう。美術大学の生徒にとって、ポートフォリオという言葉は何遍も繰り返し呼称され、煩いくらい脳みそにこびりついている。人生の経歴書のようなものだ。今まで作ってきた作品を企業に見てもらい、点数付けしてもらうため、写真を撮りデータを並べ、文字を組み印刷する。さいごに、心血注いで製本する。5万するプリンターに、1セット5000円するインクをセットする。選別した10枚数千円の紙をホームセンターで買い、一番見栄えが良くなる方法で印刷する。全面に写真などを印刷した場合、A3用紙10枚も擦らないうちに特定の色が切れたりする。そうなるとまた切れた色を買い足す。提出前の締め切りピークの時は、ホームセンターに行く時間が取れないため、途中で切れても問題ないように多めに買い揃える。ひい、ふう、みい…占めて2万円のインクの束。

 

なけなしのバイト代と奨学金を費やして、完成目前まで来たポートフォリオを提出せずにゴミにした。

 

 

 

 

美術大学には金持ちのイメージが付きまとう。しかし、私の家は母子家庭だ。小さい頃に両親は離婚したので、大人になってから当時の写真を見せてもらうまで父親の顔を知らなかった。なぜ離婚したのか、親に聞いたことはある。帰ってきた答えは"プー太郎だったから"。当時のことを母が話してくれた。

 

私が物心つく前に、高校を卒業してすぐの私の父は、地元で店を開いたそうだ。居酒屋と、バーと、雑貨屋をミックスしたようなお店。それが、開店して間もなく潰れた。潰れた理由は、店の壁をぜんぶ真っ赤に塗ったから。

 

「あの当時、この辺で出す店にしては斬新すぎたのかもね。」

 

と、母は笑って言った。

 

店が潰れてからしばらく、父は働かなかった。息子の為にも働いて欲しい。と、何度も伝えた母の思いを無視して家にこもっていたらしい。わずかしかない父との記憶の中に、父に抱きかかえられながら薄暗い部屋で、ドンジャラの牌を物珍しく眺めていたことを思い出す。父は麻雀が好きだった。賭け事とプー太郎という言葉はどことなくクズ男を想像させる。最も、写真で見る限り私の顔は父とそっくりなので、父がクズ男なら私にもクズの遺伝子が受け継がれていることになる。たまったもんじゃない。

 

そんな父を見かねて、母は離婚を選んだ。

 

日本で女手一つで子供を育てるのが容易ではないことは大人になってから知った。母親は化粧品店での仕事を昼勤で持ち、今でも働き続けている。しかし、給料は当時からほとんど変わっていないとのこと。貧乏な家には物が多いとは言うが、我が家ももれなくそうだった。服、化粧品、ゲーム、漫画、おもちゃ…外食も多い。母子共に欲を抑えられないせいか、生活費が足りなかったのだろう。母は他の仕事を掛け持ちしていた。アパレル、ホステス、消費者金融、キャバクラ…最近になるにつれて怪しい仕事が多くなる。

 

「お母さんが消費者金融で働いてること、友達には言わないでね。」

 

それが母の口癖だった。

 

そんな私の家からでも美大に行けた。なぜ貧乏なのに美大に行きたかったかというと、絵を描くこと以外に特技がなかったから。勉強することの大切さを全く教えてもらわず育った私は、ゲームばかりしていた。宿題は全部答えを写してやる。それで、小学校まではなんとかなった。しかし、中学で成績がガタ落ちした。原因はインターネットだ。私は性自認がゲイなので、学校生活で本音を出せる人がいなかった。その為、インターネットでゲイの人が喜ぶような絵を描いて投稿し、居場所を作っていた。帰宅後すぐパソコンを開き、絵を描くかネトゲをするかのどっちか。深夜まで起きていたため、中学の授業は全部寝た。

 

そんな破滅的サイクルで生活していたため、私は県有数のバカ商業高校へ進学した。なぜ商業かと言うと、高卒で就職すれば親が喜ぶと思ったから。しかし、校則は厳しく、男子は全員坊主かスポーツ刈り。女子のスカートは"膝下"20センチ。スケバンかよ。クラスは猿山で、ボスが喚き散らす。授業中にGReeeeNを歌い出すのにはさすがに頭を抱えて、少し勉強したらテストでクラス1位になった。

 

入学早々に、早くも地獄の高校生活になることを確信した私は、通学電車の窓に息を吐き、白くなった場所に指で"死 に た い"と書いた。そんなだから、最初の1年間はクラスで誰とも話せなかった。いや、正確には話しかけようと努めた。しかし、伝わらないのだ。

 

「この前のあの映画みた?俺、猛烈に感動したんだよね〜。」

「えっ、お前、猛烈って。そんな言葉使うんだ。すげーな笑」

 

意味がわからない。使うだろ。てめえの語彙力が、無いだけだろ!あ?なにニヤニヤしてんだよ。あ"?????おい寺◯!!!てめえなにニヤニヤしてんだよ。おい、マジ、ふざけんな。ぶっ◯すぞ。おい、顎しゃくれてるくせに、なあおい。まじ、ふ ざ け  ん  な    よ

 

そんな言葉が脳裏をよぎるくらいムカついた。顔が下品なくせに、脳みそまで小さいのかよこいつらは。猿山の猿には猿言語しか通用しない。ウキーと鳴かなければ、伝わらないのだ。私はあいにく人間だし、思慮深いので途中から意思疎通を諦めた。ここは動物園。辺り一面、ジャガイモ畑。そこに咲く一輪の可憐な花。それが私。

 

そう言い聞かせなければ、とてもやっていけなかった。

 

また、私の高校は部活が全員強制参加だった。バカほどなぜか運動ができる。私は運動はてんでダメで、身体測定が憂鬱で仕方なかった。だから素直に文化部を選んでおけばよかったのだが、止せばいいのに運動部に入らなければ!と拘っていた。なぜかというと、文化部に入るような男になりたくなかったから。

 

中学の時は、足が遅いくせに陸上部を選んだ。理由は足が速くなりたかったから。お陰で影でめちゃくちゃバカにされた。しかし、中学までの私は物凄く鈍感だったので、長距離ならスピードはそこまで関係ない!と意地になっていた。毎日3kmほど走っていて、下半身だけ筋肉がつき、上半身は痩せていった。不思議と、部活はほとんどサボらなかった。しかし、2年からはネトゲ中心の生活になったため幽霊部員となった。

 

さて、ここは運動だけが取り柄のバカ高校。陸上部はかなりガチだ。毎日10kmとか走らされても不思議じゃない。私はキツイ部活は絶対に耐えられないと思い、悩んだ末に勧誘された謎の部活に入った。

 

そこは応援部だった。

 

応援のおの字も知らなかったが、正直運動部ならどこでも良かった。なんとなく楽そうだし。これで、なんとか高校3年間弄られなくて済みそうだ…と安堵したが、実際はそんなことなかった。むしろ、あり得ない地獄だった。

 

まず、メンバーが最悪。自分以外4人入ったが、全員キモい。イモ顔ならまだしも、纏ってるオーラが全員不吉なのだ。主体性ゼロのヒョロヒョロした感じ。1人は40代?と思うほど謎の老け方をしている。その老け顔な男に、少し前に流行っていた深夜アニメ『ゼロの使い魔』のヒロインの良さを延々と語られた。本当に、勘弁してほしい。

 

しかし、入部したからには逃げられない。変にストイックだった私は、真面目に取り組めば大丈夫…と自分を言い聞かせた。

 

そこは部内の取り決めがおかしい。まず、下級生は校内を歩いてはいけなかった。常に小走りで過ごさなければいけない。もし歩いている姿を先輩に見られたら、制裁が待っている。もちろん、先輩のパンをパシらなければいけないため、私たちは昼休みのチャイムが鳴ったら購買へ全力でダッシュし、即座にパンを確保した。もし売り切れてたら死ぬほど怒鳴られるからだ。授業の合間の移動も常に小走り。

 

また、挨拶の仕方も独特だった。下級生は校内で先輩を見かけたら、その瞬間立ち止まって

 

「押忍ッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

と全力で叫ばなければいけなかった。廊下、教室、職員室、どこであってもそうしなければいけない。本気の絶叫なので、当然周りは騒然とする。が、お構い無しだ。"あの部活は変なことをやっているところ"と学校共通で認識されていたのか、特に何も言われなかった。

 

練習も無意味にきつくて、朝は始業の一時間前から集合して、校庭に向かって押ゥー忍ッ!と本気の絶叫。これを交代で始業までフルにやる。喉はガラガラになる。

 

応援には特殊な金属製の旗を使う。身長の倍くらいあるので、かなり重い。これは部活終わりに毎日手入れをしなければならない。

 

「てめえの命より大事に拭け。落としたら殺す。」

 

そう脅されながらピカールという専用の磨き剤で鏡面になるまで磨いた。うさぎ跳びや懸垂でヘトヘトになった後の片付けの時間に拭くのだが、先輩のチェックが通らないと帰れない。少しでも指紋がついていればやり直しだ。仮にチェックが終わっても、先輩が居残ってトランプしてたらずっと外で待っていなければいけない。そうして夜9時頃ぐらいにようやく、帰宅命令が下されるのだ。

 

そんなことを毎日毎日繰り返した。辛いことは色々あったが、1番のトラウマは先輩の松原さんだ。

 

松原さんはどことなくヤクザっぽい。背は低いが肌が浅黒く、タレ目。普通にしてれば優しそうなのだが、黒目が大きいのか白目がほとんど見えず、チンピラみたいな話し方をする。勧誘のときはかなり優しげな声を出していたので、入部後の豹変ぶりにビビった。バカリズムサイコパスにしたような顔。

 

松原さんは私たちに腕立て伏せを命じる。部活のメニューはその時の先輩の気分で決められる。その時もちょうど、思いつきで全員にきつい筋トレが課せられた。背中に重しを乗せながらこなす。上半身の筋肉が無いガリガリの私にとって、腕立てはかなり厳しい。何回やっても回数を追加され、腕が攣りそうになる。もう無理だと地面に崩れ落ちた時に、松原さんが私の腹をおもいきり蹴った。

 

みぞおちに入り、呻く。嫌なことはたくさんあったが、他人に暴力を振るわれたのは初めてだった。

 

「おい、立てよ。」

 

命令されたので顔を上げるしかない。痛みと恐怖で震えながら彼の顔を見た。

 

松原さんはポッケに手を突っ込み、ニタニタと笑っていた。

 

そんな状況になると、人は冷静な判断をできなくなる。理不尽は当然で、お前たちのためなんだ。そう、彼らは信じている。私がおかしいのだろうか。若いうちの苦労は買ってでもしろとはいうが、後どれくらい、こんなことをしなければいけないのだろうか。

 

私はほとんど意地のみで部活をこなしていた。筋肉痛で階段を登れない日が一週間続いたこともあった。授業には出なければいけないので、這って登るしかない。降りる時なんて最悪だ。私は痩せてたが、体重をこんなに恨んだことはない。大体、うさぎ跳びってなんの意味があるんだ。こんなことやって、応援に何か役立つのか。

 

遠征の時も、バスの背もたれを使ってはいけない。一睡も許されないので、必死に眠気をこらえて太ももを摘んだ。6時間の移動の後、野球場に着く。野球部を応援するためだ。野球になんて興味なかった。ルールも知らない競技の選手に向けて声を張り上げる。太鼓係がリズムよく叩く。後ろでチア部が踊っている。

 

真夏の炎天下の中、下級生の私たちは長袖の体操服を2枚重ねて着ることを命じられていた。その時の私は、1年生は一度はしないといけないという理由で、頭髪が"ごりん"だった。ごりんとは、0.5ミリの長さの坊主のこと。ほとんどスキンヘッドなので、真夏の太陽の下に10分もいると、頭部が火傷する。皮膚がジュクジュクになり、腐敗臭がするようになる。触るとねばねばして糸を引くのだ。2枚着込んだ身体は、滝のような汗をかいている。野球の試合は大体2時間くらいは続くので、その間ずっと耐える。飲み物は支給されるが、当然命令されるまで飲んではいけない。

 

朦朧とする意識の中で、私はなにを考えてたんだろう。学校も嫌いだし、部活も嫌いだ。しかし、ここで辞めても他に行きたいところもない。

 

亡霊のようだった。遠征後は頭が痛くてシャワーを浴びれないので、湯船のお湯を冷まして掛けた。

 

そんな応援部生活は、意外にもあっさり終わりを迎える。

 

キッカケは部室の先輩の一言。その時は最上級生は全員帰宅し、残っていたのは2年と私たちだけだった。2年生が、たわいもなく我々をいじる。小島よしおに似た先輩が、私にちょっかいを掛ける。

 

「おい、お前勉強できるんだってな。前のテスト何点だった?」

「96点です。」

「ほぉ〜。すげーな。天才だな。じゃあこういうのもわかるか?」

 

小島よしおは、右手をこっちに向けると、グーの形にする。そして、中指と薬指の間に親指を突っ込んだ。

 

「わかんないっす。なんですか?」

「はっ!わかんねえのか笑 おい、こいつこれコレわかんねーらしいぞ笑 お前勉強できるけどこっちは全然だな。」

「小島さん、すいません。まじでわかんないっす。教えてください。」

「ははは、お前、童貞だろ。知ってるか?ど う て い。おい、なあ!おい。返事しろよ。おい。お前、これもわかんねーんだろ?」

「いや、小島……」

「あ"!!!!??おまえ、今呼び捨てにしたな?俺のこと呼び捨てしただろ。呼び捨てにしたよな。なあ。はい罰金〜とりあえず明日先輩の分のパン全部買えよ???なあ、全部だぞ、全部。おい、聞いてんのか?おい、明日、ちゃんと買ってこいよ??」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の中のなにかがプッツンと切れた。

 

「部活、辞めます。」

 

反射的に私がそう言ったとき、小島よしおは目が点になっていた。は?辞める?え、なんで?そんな小言を言っていたような気もしたが、もうどうでも良かった。脇目も振らず家まで直行した。どうやって帰宅したのかは覚えていない。とにかく、もう私のやることは決まっていた。

 

次の日、私は顧問に部活を辞める旨を伝えた。

 

「お前、本当にいいんだな?」

「はい。辞めます。辞めた後は美術部に入るので、部活にはちゃんと参加します。割と耐えましたが、もう限界です。先輩には伝えたので、お願いします。僕は進学希望なので、辞めた後は勉強に専念します。成績がいいので、国公立目指します。お願いします。辞めさせてください。」

「……お前みたいにハッキリと辞めるって言ってくるやつは初めてだよ。仕方ない、分かった。ただお前、勉強頑張るとか言ったけどなあ。こんな学校で、勉強頑張ったところでだぞ?わかってるよな。」

「わかってます。」

 

わかってなかった。口をついて出た。別に勉強をどう頑張るとか全く考えてなかった。美術部も、他が思い当たらなかっただけだ。とにかく、今この苦痛から解放されればなんでもいい。

 

半年間の応援部生活を終え、私は美術室のドアをノックした。